ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

白井陽子歌集『切り株』を読む

 読み終えて、しばらく泣いた。悲しさではなく、なつかしさとぬくもりと、切なさが入り交じったような涙だった。著者の半生を共に生きたような感慨があった。
 白井陽子さんは、2013年に塔短歌会に入会したと記されている。すぐに自ら案内を見て、和歌山歌会に参加された。いつも、まっすぐで、納得できないことがあると、すぐにはっきりと「解らない」と意思表示され、会を活気づけてくれる。
 もう十年以上、お付き合いしているわけで、会として様々なことを経て、様々なやりとりをし、時には、意見の食い違いもあり、それでもお互いの人間性を認め合って今日まで来た気がする。
 そんな白井さんが、ただまっすぐに、ひたむきに纏め上げた歌集である。そのひたむきさが、つぶさに押し寄せてきて胸がいっぱいになったのだ。

 歌集は、孫の成長を軸に、その母である娘、夫、弟が描かれる。そして、日常の様々な場面で、もうすでに亡くなっている母の思い出が鮮明に描き出されている。
 

 時を経るごとに、著者の生活に娘家族の距離が実質的に近づいてくる。
 
子の家の勝手口からわが家へと庭を横切る石を敷き詰む

子の家の屋根の上から日差し来てわが家の縁にほっこり日なた

 若い家族が近くに来てくれたことの喜びが伝わる上掲の二首だが、その後著者は、子育てをふたたびやり直すほどの生活へと入ってゆく。

子守唄を娘の児にと聞かせればそばで娘がとろりとなりぬ

夢に来て吾と遊ぶ児は目覚めれば娘か孫かよくわからない

草むらに娘は児を連れバッタ追うわれが娘を連れ追いし草むら

 孫が生まれ、その母を支えることによって、自らの子育ての場面が甦ってきて、タイムスリップしてしまったような世界観を、子守唄や草むらで表現し、夢のなかの自分と交錯してゆく。

抱きしめてと夕餉の後に娘が言いぬ己がバランス崩しいるらし

 意表を突く初句の言葉が、母となった娘の危うさを描き、見守るその母の思いをも推しはかることができる。

孫を抱きし昼間のちから夜に無く畳に手をつき立ち上がりたり

 全面的に、娘家族の生活を支えようと思ってはいても、気力だけでは続かないという本音が吐露される一首。

井戸掘りし周りに夫と塩を撒くさりげなく撒き子らには言わず 

 世代の違いもあって、「よそ様は羨むけれどなかなかに 娘夫婦の隣家に暮らす」ことの気遣いを、塩を撒くという昔ながらの慣習に収束させているのが巧みだ。

 全面的に、若い家族を支えていこうと思ったのは、次のような母への思いが、常に下敷きになっていることがわかる。

「やめたらあかん」母のひと言と手助けに仕事続けて今日のわれあり

わが家の上棟式の記録あり「母のおにぎり釜四杯分」

 半世紀前の、著者の自宅の上棟式に、母が用意してくれたおにぎり。「釜四杯分」で、他の言葉は一切要らない。

 母につながる思い出は、どれもあたたかくなつかしく、そして、今はもうその名称さえ知る人も少ないであろう事物へと収束してゆく。

すき焼きの七輪囲みし日のありき母に代わりて勘定溝講に

ふるさとの山下さんへ山年貢八百四十円を納めに行きぬ

火消壺へ燠を運びし十能で石灰まきて瓜を植えたり

稲掛けの足のみつまた庭に立てシャツ干す竿に風わたりゆく

 「七輪」「勘定講」「山年貢」「火消し壺」「燠」「みつまた」、これらを知らない世代も多いだろう。しかし、著者は敢えて詠う。なつかしさとぬくもりを感じる詠い方で。著者の生活のなかでは、これらは皆、今も生き生きと活かされ、「死語」ではないのだ。

アーカイブゾーンと名付けて押し入れに羽釜や斗枡、火鉢を仕舞う

 「アーカイブゾーン」が、絶妙だ。父母につながる昔からの暮らしを大切にしたいという思いで命名したすばらしいお宝スペースである。

本脇(もとわき)に今も三軒の「じゃこや」あり釜揚げしらすの潮の香のする

柿ふたつちいさな袋でもらいたり赤き柿の葉一枚添えて

 著者の住んでいる土地柄が、映像として伝わってくる二首。ほんとうに泣きたくなるほど懐かしいのは何故だろう。

 次に、この歌集の軸となり流れとなっている、孫の歌である。孫歌は、どうしても甘くなると避けられがちだが、著者はひるまない。まっすぐに素直に詠い切る。
 この歌集のなかで、孫歌は、対象を、ただ可愛いだけの存在として描くのはなく、一人の人格をもった人間として描いている。よけいな感情をはさまず、ただ繊細な観察眼で、目の前の幼が、だんだんと人格を形成してゆく様を丁寧に表現してゆく。
 日常の繊細な観察眼を発揮できるのは、やはり、若い夫婦と同じくらい、いいえもしかしたらそれ以上、濃密な時間を孫と過ごしているからに他ならない。
 
