ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

6月毎月短歌【現代語テーマ詠】選評

 6月毎月短歌【現代語テーマ詠】の選者をさせていただきます、澄田広枝です。
 
 テーマは、「光」、144首の作品に出会うことができました。
 太陽、月、星などからの自然光、人間が創り出した人工的な光、漢字の「光」ひらがなにひらかれた「ひかり」、実に多種多様な「光」に出会うことができました。光に付随する影の側から詠っている作品も多く、興味深く読ませていただきました。

 

 ★ゆるら短歌賞★として、8首選ばせていただきました。

① 雨は檻 ねぇ、ホモ・エレクトスわたしたち淋しさのんでひかっちゃんうんだ    みつき美希

 初句の導入の言葉に、ドキッとしました。作品は軽い話し言葉のようでいて、深く内包しているものがあると思います。更新世に生きていたと思われるヒト科のホモ・エレクトスに話しかけるというつくりで、一首はできています。言葉など持たず命の根源であるような対象へ、ありあまる言葉や情報を手に入れることができる私達が、その満たされた時代であるが故のさびしさを吐露していると読みました。
 「雨は檻」と「淋しさのんで」も、あたかも、雨粒を飲んで発光しているように響きあっていて印象的でした。

②人間と恐竜なんて比べても仕方がなくて光る爪切り    短歌パンダ

 上句は、そんなの当たり前というふうに思わせて、結句のインパクトをひときわ強くしている印象でした。「爪切り」という地味な素材を光らせることによって、上句にもどって、何か意味があるのではないかと思わせる、その演出がおもしろいと思いました。「恐竜」が出てきたことによって、一首の時間軸がとてつもなく広がっていると思います。

③つやつやの茄子で光の輪を作るようにレイジースーザン回す    インアン

 「レイジースーザン」を知らなくて、知らないままでも、その言葉選びに惹かれました。人の名前のようにも思われるそれは、回転皿なのですね。茄子の濃い紫がつやつやと光って、光の輪をつくる、現実としてあり得るかどうかではなく、ファンタジーのように映像を想起してみたい一首でした。 

④森林浴きみの自画像に残された絵筆の抜け毛のひかりやわらか    畳川鷺々

 「絵筆の抜け毛」に注目しました。「きみ」はもうこの世にいない人で、自画像だけが残されています。自画像は、その人の生前を写し取っているとは言え無機質なものです。そんな中で、「絵筆の抜け毛」を見つけてしまいます。きみの抜け毛ではないけれど、唯一命が通っていたものとして、作中主体の心を捉えたのだと思います。視点の繊細さに惹かれました。

⑤命賭けるとか言うなよ蛍光灯の束で殴られたことないくせに    汐留ライス

 簡単に「命賭ける」なんて言って欲しくないという強い思いが、暴力的と思われる下句へと繋がっています。破調のつくりが、自らの思いもどんなふうに伝えたらいいのかわからないけれど伝えたいという綯い交ぜの思いにつながっていると思います。

⑥理科室の暗幕に穴があいていて閉めるとみえるカシオペア座が    月乃さくは

 普段ほとんど閉じられていて、たまに映像などを見る時に、広げる理科室の暗幕。暗い夜空のように思えるその暗幕に、ぽつぽつと穴が空いています。集中するのは、前方であるべきなのに、主体は、あっ、あれはカシオペア座だ、あれは…と想像を膨らませてしまいます。現在の学校の設備では、視聴覚機器が充実しているので、黒い暗幕などは使わなくなってしまったのでしょうか。

⑦ひかりって速さがすごい感覚が先に奪われていくなら恋    まちのあき

 光速は、地球から月までは2秒、太陽までは約8分、けれども、恋はそれ以上、感覚が奪われてしまうほどの速さで落ちていくものだと言ってのけます。その有無を言わせない大胆さに読者が引き込まれてしまうおもしろい一首だと思いました。

⑧木漏れ日の光の部分を踏んでいくステップみたいにつま先立ちで    宇井モナミ

 色彩や光の印象を大胆に表現する印象派の絵画を想起しました。木洩れ日のなかを、少女が踊るように通り過ぎてゆく構図です。主体は、そのような状景を頭の中に描きながら、自らも少女のようにステップを踏んだのでしょうか。「木漏れ日の光の部分」にリアリティがあって臨場感があります。

楠誓英歌集『薄明穹』を読む

 一度目は、深く深く水底へひきずりこまれるように読んだ。二度目も、少し静観して読もうと思っていたのに、やはりみるみる引き込まれてしまった。恐ろしいほどたくさん付箋が付いた。

 日常に隣り合わせている生と死、薄くたよりない膜にへだてられているような生と死、人が死んでゆくということの残酷さと生々しさ、それらから目をそらすな、まっすぐに見つめ続けよ…そう言われているような気がした。

 歌集は、阪神淡路大震災を詠った一連から始まる。

モザイクのタイルをおほふ草の中お風呂ではしゃぐ子らの声せり

はなびらは吹き込みやがて屈葬のごとく眠れる少年の辺へ

アスファルトはがしたやうな春の日はさうだ赤子のミイラ見に行かう

名も顔もみな忘れはて草のなか茶碗のかけらも墓標となれり

 一首目、廃墟となってしまった草原と、モザイクのタイルの明るさの対比。たしかにそこに居たはずの子どもたちの存在。
 二首目、子どもたちがよくする三角座り、そのまま屈葬へとつながっていくのが悲しい。
 三首目、「アスファルトはがす」ことと、「赤子のミイラ」唐突なようで、生々しくぞわぞわとする緊迫感がある。
 四首目、茶碗のかけらしか墓標とするものが無い、それほど全てが消し去られ、奪われた震災の爪痕。

てのひらの菌を殺せば遠つ世の仏陀のまなこに翳のさしたり

   コロナ禍を材題にした歌はたくさん歌われたが、コロナの菌を殺すという視点の歌を見たことがない。まさか、コロナの菌を殺す事を殺生と捉えているのではないと思うので、このような世の中になってしまったということを、仏陀も嘆いているであろうということか。

