ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

千葉優作歌集『あるはなく』を読む

毎月の『塔』の作品や Twitterに流れてくる著者の作品を読み
いつも、わたしの心のなかの風景がそのままとりだされて、目の

前におかれているような感覚に陥る。

それほど、この人の紡ぎ出す言葉の世界は、私が表現したくて
したくて、それでも表現し得ない世界を、圧倒的な表現力で
差し出して見せてくれる。

歌集『あるはなく』が出版されるのを知ったとき、どれほどの
喜びと期待、そして怖れにちかいものを感じたことだろう。
                

見上げれば虫に食はれたところから空に変はつてゐるさくらの葉

みづたまりだつた窪みのあらはれて路上に消えてあるみづたまり

営業をやめてしまつたコンビニがさらすコンビニ風の外観

半円にすこし足りない虹かかりこの世にはない残りの円弧

二千年前からミロのヴィーナスがしづかに耐へてゐる幻肢痛

この世に存在しているものたちは、自分が在ると信じているだけで
本当は、自分の視界のなかだけのもの、他者には見えていないもの
なのではないだろうか。

一首目、確かに葉として存在していたものが、すこしづつ消えてゆ
き、やがてその場所は空という名で認識されるようになる。
森羅万象すべてが、そのように移り変わっていくことを見つめる
冴えたまなざし・・
人間の営みも同じであると、著者は思うのだろうか。

二首目も、水たまりとして捉えていたものが、水が存在しないだけ
で、もう水たまりではなく、別の風景として視界に入ってくるのだ。
三首目、四首目、コンビニや虹の半弧が、たしかに存在したもので
あるはずなのに、その残骸のように現れるとき、著者は、その見え
ない方の世界に思いを馳せるのだ。

五首目、ミロのヴィーナスの両腕に視点を当てる。不在ゆえの想像力。
けれど、幻肢痛を詠ったのは著者が初めてだと思う。しかも、その痛
みにしずかに二千年を耐えているというのだ。

 

次の三首も、そうである。
自らの認識によって、対象のものはかたちを変える。対象は変わって
いなにのに、自らの身勝手な思いによって捉えられる。
著者は、その対象側に立って詠う。

失くしたと気付かなければえいゑんに失くしたものになれないはさみ

ほんたうは僕が変はつたせゐなのに度が合つてないと言はれるめがね

こんなにも脚が長くておれの影なのにおれには似てゐない影


見めぐりの静物に対してのまなざしも哀しくて深い。

ワイシャツを脱げばわたしがワイシャツのたましひだつたひとひが終はる

生身の人間の体温を纏うことによって、息を吹くワイシャツ。
著者の一日の労働も、ワイシャツを脱ぐことによって終わるのである。

 

月光に濡れて窓辺に吊られゐし形状記憶喪失のシャツ

形状記憶と銘打たれたシャッツも、着古され、何度も洗われくたびれてゆ
く。老いてゆく人間のように。 形状記憶喪失が、衝撃的。

 

ハンガーは何も言はずに吊されてかくも静かな労働がある

こんなかたちの労働があるということに気づき、著者は何を思っただろ
か。たぶん自らの労働を重ね合わせ、労働というもののほとんどが、限り
ない静かな忍耐を重ねてゆくことだと気付いたのではないだろうか。

 

著者が、かなしみや、さびしさを、事物や情景に託して表現するとき
今まで誰も詠わなかったかなしみやさびしさとして読者の前に現れる。

いつか降る雪はわたしを比喩にして空がかなしみから溢れ出す

わたしは、空の大きさから言えば、たったひとつの比喩でしかない。
わたしの存在さえも、やがて雪のようにとけてしまうはかない存在かも
しれない。けれども、そんな私を生きてゆく。
かなしい歌だが、絶望的でないのは何故だろうか。

 