園のごと「そろいましたか」児が言いて夕餉始まる もうすぐ三歳

神様は狼やてと三歳は「国懸大神」(くにかかすおおかみ)を祝詞に聞いて

包帯にクマのシールを貼りくれぬ「どんなにしたん?」とそっと撫でつつ

お迎えの玄関先の傘のなか「雨のにおいがする」と幼は

ムスカリは好きな青色と三歳はアンパンマン鋏でみな摘み取りぬ

 私は、とくに、「おうちりょかん」の一連が大好きだ。家族皆が、生き生きとして、孫の視線に立って、孫の世界を真剣に楽しんでいる。何という幸せな時間だろう。

子の家に〈おうちりょかん〉の紙張らる引き戸開ければ〈受付〉のあり

じいじとばあばも一泊す番号を書いた厚紙の鍵を受け取り


児が振り向けば児の手のホースも振り向いてわれや窓までぐっしょり濡らす

そりすべりの服を着こんで座り込み児は井戸掘るをじいーっと見つむ

「よかったら」が「一緒にやろう」の上に付く積み木に誘う五歳二か月


食器棚の奥に小さき箱のあり〈ランドセルつみたて〉と上にわが文字
 
 前に、「アーカイブゾーン」を引いたが、こちらは〈ランドセルつみたて〉、「おうちりょかん」もあり、著者は、日々の生活を豊かにするこつを心得ているのだ。

 
 弟に関わる歌は、少ない。けれど、それぞれ家庭を持ち、老年にさしかかるまで、姉弟のつながりがあるというのも貴重なことだ。

「教育」をわれに説きたる弟の二十歳の手紙はインクが青い

ことさらに用事なけれどおとうとの声聞きたくて電話してみる

断水にポリ缶と水を京都から運びくれたり おとうとありて


 孫の成長を、真ん中に据えながら、家族の穏やかな生活は続くように見えたが、あまりにも突然、夫の死がおとずれる。どんな夫であり、どんな夫婦であったのか次のような作品が如実に語る。 

警笛をぷっと落として帰りゆく駅までわれを送りて夫は

ドアを開けおい元気かと夫の言うゆぶねに沈みものを思えば

われの手を気遣い夫はついて来て野良で初めて草ひきをせり

「終わったかぁ」音を立てずに隣室で二時間過ごしし夫の入り来ぬ

葬儀屋は「えっ初めてです」と驚きぬ夫にピンクの棺を選ぶ

核兵器のない世界めざして」のポスターと署名用紙を葬儀場に置く

お互いを名前で呼び合うことの無く「ねえ」の後は「とうちゃん」そして「じいちゃん」

 
 歌集中、娘、孫、夫のことは、丁寧に描かれるが、自身の心の奥深くを見つめる歌はないのだろうかと探してみた。

われに降る雨粒を傘で受け止めて少し傾け真横へ流す

負けへんと何度叫べど出来ぬことやっぱりありぬもうすぐ冬だ

あなたには無理でしょうねという人の声に羽つけ空へと飛ばす

 著者の、自分自身の生き方を曲げることをしない芯の強さを感じる作品を引いた。一首目、三首目のように、他人の意見は一応聞いておく。しかし、受け入れられないものは、上手に横に流したり、空へ飛ばしてしまう。著者が年齢を経て身につけてきた処世術だろう。


『おおきな木』の切り株のようになりたいと思う日々なり ひょごひょご動く

子や孫がほっこり座れる切り株にわたしは未だなれぬままいる

あとしばしひょごひょご動き子や孫がほっこり座れる切り株目指さん

 子や孫がほっこり座れる切り株になりたいという思いは、歌集をずっと貫いている。未だなれぬと言っているが、じゅうぶんその役目を果たしていると思う。

 これから、著者の娘や孫が、その時代、時代に、どんな思いでこの歌集を開くのだろうかと思うと胸がいっぱになる。願わくば、著者が切り株のまま終わらず、いまいちど、ひこばえを芽吹かせてほしいと切に思うのだ。