死に方など関係ないのだ遠つ世の仏陀はキノコの毒に死ぬるも

 仏教を開き、高い徳を積んだ人であっても、死ぬときはあっけなく死んでしまう。どのように死んでいくかは関係ないと言う。著者の死生観が伝わる。

心(しん)と身(しん) 性の合はざる夕まぐれ野鳥図鑑の鶍(いすか)の嘴(はし)よ

 心のなかの性と、身体の性が合っていないことと、左右互い違いになっているイスカの嘴を結びつけた。物事が食い違うことを「イスカの嘴」ということだ。

掌をふかくひたしてすくふとき沈没船のごとく豆腐は

 沈没船を掌で掬うなどあり得ないことだけど、妙に生々しい実感がある。自らの力で動けなくなってしまったものの存在の重さだろうか。

水兵のねむりを眠れ早朝のプールの底をふれし身体よ

空港まで海底を這ふ電線に夜ごとあつまる死んだ水夫よ

 当然、海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も 塚本邦雄/『水葬物語』が下敷きになっていると思う。しかし、一首目は、作者自身の身体から感じとった生身の感覚、二首目も、海底を這う電線という現代的なものがベースになっていて、塚本作品とは違った展開となっている。二首目の「空港まで」続く電線は、亡くなった水夫達の航空母艦への憧れを暗示していると思うと悲しい。

いつからが死後なのだらう滝壺にまはりつづけるボールのありて

  生と死の境界は、一瞬のことなのかもしれない。回り続ける限り滝壺に飲み込まれてしまうことのないボールのように。

陰惨に抜かれし牛の舌に似てジャーマンアイリスくらき花弁よ

背中より刺しとほしゆく刀身の銀の光よ鱧を食みつつ

耳塚に鶏頭の供花赤黒く死は終はりなき始まりなれば

鼻をかへせ耳をかへせ 塩壺の面にあまた指紋は浮かび

開かれたポストの中を下がりゐる牛の胃袋のごときを見てゐつ

 ホラー映画を観ているような、血生臭く、陰惨な場面を描写しつつも、余情のある一首として着地させるのがこの人の特性だ。五首目、遭遇した一瞬の状景を、インパクトのある言葉で捉えた。牛の胃袋を見たことがない者にも、そう思わせる説得力がある。
 
防腐処理されて眠れるテレサ・テン抜かれし臓物(わた)のありかをおもふ

朽ちてゆくこと許されずふたひらの耳をとがらせ眠るテレサ

 テレサ・テンは、台北市に土葬され、没後十年以上生前の姿であり続けるという。台湾では、このような形で土葬されるのは、蒋介石蒋経国と3人だけだという。英雄であるが故の運命。臓物を抜かれたり、朽ちてゆくことを許されないということは、栄誉あることなのか、淡々と読み手に問いかけてくる。

下枝(しづえ)より落ちたる雪のひかりあり十指をきみの髪に沈めて
 
 君の髪に十指差しこみひきよせる時雨(しぐれ)の音の束の如きを/松平盟子 を下敷きにしている一首と思われる。梢から落ちる雪の雫が美しく詩情の広がる一首である。
  
転生をするならビルにはりついて踏まるることなき非常階段

いづこへもゆけぬ想ひはのぼりきるてまへで葛にのまるる階段(きざはし)

 階段の歌を二首。非常階段というのは、文字通り、非常事態の時にのみ使われるもので、普段はその存在をあまり認識されていない。形状にしても、建物の外側にあって、まさしくしがみついているという感じだ。そういうものに転生したいと言う、著者のこころの有り様を思う。肝心な時にのみ、その存在が生かされれば、普段はあれこれと面倒なしがらみを持ちたくない、と言うことか。

 二首目、辿り着くあと少しのところで、葛に覆い尽くされている階段。内なる不全感を状景として表現した。

虐殺とはひとつ穴にて埋めること重なり朽ちる妊婦も胎児も

殺さるることをおそれて子を喰らふクロノスの裔(すゑ)ルーシに在りて

 クロノスは、ギリシア神話の農耕の神、子供らにその権力を奪われるという予言を受けて、次々と生まれた子どもを飲み込んでしまう。ルーシという地名は、現在のウクライナの首都キーウあたりか。クロノスの末裔が、そこにいるという。一首目とともに、現在のウクライナの戦況を思う。

 最後に、特に印象に残った一連『雪ふる日に』から‥

背(せな)と背(せな)あはせてかたみに死を語るどちらか影かきみとぼくでは

過労死のイルカの骸運ばれる壁ぞひのくらい小道をぬけて

「水平にたもて」とひとの声のして柩はすすむ雪に触れつつ

出棺の合図の鳴りて掌を合はす生きるひとのみ息白くして

斎場の煙の絶えずのぼりをり死人のかけら雪に混じるを

死にたるをたしかむるため刺す銃剣おもひて傘を堅雪に刺す

 本歌集は、常に生と死の境界線を描いているように思う。薄皮一枚で隔てられた生と死、一瞬の時間の進み方によって現れる生と死、様々な日常の場面において、著者はその境界線をおそろしいほど敏感に感じとっているのである。

 一首目、光と影、生と死、背中合わせにいる人と、どちらが生者でどちらが死者か。それは、常にいつ反転するかも知れない危うさをはらんで、常に揺蕩い続けているのだ。
 二首目、水族館などで人気者のイルカならば、過労死もあるだろうと思ってしまう。イルカの死から、ひとの死へ、その出棺、焼却までをたどる。
 三~五首目、事務的とさえ思ってしまう、その葬祭の流れに対して、著者ならではの感性が冴える。「水平にたもて」「生きるひとのみ息白くして」「死人のかけら雪に混じる」、どの言葉にも場面だけではない物語があり、その深みへ読み手を引き込んでゆく魅力を感じる。
 五首目、固く凍りついてしまった雪に、傘を突き刺したときの感触、死んでいるのかどうか確認するために銃剣を突き刺すなど経験しようもないが、リアルに迫ってくるから不思議だ。たぶん、戦争映画などで、映像として記憶したものが甦ってくるのかもしれない。

私性(わたくし)を読まるることにあらがへば近衛兵のごとき日の暮れ

 本歌集に、著者の私性は、ほとんど詠われていない。死を、死に限りなく近い視点で詠い、その切り口を生々しく晒して見せるだけだ。その作品世界への門番は、近衛兵が表情ひとつ変えず、淡々と任務を遂行するような姿勢がふさわしい。

 