手羽先をひとりでほぐす夜である絶望的に空がとほいよ

思ひ出の手紙の墓となるだらう鳩サブレーの黄なるカンカン

まへぶれもなくこはれたるすいはんきあの日のきみがさうだつたやうに

手羽先、鳩サブレーの黄なるカンカン、すいはんき、どれもが日常の
なかで、それほど光をあてられる素材だとは思えない。

けれど、著者の短歌世界では、手羽先をひとりでほぐす行為と、絶望的
とまで言い放つ著者のさびしさの呼応は、やはり手羽先でなければなら
ないように思えてくる。

鳩サブレーの、あのビタミンカラーも、別れた人の手紙を入れる箱なら
ば、おのずと墓となってしまうのだ。

炊飯器という、日常にあたりまえのように使われて、そこに在るのが
あたりまえのような存在も、壊れるには壊れる前の前兆のようなものが
あるはずだ。あの日のきみに、前ぶれもなくというしかない悲しみ。
(この歌は、チューリップの サボテンの花を思い出した)

 

社会詠も、著者は、限りなく自らの身めぐりに引き寄せて詠む。

たんぽぽのやうに暮らしちやだめですか三万人が自死する国で

三万人が自死するこの国に生まれ、この国に生きてゆく私達、春の
草生のなかに咲き、風にまかせて綿毛を飛ばし、下り立ったところに
また新しい命を育んでゆく、そんなたおやかな生き方を望み、それは
叶わないと知っている著者。

 

常識的な時間に洗濯機を回し隣人に刺されないやうにする

赤ん坊の泣き声にさえ険悪となる人と人とのつながりのなかに生きて
「常識」とは、誰の判断基準をもってあるのかを問いたくなる。

 

みづからの子を殺したる男さへ新聞は父と書かねばならぬ

「父母」という概念が覆される事件が多い現世、事実を端的に表現して
主体を新聞にしたところが、ありきたりではない社会詠となった。

 

著者の、生と死に向けられるまなざしは、こんなに若い著者が、と驚くほ
ど日常の生活に息づいている。

労働の合間はひとり死んだものばかりを詰めた弁当を食ふ

八ツ四つ串いつぽんにつらぬかれ鶏は四羽も殺されてゐる

鯖缶のぶつ切りの鯖 この鯖の身体が別の鯖缶にもある

日常の飲食のなかに、著者は生と死を見続ける。冴えて、冷めた目である。
しかし、読み終えたあとに、命を奪い続けることで命をつないでいる
私達の日常をつきつけられていることに気付く。

 

いつかゆくあの世の雪を見てゐたり流しに洗ひものを残して

平凡な日常の繰り返しのなかに、ふっと、現実から浮遊した一瞬がある。
今存在しているすべてのものは、存在した瞬間からいなくなる運命にある
のだから・・・。


睡蓮が水面をおほふ夏の午後こんなに明るい失明がある

明るさと暗さは表裏一体である。水面の明るさに閉ざされて、水中は光を
失う。それを失明と表現することによって、いのちが生々しいものとして
迫ってくる。


最後に、わたしが大好きな、夕焼けの歌を二首あげる。
二首目は、歌集中の作品ではないが、この圧倒的な歌を読んで、私は
言葉をなくした。


アキアカネその二万個の複眼に映る二万の夕焼けがある

わたくしが踏切ならば遮断機を下ろしわすれるほどの夕焼け
 (トワ・フルール二十二号)

橋本恵美歌集『Bollard』を読む

穏やかな湖面である。やわらかな陽がさしている。
時々、激しい風が来て、水底深くまで揺らしてゆく。

風が通り過ぎると、また、なんでもなかったように
もとの明るくて静かな湖面にもどってゆく。

その一見、明るくておだやかな湖の、深いところに
沈んでいる冷やかかな手ざわりを、作中主体と共有
していく・・

そんな印象の歌集だった。

歌集名の Bollard は、舟をつなぎとめておくための
ロープなどをかけておく、岸壁に設置される杭のような
ものだという。
 
ボラードに繋がる舟が離れゆく舫いの綱はゆるく解けて

ボラードに繋がる舟が、作中主体にとって、どんな存在 
で誰であったのか、読者は歌集を読み進めていくうちに
知ることになる。

穏やかな湖面を想起させたのは、次のような作品からで
ある。作中主体は、基本的に心が健やかなのだろうと想
像させる。

新しき六馬力なる空調機付けられ六頭立てのそよ風

空調機が六馬力だから、六頭立てという発想、それを
操る作者像が見えて爽快だ。

通路の向こうのナッツがもりもり減りゆくをトンネルごとに窓が映しぬ

列車の中での光景を、ナッツに焦点をあて描写している
ところがおもしろいし、トンネルに入る時のみにそれを
知ることができる車内の位置関係まで想像させてしまう
ところが巧みだ。

