ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

丸山順司歌集『鬼との宴』を読む

 節分も近いので、鬼の歌集を・・
 丸山順司第二歌集『鬼との宴』である。
 第一歌集『チィと鳴きたり』を読んだときには、読者が身構えずに入ってゆける穏やかさと懐の深さを備えた歌集だと思い、その心地よい魅力にとことん浸りながら歌集を味わったように思う。
 今回、『鬼との宴』を読み進めるなかで、飄々とした表現、一見平易な語り口は変わらないが、その水面下にある、とてつもなく緻密で繊細な部分に触れた気がした。それは、第一歌集のときも同じだったはずで、たぶん私が未熟であったために読み切れなかった部分だったのだと、今あらためて思うのである。

のほほんののの字よろしくふるまひて座を抜け来たり寒き雨ふる

一匹の蠅が飛びをり食堂に蠅を相手に昼メシを食ふ

はつきりと了解したのぢやない感じ「はい」の代はりに「ほい」と返事す

夏雲の光りて眩し午睡(ひるね)より覚めて伸びするでえだらぼつち

ちよつとへこんで、ごめんなさいよと春の末の二十日の月が昇りて来たり

だいこんがもういい、もういい、くたくただなどとつぶやく煮汁の中で

小春日の陽射しに昼をまどろめば和泉式部が「なうなう」と呼ぶ

老夫婦の金魚なるべし「夏だねえ」「お昼寝します?」と話してゐたり

 力の抜け方が心地よく、読む者の心まで弛ませてくれる歌をあげた。
 一首目、主体のふるまい方によって、その場の空気を乱さずにおこうという思いが伝わる。道化のように表現しながら、結句に本音が込められている。
 二首目、怒りを顕わにする人もいるかもしれない場面。「蠅を相手に」の表現が、大らかな諦念を感じさせる。
 四首目から六首目、どれも、ひらがな表記の部分が、とてもいい味を出していて、それこそよく煮込んだ煮汁からしみ出してくるような旨みがある。 
 七首目、謡曲で、人への呼びかけに発する語「もしもし」という意味合いの「なうなう」と、SNSなどで流行した「晩飯なう」などのように、今(now)~してるという使われ方をオーバーラップしたおかしみのある一首。
 八首目、金魚に語らせているところが絶妙である。人間ではおもしろくない。

 著者の短歌のいちばんの強みは、「気づき」だと思う。著者が、あとがきでも書いているとおり、「普段の暮らしの中で浮かんできた言葉を書き留めています。」ということなのだが、その視点が、抜群におもしろい。同じ場面を目にしても、こんなふうに捉えることができるのかと唖然としてしまう。

アスファルトの道に穴あり裂け目あり吸はるるやうに雨流れゆく

人の背にわが影のありその人は気づくべくもなく信号を待つ

 日常、街角であたりまえのように見ている光景。あんなに頑強であるかのように見えるアスファルトにも、負の部分はあり、雨というものは、そんなわずかな裂け目にさえ染みこんでゆくという発見。
 二首目、影はその人の影であるはずなのに、自らを離れたところにその存在を見つけたことの驚き、まるでその人のたましいが、身体から抜け出して、他者に乗り移ってしまったかのような景である。

「身籠もる」と「身罷りぬ」との字面似て人の生き死にとうとうたらり

 「身籠もる」は、新しい命の誕生、「身罷る」は命の消失、真逆の人間の在りようがよく似た漢字で表現されていることの驚き。「とうとうたらり」は能楽で、翁が冒頭に唱えることばということだが、「身籠もる」と「身罷りぬ」の字面によく合っていると思う。

コーヒーから珈琲色の湯気が立つ(それはないやろ)ポスター眺む
 
 湯気が珈琲色であるわけないでしょうという気づき、括弧書きのつぶやきが効いている。こういうことは、日常いくらでもあって、そのことに疑問を持たない日々を生きてるんだなと気づかせてくれる。
 
〈毒液〉と書かれたボトルが店頭に置かれてありぬ〈消〉見えざりき

 風刺が効いていて、抜群によい。ほんとうは、〈毒液〉であって、私達は、その上に〈消〉を付け足したものを使わされているのではと、逆なことさえ浮かんでくる。

靴跡のマーク無くともつひに人は一メートルの間を取り並ぶ
  
 こちらも、コロナ禍以降、日常として当たり前のように、その光景に慣らされていたと思った。人とは、このように慣らされ、統制されていくものなのだと怖い感じもする。

シャンプーのポンプを幾度押すもさて液はパイプをもう昇り来ず

 何気ない、日常の生活のヒトコマ。「押すもさて」という言い回しと結句が、著者ならではの詩情を立ちあげた。 

著者は、広く絵画に興味を持っているようで、絵画に関わる作品が頻出する。

まひる熱田の森の参道にニワトリ鳴けりその木下闇

語らへば声に寄り来る鯉のむれ池の上なるあづまや涼し

 「夏雲の下」の章に、上の二首があり、絵画的な色彩と構図をイメージしたが、のちに、「跳ねあがる鶏の尾羽をひと筆に描ける若冲の気と息づかひ」の一首があり、その影響を受けているのだと思った。