** 印象に残った作品が多過ぎて、評しきれないので、以下に残しておく。

「疼」の字の最後の冬の点は伸び横雲かかる檸檬忌となる

肺を病む独りのごとく細りつつ梶井基次郎文学碑あり

肺胞のひとつひとつの燃え尽きてきみは暗がりに立つピラカンサ

文人に女はをらず騾(ら)に乗りて春霞に消えゆく鬢髪(びんぱつ)が見ゆ

死んだこと気づかぬひとも立つてゐる緑濃き山のカーブミラーに

冬の日のプールサイドに仰向けにかへされてゐる空色ベンチ

沈みたる中洲の樹々はゆらぎをり水中の死者を呼びよせながら

晩夏光 骨組みだけの海の家きみは最期に見たいといふを

空港島とほくかすみてたたまざる白き翼の眠れるが見ゆ

茂みへと礫(つぶて)を落とす暗がりにうごめく者(もの)をみつめるための

暗闇の深きところに手をのばすそれが一枚のドアでなくても

海峡をわたす大橋ときどきは霊柩車も背にのせてゐむ

子をもつとはどんなおもひか奇妙なる獣の遊具ふたりして乗る

きみだけにあだ名で呼ぶこと許させてコンパスの針にとどめ刺す蝶

耳朶を嚙む ふるへるきみの咽頭(のみど)には翡翠の皺のガリラヤ湖あり

きみの声おもひ出さうとするうちに海溝の闇におちゆく燭台

ひと恋ふる心はいつもあやふくて闇をねぢ込む鶏頭のひだ

だがやがてホテルの部屋の番号のやうにあなたを忘れる日はくる

吊り輪とは磔刑の形うなだるる青年の眼窩に影はあつまり

父の影のぶるをおそれて刀身の冷たさに慣れし きみの手首は

きみの飲みし錠剤の色のあざやかさ幹より吹き出す蘇芳の花は

祐德美惠子歌集『左肩がしづかに』を読む

手放すは安らぎならむ裸木がゆふおほぞらの彩雲を抱く

 祐德美惠子歌集『左肩がしづかに』の巻頭に、一首のみでおかれている歌。
 ページの余白が、その美しい雲をおく空の広がりを想像させて、どきどきしながらページを開く。木々が葉を落とすのは、手放すこと、そしてそれは安らぎだと言う。纏うものを一切もたず、素のままの自分で、美しく大いなる彩雲を抱くことができたら・・。
 それは、短歌という営為を、全て落としきったのち、再び歌人として歩み始めたという著者の、はるかな願いではなかったのかと想像をめぐらした。 

 歌集中、風が通り、水が流れ、鳥が鳴き、草木のにおいがし、ひかりの動く里山の風景が、随所に散りばめられている。

夏草を刈りしひと日の夜の湯に射干のひとひら髪より落つる

  草いきれのなかで、一日中草刈りの作業をし、心地よい疲れとともに湯に浸かる。身繕いをかまわぬままだったので気がつかなかったが、髪に射干のはなびらがついたままだったのだ。
 
蹴り上げて泣いてゐたのはなぜだらうアカショウビンが木魂する夏
 
 自らの幼少期の記憶と読んだ。わけのわからぬことに腹を立て、足を蹴り上げて泣いていた。アカショウビンが、すすり泣くように聞こえる木立の下で‥。初句の、意表を突いた導入の仕方が印象深い。

地下水を使ふ暮らしのこの家はみづの匂ひがそここことする
 
 井戸水を使っての暮らしである。水道水ならカルキの臭いがするはずだが、そうではなくて、日本家屋独特の、木材が湿気を含んだような臭いだろうか。後のほうに次のような歌もある。

有線のくぐもるこゑが伝へ来るじあえんそさんすい次亜塩素酸水

 コロナ禍のなかで、除菌効果があるということで注目された次亜塩素酸水。地元の有線放送で、呪文のように流れたのであろう。健康を守るためのはずなのに不穏な空気を醸し出していることに違和感を感じた著者。  

縁側に坐つて居れば亡父(ちち)なのか山鳩なのかそつと来てゐる

 日本家屋には必ず縁側があって、雨戸を開け放ちそこに坐ると、風が通り抜け、自然が間近に感じられた。山鳩の鳴き声は、亡くなった父が隣に座って、ぽつりぽつりと話しかけてくれるようなのだ。
 
夕映えの風におもてと裏あらむ煌めきながらアキアカネくる

夕映えの遙かな声に呼びだされうつとりとゐるわれとくちなは

 夕映えの風が一枚の壮大なうすぎぬのようだ。そこから、アキアカネが、煌めきながら飛んでくる美しい映像が、眼前に広がる。
 二首目、夕映えという幻想的な風景の前では、誰もが言葉を失ってしまうのかもしれない。「くちなは」が相棒なのも、表記も、そうでしかないと思わせてくれる。

手に折れば茎がすぐさま黒くなるタカサブロウは気鬱の薬

前世に見てゐしやうな森の闇シイノトモシビタケの標識

 「タカサブロウ」も、「シイノトモシビタケ」も、その呼称が印象的で、どちらも実景なのだが、摩訶不思議な里山の入口に佇んだ気分になる。

 幻想的で、現実と非現実の狭間を揺蕩っているような作品に、好きな作品が多い。
 
夏至の夜は白磁の皿がうつくしい 予感にみちて月のぼる見ゆ

 歌集中、最も好きな作品。白昼夢を見ているような世界観がある。白磁の皿と、夏至のイメージ、予感にみちた月という表現も謎めいていて美しい。

火が問へば闇はじくじくと応じつつ神楽がつづく歳晩の夜

 歳晩の夜の神楽の様子。火が問い、闇が応えるという、火と闇のせめぎあいのような臨場感がある。荒ぶる火に対して、闇は、じくじくと鎮めていくという対比もおもしろい。

み仏はみなうつくしき指もてり指の先より月光が来る

 仏像については門外漢だが、弥勒菩薩の半跏思惟像などをイメージすると、とても美しい指先をしている。人々を救う方法を思索しているということだが、そこには月の光が宿り、現世を超越した力が生まれそうである。

ひとつ避けひとつ跨ぎて潦(にはたづみ)さびしい夢を見てしまひたる

 水たまりは、人生における難関であろう。試練として、それを飛び越えたり、避けたりしながら人は歳を重ねる。こうありたい、こうなりたいという夢を見ながら‥。

 社会詠も、目が離せない。

権力が捩じ伏せてゆく息遣ひ迫りてきこゆ黄砂の向かう

 ひと続きの空の向こうから、黄砂はやってきて、そこには常に不穏な空気が漂っている。権力というものの闇を見るようだ。

ひとつかみ山椒の実を漬けておくひそかな夏の火薬のやうに

 この作品も特に印象に残った作品だ。火薬というものを、日常の生活のなかで見ることは殆どないが、山椒の実がそうであると言われれば、平和とは、いつそれが反転するかもしれない危険をはらんでいるものだと思うのだ。

誤爆され炎上してゐる旅客機を画面にのこし夜空見てをり
 
 日常のなかで、こういう場面が多すぎる。悲惨な戦渦の場面であっても、スイッチさえ切れば、今の平和な現実に戻る。画面の向こう側で起こっていることは、フィクションではなく、確かに現実の日常であるのに・・。だから、それ故、映像の場面は、いつ何時、私達の日常となるかもしれないのだ。
 
百人の少女の爪の点検をなしたる夜のはなびら無尽

 教育者として、生徒の爪の点検をする。その行為に、むなしさや疑問を抱えているのかもしれない。仕事として、それを為し終えたあと、少女たちの爪のような花びらが降ってくる。自然のままの美しさとはかくも美しいのかという思いで、それを見つめる。