最後の時よく燃える樹になりたいとモリンガの油を肌に塗り込む

死後に自分が焼かれるときのことであるのに、明るくて
飄々としている。

蓮根をすり下ろすときせっかくの美味しい穴が消えて行きたり

蓮根は、穴がおいしかったのかと真面目に思ってしまう。

「賞味期限過ぎてるさかい早よ食べて」カステラ一箱客は置きゆく

本当は失礼な話なのに、こういうことも笑顔で受け入れて
しまう作者像が顕ちあがる。


歌集中に、登場人物は多い。
父、母、義父母、そして夫と息子である。

幼かった息子が成長し、離れて暮らすようになり、その
日々を遠くから気に掛けている様子が、抑制の効いた
表現で描かれている。

ひきだしから小さなめがねは現れてこんなにちいさい十歳のかお

子の上の台風の空を知るために競馬中継しばしつけおく

鶏肉にゲランドの塩を振るごとき言葉をかけて子を送り出す

たこ焼きの木舟は薄く櫂も無し消えたいなどと言うな太郎よ


冒頭の、湖面を揺らしている風を思わせ、水中の冷たさに
触れるような二首

「帰れ」と言われ帰るしかない春の朝 小舟のように実家を離れゆく 実家←じっか

ただ一度祝ぎのために来し母のうしろに揺れていた雪柳


義父母との関わりも、古い慣習のなかにありながらも、凜と
した生き方をし、懐ふかく受け入れていることがわかる。

「大声でたまに泣けば」と義母は言うあなたの前で泣いたりしない

産道を通らず生まれてきし子どもは根性ない子と姑に言われき

母子の安全を考えて、帝王切開という方法を選択することもある。
その場合、陣痛の際の母と子の、長い闘いはない。だから、子ど
もには根性がないという。少し前までは、そんな偏見もあったか

もしれない。事実だけを述べているが、哀切である。

「大きなおしり」お尻を喜ぶ義母である力士の後姿映れるたびに 後姿←うしろ

庭草を踏みつつ進めゆく車輪 重さ無きひと運ぶ心地に

義父が使っていた車椅子を倉庫から出す場面。「重さ無きひと」
は、その人の存在感はあるのに、事実として重さがないという
さびしい描写だ。

 

夫にむけるまなざしも、おだやかである。

火屋を拭くしずかな時間が君にあり灯りのふちを銀河は包む

「火屋」とは、香炉などの蓋のことだという。あたかも銀河が、
地上の静かな時間に蓋をする火屋となっているようだ。
君の静かな時間にそっと寄り添っている作者像も見える。
歌集中、最も好きな歌だ。

初めての親の襁褓を買いに行く秋の日夫は僧の目をせり

「僧の目」とは、慈愛に満ちた静かなまなざしであろうか。

薬園に夫はさみしい巨人なり雨の無い日は雨を降らせて

薬園は、スモールワールドである。そこに暮らすことはできな
いから、せめて、雨の無い日には潤いをと作業する夫を静に見

守っている作者である。


「ボラードに繋がる舟」を父と限定してしまうことは、単純
過ぎるかも知れないが、歌集の大きな流れとなっているのは
やはり、父が病を得て亡くなるまでの作品群であろう。
そして、実に悲しいことだが、そこに至って作品は、重さと
深さを増しているように思う。