 シャガールフェルメール、リヒターなどの絵も、著者の日常に分け入り、その感性を刺激しているようだ。

君のなかにうづくまる我シャガールの「私と村」のやうな夢見つ

かたぶける壺の口よりひとすぢのミルク垂るるを見守りゐたり

収容所(ビルケナウ)の写真を絵とし描きたる画を塗り込めしリヒターの念(おも)い

 次の二首は、大津絵に描かれた、七福神の福禄寿の様子。滑稽で愛嬌のある福禄寿が歌集中では、間をおいて二回登場する。著者の求める「抜け感」がここにもあるように思う。

福禄寿の頭に梯子をたて掛けて毛を剃りゐたり つやめく頭

福禄寿の頭にはしご立て掛けてのぼり詰めたりちとひと休み

 冒頭で、「その水面下にある、とてつもなく緻密で繊細な部分」ということを書いたが、そのように感じた作品をいくつかあげたいと思う。

水瓶(すいびやう)に蓮いちりんの幻影を見せて佇む観音菩薩

 観音菩薩は、像としては確かに立ち続けているのだが、その魂は水瓶に影を落とすいちりんの蓮のようにあやういものなのではないだろうか。「すいびょう」と読ませることで、研ぎ澄まされた空気が走る。

十月の朝(あした)に殻を脱け出でし蟬ありあはれ世に遅れたる

 蟬は、蟬としての生涯を全うしているだけなのだが、人間界の季節では遅すぎた。人間にもあるはず、時代に合わずに生きづらさを抱えている人。

この日ごろ馬酔木が花をつけたるを君に言はむと思ひて言はず
  
 「馬酔木が花をつけたよ」たったそれだけのことなのに言わない。気忙しさのなかで、言えなかったのではない。敢えて言わなかったのだ。それが、「馬酔木」だからか、読者は想像するしかない。「馬酔木」が、迷(まよい)木に通じている。

どぶ川にセリの花咲けり町裏をあゆむ朝(あした)のこころ閑(かん)なり
  
 結句の「こころ閑(かん)なり」が、虚ろな空間に鳴る音のようで絶妙である。

あらばよし無くともよしと言はば言へ軒陰の鉢に羊歯群れて生ふ

 「あらばよし無くともよしと」は、著者の哲学だと思う。この心持ちは、この歌集に貫かれていて、そんな佇まいで、何億年も昔から生き続けている羊歯というものに畏敬の念を持っているのも確かだ。
 
深き夜に何度も聞こゆ〈ホームとの間が広くあいてゐます〉と
  
 「ホーム」は家庭だろうか。「老人ホーム」とも読める。昼間に聞いたアナウンスがリフレインのように著者の闇に響いてくるのだ。

今宵また酒を飲んでゐる今飲んでおかねばといふやうに飲んでゐる

 突然の災害や、病疫によって、私達は一瞬に未来を奪われてしまうという危うさをもって生きている。「飲んでゐる」の繰り返しが、今生きていることの実感として伝わってくる。

京(みやこ)より石山寺まで文(ふみ)を持(も)て小舎人童(こどねりわらわ)けふ二往復

 小舎人童(こどねりわらわ)は、公家や武家につかわれて身辺の雑用をつとめた召使いの少年だという。長い距離を一日に二往復、文献でしか知ることのできない内容を、時代特有の呼称を巧みに使っていて印象に残った。

 さて、最後に、歌集名ともなった次の一首がある。

つまびかむ三味線(しやみ)は無けれどとつくりの酒をとぷとぷ鬼との宴

 主体にとって、「鬼」とは、どんな存在だろうか。自らのなかに棲む「鬼」、あるいは、私達人間がつくりだした、現世のありとあらゆるところに棲む「鬼」・・
 いずれにしても、著者の向き合い方は、次のような身構え方である。

宇宙より来たる男のいつしかに馴染みてただの男となりぬ

このままでよいかと問はれそのままでよいと答へぬ あんぱんひとつ

 「あらばよし無くともよし」は、著者の哲学だと、先に書いたが、ここにきて、それは「ひとつのあんぱん」として、著者の胸のすくような心地よい生き方を読者に示してくれた。