    最後に、亡くなった母の作品をあげる。

陽のなかを欅紅葉が土に散る母と別るるこの世の辻に

 あの世とこの世を隔てている辻、主体がかろうじてとどまっているこの世と、今まさに、あの世へと旅立つ母を隔てるように、欅紅葉が降りしきる。一枚の絵画を見ているような美しい構図だ。

痙攣が母を貫き終はるまで抱き留めてをり腕と其のいのち

 壮絶な場面だ。まさに断末魔のような母を抱きとめて、その命の終わりを共有している。肉親の最期を、このようなかたちで表現した歌に出逢ったことに息をのむ。

墓石には樗の花がわれよりも先に来てゐるうす紅いろに

 樗は、栴檀のこと。大仏の下に樗の花の数/虚子 をふまえているのか。「われよりも先に来てゐる」が、母の化身のように主体を待っているようでせつない。

覚め際のすこし冷たい左肩がしづかに亡母(はは)と話してゐたり

 歌集名となっている一首。亡くなってしまった人とは、なぜか真正面に話すことはないような気がする。血の気のないひんやりとした存在感が、生きている者の左肩というわずかな場所におりてくる。そこで、とつとつとしずかに語り続ける。夢のなかのことであったようにも思えるが、左肩には、たしかに母の気配が残されているのだ。

 一二〇〇首から、二九〇首を選び、歌集を編んだという著者。短歌に対する、著者の純粋で妥協をしないまっすぐな思いが伝わってくる。ひとりの読者として、その思いを尊敬の念をもって受け止めたいと思った。

小田桐夕歌集『ドッグイヤー』を読む

  著者は、『塔』誌上で、ずっとその作品の魅力を追い続けてきたひとりだ。今回、その作品世界に歌集として出逢い直せることを、とても嬉しく思っている。

 まず、最初に気づいたのは、オノマトペの巧みな使い方である。短い、小さな息づかいが音になったようなオノマトペが、一首のなかに、絶妙の位置に配されていて、それが作品の世界を一気に押し広げている感じだ。

ふり向かぬ背(せな)のしろさをのみこみてそののちつん、と真昼がにほふ

 視覚で捉えていた茫漠とした寂寥感が、「つん」で、嗅覚へと移る。「つんと」ではなく「つん」のあとの読点にも配慮がある。

半端ものはどこへ行つてもはんぱものかかとをゆつと持ち上げてみる

 重たい心情を抱えた身体を、それでも、ここで終わりたくないという思いで持ち上げる。「ゆつ」にねじれ感があってよい。

怒りからすこし角度をずらしをへすーんとみづを飲み込んでゐる

 怒りでヒートアップしてしまった身体を冷ますために、水を飲む。「すーん」が、怒りで斜めになった身体をまっすぐに立て直しながら、水が貫いてゆくようだ。

握りゐるペンを指からひきはがしペン立てにす、と直立させつ 

 ペンは、自らの内面をも文字にするための道具。思いの強さがあふれている時は、皮膚の一部のようだ。それを敢えて引き離すことによって、自分自身を静観する。「す」は、毅然としたたたずまいをイメージする。

厚みあるつぼみのつやをむつと割り石榴は花の鮮紅ひろぐ

 ぼってりと厚みのある固い殻のやうな蕾を押し広げ、石榴は花を開く。「むつ」は、その朱色の熱量を伝える。

ちぎられた和紙がそのまま花になり ふ、と舞ひあがりさうな白さよ

 映像として、そのまま立ち上がってきて、雅な風情を感じさせる。「ふ」が、一首を現代的にしている。

 ここからは、やや長いオノマトペの作品をひいてゆく。

しゆおしゆおとすすきがなびく秋の夜(よ)の原野におもひで手放しにきた

 「しゆおしゆお」がススキの乾いた質感を感じさせる。思い出を手放すということは、今まで積み重ねてきたものを無に返すということか。原野という場所が、自身の再生の地であるかのような描き方だ。芒の原は、蘇りの地、幽玄の世界だ。

塩うすくまとつたままに焼かれゆく天魚の尾鰭りりりと曲がる

 「りりり」がとても斬新だ。文字のかたちからくるイメージだけではない、焼かれるしかない天魚の身体にペーソスを感じる。

たちあふひ下から咲きゆくからくりの、ことりことりと記憶をたどる

 「からくり」がとても効いていて、この言葉があるから、からくり人形が「ことりことり」と記憶をたどってゆくような感覚になる。

欠けてゆく月と石鹸 ゆたかさは夜をふくみてふんはりと泡

 「月と石鹸」という異質で、はるかな隔たりをもつものが、幻想的につながった。副詞である「ふんはりと」が柔らかく、オノマトペのように感じた。夜の闇のやわらかさが、月までも包み込んでしまうようだ。

 オノマトペが効果的に使われている作品をあげただけで、ずいぶん、この歌集の作品世界が見えてくるような気がするが、以下、もう少し印象に残った作品をあげてみたい。

まぐかつぷかつんとふれてしまつたな、としかいひやうのない口づけだつた

 口以外は、すべてひらがな書き、それなのに硬質で冷え冷えとした印象を受けるのは何故だろう。「かつん」の響きが、ひらがな書きが、やわらかく優しいだけの印象ではないことを見せてくれた。上句の切り方、読点から、下句へのつなぎ方も巧み。

串刺しにまはりつづける馬たちのつやの瞳に映るひとびと

 回転木馬を、こんな切り口で表現する作品を初めて見た。瞳には、家族や恋人達の笑顔がさざめいているかもしれないが、その馬達のからだは、ずっと串刺しにされて回り続ける他ないのだ。

 著者は、いわゆる属性を語らない。深い悲しみやさびしさも、具体的なことは省かれて、身めぐりの素材に語らせる。だが、次のような作品には、比較的、著者の立ち位置が見え隠れして、歌集中の流れに変化を与えている。

行きたくてゆく故郷はあらず曇天の記憶をしぼるやうにすすむよ

 自らが、懐かしい、帰りたいと思って行く故郷はないと言う。それでも、行かねばならず、「曇天の記憶をしぼるやうに」向かっている。
からだに残っている故郷の記憶を、自らのからだを引き絞るように思い出しながら、という凄みがある。

おたがひをほどよく褒めるひとびとの口をはみだすうすぐろい舌

ほんたうをたぶんいへないあつまりに麩のかたどれる花を崩して

 集団の中にいても、何か違う、どこか違うという思いをもち、目の前の風景の後ろにあるものを見てしまう。自らのほんとうを見つめようとすればするほど、その違和感は、くっきりとしてくる。