父と母ふたりで障子を貼ることも最後と思えば冴え来る白さ

銀の柵のむこうに立ちて父はもう改札口を超ゆることなし

行き着くところが解っていて、現在を見つめるとは、なんと
いうやり場のない悲しみであろうか。

重いこといつも喜ぶ父だった練羊羹や味噌選ぶとき

顔白く小さくふたつ並びおり少し湿った燐寸のように

この歌も、好きな歌だ。湿った燐寸は、ふたたび灯をともす
ことはない。父母の顔が、血の色をなくし、小さくて、主体

には寄る辺ない存在感として立ちはだかったのだろう。

白鳥に乗せても沈まぬ父だろう白いシーツに血が付いている

星空を父と仰げば星を観る私ばかりを父は見ており

父母をよろしく頼む姉妹なく電気ポットに声かけ帰る

後ろ髪をひかれながら、父母をおいてゆく。頼みとなる人は
誰もいなくて、電気ポットに声をかけている。その唯一ほの
あたたかさをもつ存在に・・。

かつて今日われのサンタでありし人 風呂を嫌がり冬を忘れる

閉じてゆく宇宙だ父は強烈な磁力を帯びて誰も寄せつけず

父に繋がるチューブ何色 蛍は生まれし川に朝死にゆく 蛍←ほうたる

今日よりは父の使わぬ石鹸の続きを母が使い始める

人の死を受け入れ、生きているものは生きていかなければなら
ないとは、こういうささやかなことなのだろう。

庭に向く小窓の網戸に残りおり銜え煙草の父の高さは 小窓←まど

新幹線に関所なけれど停車のたび裡なる馬に水を吞ませる

薔薇の実紅く揺れおり会えぬ日々父が小窓に見ていし庭に


作者は、絵画に造詣が深いようだ。多くの絵画が、作品に現れ
その鑑賞の様子なども詠まれる。
他にも、いくつか印象に残った作品を記しておく。

始まりに湯を沸かすときレスネスの農場の朝の煙突おもう

知らぬ男の体温近く絵を眺む半袖なれば腕など触れて

カンバスに触れしゆびさき拭うときテッシュは無くて何の布なる

こんなふうに、絵画を見たことはなかった。描いている画家のか
たわらにタイムスリップして、その指先を見つめているような感
覚になる。

猫のひげ戸口に落ちていし朝発芽せぬその髭を拾いぬ

ちいさい亀に大きな影のあることもふいに哀しき冬の入口

そう言えば、そのもの自身よりも大きな影を背負って歩いていた
りすることもある。影は重さを持たないのに、なぜかそのものが
背負っている翳りのように思うこともあるから不思議である。

胡瓜草の脇に自転車停まる朝 排尿を褒める大きな声は

雪雲は湾より来たり遠雷の一つ鳴り青きアネモネが散る

スケールの大きな歌である。遠雷とともにやってきた雪雲が
かたわらの青いアネモネに収束していくくだりが絵画的で
あねもねの青さが、はっとするほど鮮やかである。

ひとり馬を洗うさびしさ部屋ぬちに見える背中の白く遠くて

前髪に鋏はひかりを入れながら男は哲学めく話せり

本の厚みほどに開けたる小窓から風が圧し来る皿を置くとき

本の厚みほどという表現が、効果的である。皿を置くという
動作より、何かを動かしてみる方法もあったかもしれない。

食卓に白布ひろがる静けさに誰かが目覚めるまでを待ちおり

グリザイユの少女の膝に鳩はあり種火を包むように両手は


最後に、作者は、本来心が健康で、強い風が来て揺らされても

柔軟に撓う力があるのだろうと思った所以の章がある。
LR41 の一連である。
作中主体が、誤って電池を飲み込んでしまうという非常事態
を描いているのだが、実に客観的で、飄々とした表現が多い。

パニックになってる夫を叱りおれば救急隊員われを宥める

再びをひかりの元へ出でしとき電池は鈍く黒く錆びいる

また、歌集最後のところでも、思いがけぬ自らの身体の異変
に遭遇するわけだが、こちらも一大事であるのに、やはり
自らを俯瞰しているような、ゆるやかな表現が多いのは、作
者の個性であろう。

自画像のごと眉を描きゆく宣告の前かも知れぬ夏至の窓辺に

左耳を台に押し当て貝殻のように汀に揺られていよう

憩室がわれには二つあるという 自分の部屋を持たぬ私に


長くなってしまったが、ともかくも、心だけでなく、作者の
身体の健康もお祈りしたい。

大地たかこ 歌集 『薔薇の芽いくつ』を読む

大地たかこさんの第三歌集、『薔薇の芽いくつ』を読む。


 自分の短歌がこのままでいいのかと迷い・・・立ち位置が定まっ

ても独りよがりな歌であってはいけないと、いくつかの歌会に参加

しています。

という、あとがきを読んで、著者の姿勢をとても素敵だなと感じ、

それが顕れている歌集だと思った。

 

