『遠い夏空』/2020年青磁社刊 は『白珠』の同人である佐々木佳容子(ささきかよこ)さんの第二歌集である。私が参加している『フレンテ歌会』の先輩である。
この歌集は、四章に分かれている。章を重ねるごとに、編年体ではないということだが、著者の心情が重層的に深みを増し、それが作品として昇華されていくという印象を持った。
印象に残った作品と、特に好きな作品に、感想を書いておきたい。
Ⅰ豊かなるもの
春風にのりておとなふ夕闇を抱けばさらさらさくら散る音
「さらさらさくら」が、ほんとうは音もなく散っていく桜なのに、その散る音を聞き分ける繊細な聴覚を有しているようで印象的だ。
羽化終へて網戸に蝉の休みおりわれと分けあふ朝の静けさ
今生まれたばかりの蝉とわけあう静謐な朝の時間が神々しく、短いけれども鮮やかな蝉の未来を内包している。
宙吊りに実らせ農夫は破顔する空飛ぶカボチャたあこれのことだ
「破顔」が、やや堅い印象もあるが、歌舞伎の口上のような語り口が心地よく、臨場感がある。「空飛ぶカボチャ」の命名をした農夫、夢があって格好いい。宙吊りのものの正体の種明かしも絶妙。
Ⅱ去りゆくもの
この章は、あの世とこの世をたゆたう自身がいるような、不穏でたづきなさの滲んだ表現が多いようだ。
からだから息が離れていくやうに匂ふ梔子月を惑はす
前半の表現に引き込まれる。梔子には、そのような魔力があるかもしれない。梔子が月を惑わすなど大仰だが、あるかもしれないと思わせてくれるから不思議だ。
さからはず風に揺れゐる竹群の主語でも述語でもなく生きて
自らの生き方は、風に逆らわず、風の流れに身を添わせる生き方だったのかもしれない。一文のなかで、主語として表現されなかったとしても、その述語でもない、私には、私のおさまり方があるという強い意志を感じた。
なんとなく浮く真昼間の白い月ふくらみ加減の演出がいい
命果てて物体になる日よどの人も柩の中のわれをのぞくな
階段を転び落ちゆく一瞬の視界に白きシクラメンの花
奥の間にならぶ先祖の顔写真ときおり表情違ひて見える
夕暮れの庭木の影に白犬の尻尾が見えて他界はありぬ
他界と現世の境目は、案外身めぐりに存在しているのかもしれない。白犬は、他界を思わせるメタファかもしれない。「他界はありぬ」と断定しているところがよいと思う。
武器になるやも知れぬと赤き傘もちて雑踏へ紛れゆくなり
歩いても歩いても着かぬバス停に母待ちをらむ 約束の場所
Ⅲ小さきもの
近親の小さな人たちへのまなざしが、その未来を照り返しているように明るく表現されている章だと思う。
デジャヴ、デジャヴと音を立てつつ洗濯機は今日も洗へり少女の夢を
フレンテ歌会の同人誌『パンの耳』で最も印象に残った作品。「デジャヴ」の使い方が絶妙で、多感な少女時代を大らかに表現していて好感が持てる。
通り雨が大地の匂ひを掬ひとる 濃き草いきれ獣のゆまり
大自然の匂いや営みが、間近に迫ってきて懐かしいような泣きたいような郷愁を誘う歌である。
目のなかに草原をもつ三年生おとなのやうなため息を吐く
春風の匂ひかぎわけ青虫は朝の冷気をしやりしやりと食む
一面の青田のあはひを老いの乗るバイクふはふはほつほつ
時々このような、あっけらかんとした歌に出会い、ほっとする読者がいそうだ。結句が、老いの運転の危うさと、そんなことはおかまいなしに、田舎道を暴走する老いの傍若無人ぶりが微笑ましい。田舎道だからこその微笑ましさ。
遠からず壊れるだらうぎりぎりと音たて回る扇風機とわれ
ガラス戸の向かうにもゐるこの私ひとり居の夜を共に過ごせり
聖戦とあなたも言ふのかその腕に産みし赤子をしかと抱きゐて
Ⅳ 近づきくるもの