 『no/not 』の一連は、生々しい陰影をもった私小説のように、歌集の終わり近くに置かれている。ここにきて、生身の身体をもつ著者の姿が迫ってきて、読者は息をのむ。 
 始終、背景に雪の降り続けているのもせつない。
 手紙でやりとりをする「あなた」にも、向きあってきた日々が確かにあった母にも、告げることなく、体内に「not」を残す決断をし、たったひとりで、その場に臨む。
 著者にとって、「no」と 「not」の違いは何だろうか。私は、同じ否定であっても、「no」は、まだこれから修復したり、軌道修正ができる可能性がある「no」、「not」は、全否定したことによって、その否定したと言う事実が、自らに残り続ける「not」のように読んだ。
 何れにしても、深く重い心の裡を、これほどの透明感をもって描き出されていることに感動する。

雪だるまとほい日向にまだあつてわが手袋を濡らしつづける

信じないわたしのことも受けいれて病院前のマリア様の像

体内にnotは残る これからの〈産める〉をぐるり、捨ててしまつた

似てるけどnoとnotはちがふこと 生きてるあひだnotは増える

下腹部の傷に触れたり薄れてもnotはいつもはじまりである


 歌集の最後におかれている一首。奥深くに持っている自らの考え、唇からふり絞って出てきた声、それは、必ずしもそのまま全く同じとは言えない。それでも、言葉にしたい。ずれていても、ゆがんでいても、わたしは、わたし自身の声で、言葉にしてゆきたい。詠うこと、そのもののように思える。

かんがへと唇(くち)と声とがずれてゐるそれでもいいからこゑをください

 

※思いの残る歌が多くて、評を書き切れなかった作品を残しておきます。

風のまま起きあがりゆく雲の峰 夏があなたを簡潔にする

沸点がたぶんことなるひととゐる紅さるすべりさるすべり

虫が翅ひろぐるときのふちどりのひかりのやうにかつて笑ひき

旅先にはんぶんおいてきたのだらう切つた林檎のやうに心を

みづを吸ふやうにここを出て行きたい印字すくなきレシートを捨つ

ゆびさきに感じる乾きははりはりと君のこころの曲がつたところ

まばゆさと光はちがふ 見てゐしは驟雨のなかをむきだしの幹

組み立てる、対ふ、打ち消す、押す、割れる、鳴る、潰しあふ、組織と人は

ひらかるる日までひかりを知らざれば本のふかみに栞紐落つ

右足に鉄を踏みたり暮らしにはをりをり渡る踏切がある

ゆびさきにふれるものゆびさきがつくるものゆびさきがえらびとるもの

このからだ、まるごと汚してゑがきたい花粉(ボラン)にまみれる虫のごとくに

あけがたの蟬のこゑ聴くこのこゑのいくつがけふにをはるのだらう

にはたづみ ひらかるることばの庭のまんなかにいまからでもおいでよ

 

 

 

東野登美子歌集『ひすとりい』を読む

 著者、東野登美子さんにお会いしたことはない。偶然、お名前を知る機会があって、私からお願いして、歌集『ひすとりい』を送っていただいた。
 まず、『ひすとりい』という、歌集名に注目した。歴史に造詣が深く、その教師をされ、今も勉強をされている著者。あと書きには、「何よりも、私たちひとりひとりが、歴史的存在であること」と書かれている。あえて、ひらがな書きとしたことについては触れていないが、歌集を読み進めるにつれ、私は、アルファベットでも、カタカナでもない、『ひすとりい』というひらがな書きが似合う歌集だと確信した。

木星の第一衛星イオにある火山の噴火みたいな報道

数万年の眠りのなかの断層の真上で話す 業(カルマ)について

アテナイに怠惰の罪あり罰則は死刑!と赤く黒板に書く

 歴史に纏わる作品を、三首選んだ。

 一首目、結句の「報道」に掛かっている背景が、すさまじく壮大なスケールで、読者はたじろいでしまう。それでも、昨今の人間性をはるかに逸脱したような事件が頻発すると、なんとなく共感してしまう。

 二首目、こちらも、途方もない歴史の厚みを思わせる作品。人間の業というものも、歴史を積み重ねてきたのと同じように、地層どころではない繰り返しのなかで、積み重ねられてきたのだという思い。 

 三首目、「アテナイ」は、ギリシャ共和国アテネ」の古名ということ。人口の半数近くの奴隷がいて、酷使されたようだ。「アテナイ」は当ての無いに通じて、奴隷として生まれた者の、終わりの無い労働を思わせる。「死刑!と赤く黒板に書く」が視覚からも刺激的だ。

 歌集中、登場人物は、祖父母、実母、夫、そして娘である。

正月もお盆も休まん店やから国鉄みたい!と言われたお店

掌(て)の傷のわけを話さぬ祖父は杣(そま)、農民、そして兵士であった。

 祖父母は、「カトウ商店」というパン屋を営んでいたようだ。苦しい戦中、戦後の昭和の時代を、働くことで生き抜いた人達だ。「正月もお盆も休まん店」が、その生き様を物語っている。なるほど、「国鉄」は、三百六十五日、休みがない。

なきぬれてわれなきぬれてと呟いて昭和のパンを売っていた母

夜をひとりかもねん歌などつまらんとふっふっふうっと笑う母さん

   石川啄木や、藤原定家の歌を日常に諳んじながら、しかも、自らの生活に明るく重ねながら、忙しい日々をおくっていた母親像。著者が短歌を詠むようになったルーツが、此処にあると思う。
 
母がまだ少女期であった頃のこと「負けるってことは死ぬことだった」

いっ子ちゃんとジャンケンすると笑うから負けるってことは死ぬことじゃない

 負けるということの、両極を表出した二首。戦時下の「負ける」は、「死ぬ」と同じ意味を持っていた。しかし、にらめっこで負けるというのは、笑ってしまうこと。子どもの気づきとして表現された二首目によって、著者も読者も未来へのひかりを感じることができる。

「げんきかな」ただそれだけのひらがなを打ちいる指はしわしわだろう

ありきたりだけれど泣いてくれるからなんどでも言う「生まれてよかった」

 一首目、老いた母が送ってくるメールは、字を覚え始めた子どものようにたどたどしいが、純粋で素朴で、だからこそ心に響く。
 二首目、老いて幼い子どものようになってゆく母だから、娘として、こちらも素直に思いを伝えることができる。「生まれてよかった」という言葉以上の感謝の言葉が他にあるだろうか。