まず、連作としてのおもしろさに注目した。
ある場面ではエッセイを読むように、ある場面ではやさしい童話の
ように、ある場面では、昔語りをとつとつとするように、その作品
世界に引き込まれてゆく連作が多かった。

特に次のような一連が、印象深かかった。

『真白き輪つか』

巻頭におかれている一連。

農水省神戸植物防疫所国内検疫担当者某氏

など、あえて堅く事務的に、事象を追っていく展開が、その事象の
大きさを物語る。

伐られたる梅林の梅は四百本 すうすうすうと鴻臚館が見える

一切、著者の思いを表現していない一連のなかで、この一首が際立つ。

躑躅を添へる』

自死といふさいごを夫は言ひしのち「楽になつたんやな」と呟く

一連の導入としておかれた一首。夫の素朴であたたかい言葉が、あと
に続く甥の人となりへと導いてゆく。内容は、きびしく辛いものであ
るが、このあたりの一首一首の配置の仕方が絶妙である。

すみれさう・はこべ・かたばみ低く咲く墓地の隙間の土を掴んで

雨の日は雨のあかるさ人棲まぬ家の軒よりツバメ飛びたつ

くらく悲しい事象も、著者の歌には、命の力強さと希望のひかりが
窺える。

『父とオルガン』

朝ぼらけ 海のにおひがするやうな、からころ下駄の音するやうな

「たかちゃーん」と幼きわれを呼んでゐる缶蹴り遊びの誰かの声が

まどろみの中で、父母がいて、姉妹がいて、つつましくあたたかい
くらしがあった時代にかえってゆく一連。

懐かしい映画を観ているような、ひとつひとつの情景が、せつなく
鮮やかに甦ってくる。

たらちねの母はとぎ汁そそぎたり一叢の金魚草にしやがみて


連作を、三作品あげたが、他のどの作品も、ストーリー性があり

連作として読み手をひきつける魅力をもっていると思った。


以下、特に印象に残った一首をいくつかあげておきたい。


××と雨戸に板打つ父の手が、口より釘出す父の手が、うかぶ

台風が接近すると、必ずどこの家でもやっていた風景。
こんな父の姿に、一家を守るという存在の大きさを重ねていたのかも
しれない。口から釘を出すという人間離れしたことを、あたりまえの
ようにやっていた時代。幼い子どもには偉大でしかない。

トロ箱の平目もびびんと水沫飛ばす「昼網でっせ」と声するなかを

歌集には、関西弁が多用される。
この作品も、市場の活気が伝わり臨場感いっぱいの効果がある。


夕かげのなかにとくさは群立ちて青銅の鈴のやうなしづけさ

薄暮のなかで「青銅の鈴」の音を聞いた感覚。とくさの直立した風景
を視覚だけではなく、著者だけが感じる身体感覚でとらえたところが 

崇高な気配さえ感じてしまう。


葛の葉が覆ひつくしていく速さ 歌からはなれたいといふ思ひ

太郎月のみみづく吾に囁きぬ「やめたいというひとはやめんよ」

歌集全体に流れる印象は、なべてやわらかく前向きな作者の姿勢が
窺われるが、時にこのような作品があると、一瞬足をとめてしまう。
葛の葉は、なにかにとらわれている自分自身の姿であり、葛藤でも
ある。みみづくの語り口が心地よく、安堵をおぼえる。


丸型の赤きポストをみつけたり その頭を撫でてガマズミガマズミ

あかまんままんままんまといひながらその穂しごきしあなたはだあれ

葱坊主ほうほううたふ夕つかた吾もうたふよ だあれもゐない


著者の、オノマトペの使い方も魅力的である。
一首目、「ガマズミ」は特にポストとの関連はないはずだ。しいて言
えば、秋に赤い実をつけることぐらいか。それなのに、ポストをなで
ながら、呪文のようにこの言葉を繰り返すと、ポストは作中主体にと