近づきくるのは、誰にも逃れることのできない他者との別離、また、自らが現世を去る「死」というものを指している。たしかに近づきつつある「死」を思い、今在ることの意味を真摯に問い続けている章である。
流れゆく水音きけば胎内の記憶あらはるといふ君のうた
白百合の蕾ばかりを購へり期待するもの多きあしたに
窓ガラスを叩く雨粒追ひながら雨でないもの見てゐた少女
少女は、眼前の少女とも思えるし、少女を見ている作中主体がその記憶をたどっている作中主体自身の少女期とも思える。想像することが好きだった少女期の様子が思い描かれる。
死ぬまでに砂漠を見ておけ砂色の時間と空気は息してをらぬ
試練のまっただ中にいるときに、何処からかこのような声がしてきたと読んだ。人生に一度辛い思いをしたならば、それを乗り越えた時には、何があっても生きてゆける強さを備えることができると・・。
夜明けまで遊びしものら戻りをり現し身の吾は誘ひてくれず
もう亡くなってしまった人達が夜通し身めぐりにきて、昔語りをして夜明けに帰っていった。私は、やはり他界の人ではなかった。こうして残されてしまったのだから・・。亡くなった人達との強い結びつきが感じられる。
古き戸の音きしませて閉むる時ほろりと一日が外へこぼるる
ぬけがらを葉裏に残し蝉の鳴く七年ためたる力もて鳴く
魔力もつ月の光がとどき来て造花が一瞬ほんものになる
そこここに死が待ちをらむそうろりと扉をあけて聴く夜の音
傷つけし人の数だけ増えてゆく白髪に飾らむ風のなかの紫苑
結句「風のなかの紫苑」が、印象的で、白髪との色彩感覚が寂寥感を残す一首。
待ち人はいづこに我を待ちをらむ出口の多き駅のたそがれ
作中主体は、誰とも待ち合わせなどしていないのではないか。これほどたくさん出口があれば、思いもかけぬ人が、どこかの出口で、私を待ってくれているのではないか、そんな期待をしてしまう黄昏れどきである。
元気かと問はれて応ふ澱むなく「死んでをらぬが生きてもをらぬ」
著者にとって、生きているという実感は、現状ではないということが解る。「生きてもおらぬ」という強い言葉に、ドキリとさせられるが、それだけに、著者の生きるということの理想が強く感じられる作品だ。
わさわさと人立ち去りて会場に残さるるひとり 快感ならむ
結句が、言い過ぎてしまったように思うが、余韻を楽しむこともせず、皆立ち去ってしまったあとで、ひとりの時間を見つめるというのは共感できるシチュエーションである。
語気荒く独りごつ吾の頬を打ちカーテン大きく風にふくらむ
腹立ちて写真破れば君よりもわたしの笑顔が斜めに裂ける
冷え切った新聞手にして早朝の配達員の白髪をおもふ
靴底の石除かむと外灯の下にしゃがめばわが影のなく
どきっとする歌である。影のないというのは、死者を思わせる。それは、作中主体が、この世に存在していることを否定するような思いをはらませているのかもしれない。
八十年の人生たたふる通夜の席 知人・友人・愛人がくる
ひとりの人間が亡くなると、その長い歴史に関わる様々な人との繋がりが顕在化される。良くも悪くも、人はひとりでは生きていないということを思い知らされる。誰もが故人を讃えるなかで、結句への展開に、苦笑し、安堵し、納得する読者がいる。
咲ききれる椿の花の落ちいそぐ涙のやうで脱皮のやうで
花首から落ちてゆく椿。それは、死と呼ぶのかもしれないが、著者は、あえてそれは、「脱皮」ととらえ、未来への希望を託すのである。
陸橋よ寂しくないか六車線またぎてじっと人を待つのは
陸橋をこのような見立てで表現したのが新鮮だ。六車線というと、ずいぶん車の往来が激しい「動」の世界だ。反対に、陸橋は、動くことは許されない「静」の世界だ。対照的なそれぞれの存在感に、自分の生き様を重ねているように思う。