裁ち鋏たんと磨いて古そうな夫の肌着で試す切れ味

寄り道のカフェ一杯で香り立つ女になって ただいまあなた

濡れ落ち葉の見えるところに腰かけてふたりで食べているララクラッシュ

 一首目、この一首だけ取り出すと、サスペンスドラマのような怖さを醸し出しているが、二首目、三首目によって救われる。帰宅するまでに、外での様々な確執や喧噪を脱ぎ捨て、自らを軌道修正しようとする試み。ささやかな試みだが、著者の前向きな姿勢が伝わってくる。
 三首目、「濡れ落ち葉」は、実景ともとれるし、いわゆる「濡れ落ち葉症候群」的な意味合いもあると思う。「濡れ落ち葉症候群」が間近に見えるような距離感の夫婦だけれど、そこまでにはならない。意表をつく結句「ララクラッシュ」が、鮮やかで若々しい。

 登場人物の核となっているのは娘である。作品数も、圧倒的に多い。

もし君をたまごで産んでいたのなら食べていたかもしれぬ親鳥

   この圧倒的な表現に、読者は息を吞む。そして、この究極とも思える表現に至る著者の思いを、次のような作品から知ることになる。

障害を持つ子を産むなという識者 生まれてそして生きている娘よ

咲いたけどあまり褒めてもらえないペンペン草はランより強し

健やかに生かしてください吾の子も「おかねのけいさんはできません」

 障害を持って生まれてきたわが子へ、母としての、ただただ純粋な、生きて欲しいという思い。歌に、何の技巧も修辞もいらない。 

テグレトール限界までの処方にてきみにあらわるモナリザの笑み

リスパダール液体(不穏の時)とある。世界はこのごろ常常ふおん

 専門的なことは解らないが、どちらも、精神的に不穏な状態の際に処方される薬剤と思われる。一首目、謎めいていると言われるモナリザの微笑み、その本当の心の内は、当該の本人にしか理解し得ない。卵であれば、親鳥として、それを食べてしまうことは可能であるが、人格をもったひとりの人間に対してはそれもできない。障害をもっていようがいまいが、親と子であっても、ひとりとひとりの距離は、時に果てしなく遠いという思いに至る。
 二首目、ひと一人の不穏な状態よりも、世界ははるかに不穏であると思う。その不穏な状態が、ひとりひとりを不穏にさせて、他者を大らかに受け入れることをできなくさせている気がする。 

表現できぬ思いに苛立っているきみの そやけどなそやけどなそやけど

永遠に迎えに行けぬときがくる 来てくれないのと?と訊けないきみを
 
 子を見守り、支えることができなくなってしまう時のことを思う。自らで、自らの危うさを伝えられない子であれば尚更。痛切である。

 
 穏やかで、端正な表現でありながら、著者の視点、切り口は鋭い。最後に、その断面をあげてみたいと思う。

ほほえみを浮かべるように人を見て並んで貰う冷凍の魚

 動物園での様子。人間に対して、媚びているわけでもないのに、そのように見えるのは、著者の心象の反映だろう。そして、与えられるのは、生ではない冷凍の魚。動物も、人間もどこかさびしい。

リボンのような水草のせて浮遊するミズカマキリも肉食だという

 やわらかな流れの上句に対して、あの糸のようなミズカマキリがという結句にドキリとさせられる。

もう駄目だほんとにダメだが「忍忍」と呟くアニメの忍者を見ていた

 もう精神的に限界だという状態になって、それでもまだ、テレビ画面に「忍忍」とあっけらかんと言われてしまう。足をすくわれたようで、一瞬心のもっていきどころが無くなってしまうという場面。意外と、こんな状況はある。

家じゅうの食器を割りたいとりあえずペットボトルをペシャンコにする

 破壊願望というのであろうか。ほんとうは、何もかも毀してしまいたいのに、他への影響の無いペットボトルから手始めに。家じゅうの食器なんて、到底できない自分自身であることを知っているのも自分なのだ。

スズランを引き抜かれたるような日が暮れてスズランの毒を思いき 

 可憐で、ひ弱そうに見えるスズラン、その根や花には、最悪、死に至らしめるような毒があるという。「引き抜かれたるような日が暮れて」によって、誰かが誰かを死に追いやろうとしたのではないかということまで想像させて、迫力のある歌である。

停車場に降りてしばらく風を待つヤンマに光が刺さっている

 この作品も、結句が印象深い。「光が射す」とはいうが、その光が「刺さっている」という表現はあまり見たことがない。光に貫かれたヤンマの未来を想像してしまう。
 
夕雲の光るところを切り取ってともし火にするところで会おう

 歌集『ひすとりい』の最後におかれた一首。

 痛切な思いが編まれた歌集であった。抗えない今を抱えながら、それでも、灯火をかざして生きていこうという決意の表白された一首であると思う。

紀水章生第三歌集『着地点のない日常』を読む

   著者は、川柳をつくり、ドローンを自在に操り、YouTubeでは、美しい映像に短歌の朗読を重ねた作品を、次々と精力的に発表している。歌集『着地点のない日常』は、そんな著者の第三歌集である。


文字盤の消えてしまった時計からじかんを盗む如月の雨

音のない時間のなかを泳ぎきり明日の空へ声を届ける

 著者の作風は、第一歌集『風のむすびめ』、第二歌集『風と雲の交差点』を通じて、一貫して変わらない。家族や、実生活や、自らの属性を明らかにする歌はつくらない。意識的につくらないというのではなく、その必然性がないと考えているように思う。

 文字盤の消えてしまった時計、音のない時間、現実の世界ではない、異次元をたゆたうような感覚。けれども、そこに居続けることはない。下句、現実の「時間」ではなく、主体だけの「じかん」を取りもどし歩き始めるのだ。
 二首目も、揺蕩いのじかんを泳ぎ切ったあと、下句で、今日、明日へと未来をつなげていく確かな意思を読みとることができる。

試験管立てても横に寝かしても中に嵌め絵のような冬の陽

陽が落ちて水平線が滝になる地球は崖と奈落の星だ

 「陽」の歌を、二首を引いた。
 一首目、 試験管という狭い空間のなかに、陽射しを閉じ込めて動かしてみる。硝子越しの陽がキラキラとして美しいが、試験管という領域を出られないものたちは、決まった場所に嵌められてゆくジグソーパズルのようだ。
 二首目、壮大なスケールの歌だ。「水平線が滝になる」という、表現はもしかしたら、そうだろうか?という疑問を持ちながらも、下句、「地球は崖と奈落の星だ」と言われてしまうと、有無を言わさず、もうそちらの迫力に引っ張られてしまって納得し、ただただ感動してしまった。