って唯一無二のひかりを放つ。

二首目、「あかまんままんままんま」三首目「ほうほう」なども著者
独特の童謡の世界に導かれていくような表現だ。
「ガマズミ」も「あかまんま」も、植物名であるのに、著者独自の

オノマトペのような印象を受ける。

 

棒切れの好きな男の子が森をゆく木橋に来たら流すよ、きつと

上掲の、ガマズミの歌もおさめられている『流すよ、きつと』の一連
のなかの一首。

子どもは、棒切れが好きで、それを振り回したり、何かをつついたり
するのが大好きだ。そして、小川のせせらぎを見つけたりすると必ず
それを流そうとする。その子どもの持っているのびやかさ、明るさを
大人もわくわくしながら見ている。
牧歌的で楽しい一首である。

彼岸花ひと束ひと束流しをり捨てておいでと言はれた子ども

彼岸花は、「死人花」などと呼ばれたり、毒があるから摘んではいけ
ないと言われたりして翳りのある花である。無邪気にその華やかさを
摘んできた子どもが、捨てておいでと言われて、そのありあまるほど
の中から、ひと束ひと束、せせらぎに流している。

この作品も、童話の挿絵のようなせつない風景だ。


歌集をずっと読み通してみると、幼少期をふりかえって描かれている
作品が多い。
それは、時に眠りの中の風景のように淡く、時に目の前のできごとの
ように鮮明であったりする。

どちらも、今ここに在る著者自身のなかに生き続けて、著者の生きる
力になっている風景であると思う。

思ひ出といふ非力の味方のあることの ほらもう枇杷の花が咲いてる

木下のりみ歌集『真鍮色のロミオ』を読む

 作者、木下のりみは、同郷の和歌山の歌人である。
年齢も近く、もっともっと短歌に関わる話をして刺激をもらいたいなと思いなが
ら果たせないでいる魅力あふれる歌人だ。

 

真夜中のガラスをたたくかなぶんぶん真鍮色の小さなロミオ

 

 歌集をいただいて、まず戸惑った。果たして、「真鍮色のロミオ」とは、何だろ

う。最初はなにか彫刻のようなものを想像していたのだが、歌集を読み進めるなか
で上の一首に出会って、ますます作者の自在な創作力にひきこまれてしまった。
ロミオとは、あの有名なシェイクスピアによる戯曲、『ロミオとジュリエット』の
ロミオであり、深夜、作中主体の窓をたたくのは、禁断の恋の相手、ロミオだった
のだ。このおかしみ、この飛躍、この表現力が、作者の持ち味だ。


 ところで、わたしは時々、歌集のあとがきから読み始めるという悪い癖(?!)が
ある。今回もそれをしてしまい、その文章を読む中で、ああそうか、私はこの人の
こういう部分に魅力を感じているんだなと、あらためて知ることになったのである。

 よくある歌集のあとがきとは、少し違っていた。十五年ともに暮らした愛犬を亡

くし、その火葬の折の作者の心象を綴っているのだが、深い喪失感とは対極にある、
人間というものの滑稽さ、愚かさ、そんなあらゆる業のようなものがないまぜにな
ったおかしさ・・その心情を実に真裸に表現しているのだ。

 今回は、あとがきから先に読み進めてよかったと思い、おかれている歌にも深く
興味をもった。


愛犬にまつわる歌もそうであるが、作者の動物へのまなざしは独特のものがある。

 

暖かくなりて姿を消す鶫そう言えばツイード上着きていた

わが庭に今日も来ているジョウビタキ黒紋付きを尻からげして

仏さんのお下がり一つぶも無駄にせぬ雀の親子の静かな食事

 

 作者の身めぐりは、常に季節の鳥や虫、植物たちに満たされている。作者は、
それらとのかかわりを、人間の上から目線ではなく、古くからの親しい友人のよ
うに表現する。上質なツイード上着や黒紋付を着た個性あふれる友人達として。
庭にくる雀たちには尊厳さへ感じる。


抱いてやろうと犬にいうとき私が抱いてほしいと犬は知ってる

撫でて抱いてぼんちゃんの命を手の平に載せていし罪こころを暗す

 