 「光」と「朱」の歌を三首。

光とも影とも重なる一本の樹として春が立っていました

ひらくとき光呼び込むひとすじの髪にも見える朱の栞ひも

体温はすこし高いめ朱の色のきれいな金魚に見つめられてて

 一首目、光と影は表裏一体、「一本の樹」は人の一生、「春」は主体のメタファであろうか。

 二首目、朱の栞ひもは、血のイメージにもつながり、ドクドクするような妖艶な印象がある。白いページを開いたときに、光があたり、栞ひもに視線が釘付けになった。それは、今も息づいているひとすじの髪のようだったのだ。

 三首目、朱の色の金魚と、水槽越しに目が合った。主体を昂ぶらせるような魅力をもつ朱という色である。

「朱」から連なる、相聞の歌を三首。

鮮血のあふれる明るい満月の夜に重ねる尾びれと尾びれ

鳥たちの声のひらいていく花のひとつひとつが会いたい花だ

きみの手が小さなつぼみの中にいる春の歌声ゆびで弾いた

 一首目、下句の「満月の夜に重ねる尾びれと尾びれ」が、ぬめぬめとした官能的な表現で、性愛の場面をもイメージしてしまう。上句は、躍動感があり、生きることへの喜びにあふれている。

 二首目、鳥たちが花の蜜をついばみながら、次から次へと木々を移ってゆく。鳥がおとずれることによって、花びらが開かれてゆくような印象がある。下句「ひとつひとつが会いたい花だ」が非常に魅力的。
 
 三首目、とてもかわいらしい、春を奏でる絵本の1ページを開いているような印象。


またひとつフェイズシフトの夜が明ける鏡の中のわたしと未来

セミスィートシンドローム明け方の月ゆるゆると雫を垂らす

 著者の作品には、カタカナ書きの言葉を柔軟に取り入れている作品も多い。
 一首目、「フェイズシフト」は単純に、エネルギー切れのような状態だろうか。「機動戦士ガンダム」には「フェイズシフト装甲」という装甲技術が出て来るようだが。夜が明けて、鏡の中に映る主体は、果たしてエネルギーを満たされているのだろうか。

 二首目、「セミスィート」というと、ミルクチョコレートほど、乳成分を含んでいないややビターなチョコレートを想像してしまう。「セミスィートシンドローム」という疾患が、実際にあるのかどうか門外漢だが、チョコレートが溶け出すような下句との呼応が印象に残った。


傘がない傘がないっていうひとと星降る夜の銀河を渡る

水というものの不思議さ形変え満たしつつあふれあふれつつ満たし

宇宙人みたいなひとは鹿となり暗き夜屋根に芽生える出窓

 天体、自然、シュールレアリスムの世界について

 一首目、「傘がない」は、日常生活の一場面である。それを繰り返し言うことは、日常ではあまり無い。繰り返されることで、非日常へと瞬間移動し、やがて銀河宇宙へと飛翔していくようなファンタジーの世界が描き出される。 

 二首目、上句で、結論を述べてしまったのは残念だが、下句の「満たしつつあふれあふれつつ満たし」のリフレインが、主体の感情を表しているようで好感を持った。
 
 三首目、「シュールレアリスム」の絵画をイメージさせる。バラバラの存在感でありながら、妙に引きつけられる存在感を持つ。

 著者の深層心理について

ときどきは眼鏡をはずす表情が見えないくらいがちょうどいいんだ

銀色の少し冷たい文鎮にこころを押さえる役割を課す

冷えている足のつまさき温めてすこし緩んだひとりもいいね

ときおりは腰を下ろして振りかえる決別してきたものたちのこと

 著者の属性は、あまり明らかにされないと、冒頭に書いたが、上掲のような作品に著者の「ほんとうのところ」がちらっと垣間見られるのがおもしろい。

 一首目、ものごとに深く執着しない生き方とでも言おうか。人とのかかわり方も、深く入ってゆくということを敢えてしないということが窺われる。

 二首目、文鎮の質感がつぶさに伝わってきて、なるほど、少し昂ぶった心も、シフトダウンできるかなと思ってしまう。

 三首目、身体のなかで、つま先という、どちらかというと感情から遠い距離にある部位、そこが冷えているということを自覚してしまった、ああ、冷えていたんだと。そこをゆっくり温めて、自分自身をとりもどしてゆくような感じ。絶賛、共感できます。

 四首目、長らく著者の作品に触れてきて、著者自身も、あまり過去を振り返ることをせず、作品にも、思い出を懐かしむような作品は皆無だと思っていたが、このような作品に出会ったことに驚いた。けれども、「決別」という言葉に、著者の強い意思とその生き方を垣間見ることができる。

白井陽子歌集『切り株』を読む

 読み終えて、しばらく泣いた。悲しさではなく、なつかしさとぬくもりと、切なさが入り交じったような涙だった。著者の半生を共に生きたような感慨があった。
 白井陽子さんは、2013年に塔短歌会に入会したと記されている。すぐに自ら案内を見て、和歌山歌会に参加された。いつも、まっすぐで、納得できないことがあると、すぐにはっきりと「解らない」と意思表示され、会を活気づけてくれる。
 もう十年以上、お付き合いしているわけで、会として様々なことを経て、様々なやりとりをし、時には、意見の食い違いもあり、それでもお互いの人間性を認め合って今日まで来た気がする。
 そんな白井さんが、ただまっすぐに、ひたむきに纏め上げた歌集である。そのひたむきさが、つぶさに押し寄せてきて胸がいっぱいになったのだ。

 歌集は、孫の成長を軸に、その母である娘、夫、弟が描かれる。そして、日常の様々な場面で、もうすでに亡くなっている母の思い出が鮮明に描き出されている。
 

 時を経るごとに、著者の生活に娘家族の距離が実質的に近づいてくる。
 
子の家の勝手口からわが家へと庭を横切る石を敷き詰む

子の家の屋根の上から日差し来てわが家の縁にほっこり日なた

 若い家族が近くに来てくれたことの喜びが伝わる上掲の二首だが、その後著者は、子育てをふたたびやり直すほどの生活へと入ってゆく。

子守唄を娘の児にと聞かせればそばで娘がとろりとなりぬ

夢に来て吾と遊ぶ児は目覚めれば娘か孫かよくわからない

草むらに娘は児を連れバッタ追うわれが娘を連れ追いし草むら

 孫が生まれ、その母を支えることによって、自らの子育ての場面が甦ってきて、タイムスリップしてしまったような世界観を、子守唄や草むらで表現し、夢のなかの自分と交錯してゆく。

抱きしめてと夕餉の後に娘が言いぬ己がバランス崩しいるらし

 意表を突く初句の言葉が、母となった娘の危うさを描き、見守るその母の思いをも推しはかることができる。

孫を抱きし昼間のちから夜に無く畳に手をつき立ち上がりたり

 全面的に、娘家族の生活を支えようと思ってはいても、気力だけでは続かないという本音が吐露される一首。

井戸掘りし周りに夫と塩を撒くさりげなく撒き子らには言わず 

 世代の違いもあって、「よそ様は羨むけれどなかなかに 娘夫婦の隣家に暮らす」ことの気遣いを、塩を撒くという昔ながらの慣習に収束させているのが巧みだ。

 全面的に、若い家族を支えていこうと思ったのは、次のような母への思いが、常に下敷きになっていることがわかる。

「やめたらあかん」母のひと言と手助けに仕事続けて今日のわれあり

わが家の上棟式の記録あり「母のおにぎり釜四杯分」

 半世紀前の、著者の自宅の上棟式に、母が用意してくれたおにぎり。「釜四杯分」で、他の言葉は一切要らない。

 母につながる思い出は、どれもあたたかくなつかしく、そして、今はもうその名称さえ知る人も少ないであろう事物へと収束してゆく。

すき焼きの七輪囲みし日のありき母に代わりて勘定溝講に

ふるさとの山下さんへ山年貢八百四十円を納めに行きぬ

火消壺へ燠を運びし十能で石灰まきて瓜を植えたり

稲掛けの足のみつまた庭に立てシャツ干す竿に風わたりゆく

 「七輪」「勘定講」「山年貢」「火消し壺」「燠」「みつまた」、これらを知らない世代も多いだろう。しかし、著者は敢えて詠う。なつかしさとぬくもりを感じる詠い方で。著者の生活のなかでは、これらは皆、今も生き生きと活かされ、「死語」ではないのだ。

アーカイブゾーンと名付けて押し入れに羽釜や斗枡、火鉢を仕舞う

 「アーカイブゾーン」が、絶妙だ。父母につながる昔からの暮らしを大切にしたいという思いで命名したすばらしいお宝スペースである。

本脇(もとわき)に今も三軒の「じゃこや」あり釜揚げしらすの潮の香のする

柿ふたつちいさな袋でもらいたり赤き柿の葉一枚添えて

 著者の住んでいる土地柄が、映像として伝わってくる二首。ほんとうに泣きたくなるほど懐かしいのは何故だろう。

 次に、この歌集の軸となり流れとなっている、孫の歌である。孫歌は、どうしても甘くなると避けられがちだが、著者はひるまない。まっすぐに素直に詠い切る。
 この歌集のなかで、孫歌は、対象を、ただ可愛いだけの存在として描くのはなく、一人の人格をもった人間として描いている。よけいな感情をはさまず、ただ繊細な観察眼で、目の前の幼が、だんだんと人格を形成してゆく様を丁寧に表現してゆく。
 日常の繊細な観察眼を発揮できるのは、やはり、若い夫婦と同じくらい、いいえもしかしたらそれ以上、濃密な時間を孫と過ごしているからに他ならない。
 
園のごと「そろいましたか」児が言いて夕餉始まる もうすぐ三歳

神様は狼やてと三歳は「国懸大神」(くにかかすおおかみ)を祝詞に聞いて

包帯にクマのシールを貼りくれぬ「どんなにしたん?」とそっと撫でつつ

お迎えの玄関先の傘のなか「雨のにおいがする」と幼は

ムスカリは好きな青色と三歳はアンパンマン鋏でみな摘み取りぬ

 私は、とくに、「おうちりょかん」の一連が大好きだ。家族皆が、生き生きとして、孫の視線に立って、孫の世界を真剣に楽しんでいる。何という幸せな時間だろう。

子の家に〈おうちりょかん〉の紙張らる引き戸開ければ〈受付〉のあり

じいじとばあばも一泊す番号を書いた厚紙の鍵を受け取り


児が振り向けば児の手のホースも振り向いてわれや窓までぐっしょり濡らす

そりすべりの服を着こんで座り込み児は井戸掘るをじいーっと見つむ

「よかったら」が「一緒にやろう」の上に付く積み木に誘う五歳二か月


食器棚の奥に小さき箱のあり〈ランドセルつみたて〉と上にわが文字
 
 前に、「アーカイブゾーン」を引いたが、こちらは〈ランドセルつみたて〉、「おうちりょかん」もあり、著者は、日々の生活を豊かにするこつを心得ているのだ。

 
 弟に関わる歌は、少ない。けれど、それぞれ家庭を持ち、老年にさしかかるまで、姉弟のつながりがあるというのも貴重なことだ。

「教育」をわれに説きたる弟の二十歳の手紙はインクが青い

ことさらに用事なけれどおとうとの声聞きたくて電話してみる

断水にポリ缶と水を京都から運びくれたり おとうとありて


 孫の成長を、真ん中に据えながら、家族の穏やかな生活は続くように見えたが、あまりにも突然、夫の死がおとずれる。どんな夫であり、どんな夫婦であったのか次のような作品が如実に語る。 

警笛をぷっと落として帰りゆく駅までわれを送りて夫は

ドアを開けおい元気かと夫の言うゆぶねに沈みものを思えば

われの手を気遣い夫はついて来て野良で初めて草ひきをせり

「終わったかぁ」音を立てずに隣室で二時間過ごしし夫の入り来ぬ

葬儀屋は「えっ初めてです」と驚きぬ夫にピンクの棺を選ぶ

核兵器のない世界めざして」のポスターと署名用紙を葬儀場に置く

お互いを名前で呼び合うことの無く「ねえ」の後は「とうちゃん」そして「じいちゃん」

 
 歌集中、娘、孫、夫のことは、丁寧に描かれるが、自身の心の奥深くを見つめる歌はないのだろうかと探してみた。

われに降る雨粒を傘で受け止めて少し傾け真横へ流す

負けへんと何度叫べど出来ぬことやっぱりありぬもうすぐ冬だ

あなたには無理でしょうねという人の声に羽つけ空へと飛ばす

 著者の、自分自身の生き方を曲げることをしない芯の強さを感じる作品を引いた。一首目、三首目のように、他人の意見は一応聞いておく。しかし、受け入れられないものは、上手に横に流したり、空へ飛ばしてしまう。著者が年齢を経て身につけてきた処世術だろう。


『おおきな木』の切り株のようになりたいと思う日々なり ひょごひょご動く

子や孫がほっこり座れる切り株にわたしは未だなれぬままいる

あとしばしひょごひょご動き子や孫がほっこり座れる切り株目指さん

 子や孫がほっこり座れる切り株になりたいという思いは、歌集をずっと貫いている。未だなれぬと言っているが、じゅうぶんその役目を果たしていると思う。

 これから、著者の娘や孫が、その時代、時代に、どんな思いでこの歌集を開くのだろうかと思うと胸がいっぱになる。願わくば、著者が切り株のまま終わらず、いまいちど、ひこばえを芽吹かせてほしいと切に思うのだ。