 愛犬は、単なるペットではなく、作者の心の襞に深く寄り添う存在であり、そ
の存在を亡くしたときには、それまでの関わり方を罪とまで表現する謙虚さを、
作者は持ち合わせている。


靴音の周りに真空地帯あり遠巻きにしてすだく虫の音

虫たちがまだ続けいる輪唱に朝はくらしの音かぶせたり

秋冷にけやきは立てり青蝉の行き止まりかも尽く尽くと鳴く

 

 虫の歌を三首あげた。一首目、「真空地帯」が凄い。まさにそのような感覚
がある。その距離は、人間と自然界との「真空地帯」なのかもしれない。
 二首目、私達は、自然のなかで暮らしている。共存しているとは言いがたい
人間界の無頼をしずかに気付かせてくれる歌だ。
三首目、つくつくぼうしの終焉を、「尽く尽く」と聞くのは作者の心象風景な
のかもしれない。


吞んで帰るふたり転ばぬように手をつなぎて「月が明るすぎるね」

欄干にふたつ折りして休ませる酔っぱらってる私のからだ

津波来ればあなたは逃げよ僕は犬と残るこの愛どう考えるべき


 夫婦ふたりの関わりも、実に飄々と表現される。ほのぼのとした日々の暮らし
が想像される。


ちゃらぽっこ 壁に椿象ぶちあたりテレビの首相の鼻先にとまる

おそろしい時代がくるとこの人も話す今はまだものは言えると

日本人を守らんがため派兵するなどと言い出し始めましたよ

熱りたつ首相を見れば加速度的に冷めてゆくなりこの人は遠い

戦後初の戦闘に死ぬひとりかも知れぬ若者かも知れぬ彼

 

 世情に対する批判、不穏な時代への不安、怖れを表現した作品も多い。どれも
作者ならではのユーモアを纏い冷静ではあるが、それだけに余韻が残る。


焚き染めし御衣の姫を抱くやうにうち伏すセージの葉むらを起こす

身の盛りともしきろかも風に伏しし萩のひとむら起き上がりたり

 

 古典和歌の趣を、現代にタイムスリップさせたかのような二首。何気ない日常
の情景であるのに、雅な感じがする。


川土手の野焼きの煙充ちている橋を行くなり火渡りのごと

黒野にふたたび野火のかぎろいを見せたり村は夕映えのとき

重なれる山の果のはたた神しのつく雨をひきつれて来る

 

 作者の住まいは、熊野に程近く繋がりも多い風土である。「火渡り」「末
黒野」「はたた神」など、奥深い熊野の山々とそこに連なる古道や田園風景
は作者の創作に大きく影響し、表現力を育ててきたと思われる。


氾濫のあとの無惨を消す闇にぽつんと光る水の自販機

 

 東日本大震災の年、紀伊半島を大きな水害が襲った。何もかも流されてしま
って、夜の闇は、その無惨を見えなくしているけれど、皮肉にも、水の自販機
だけは流されずに、その在処を光らせている。抗えない自然への驚異と人間の
営みのかそけさの対比が印象的だ。


あかつきの部屋に静まるものみなに影が生まれるところ見ている

おかっぱの藤田嗣治をまねた友のふっ切れ方がまぶしくてならぬ


 歌集中の作者像は、おおむね気負わず自身の軸もぶれにくく、歩むべき道を
歩んでいるかのようだが、時折、上のようなひっそりとした影を感じる作品も
あって魅力的だ。
 特に、二首目は、開放的で行動力もある友のまぶしさに比して、自らはその
域に達しない(あえてそうしない)自らを静観しているような歌だ。


思い立ち夜更けパン種こねていたわれこそ酵母だったあの頃

遠いところに来てしまったな戻るには同じ時間をかけねばならぬ

 

 最後に、特に好きな二首をあげる。
人生の残り時間などと言ってしみじみとする作者ではないと思うが、その生涯
を淡々と見つめる折もあるだろう。
 一首目、「酵母」という表現が、たまらなく良い。体中に未生のものへの限
りない憧れをはらませていた時代の輝きを感じる。
 二首目、遠いところにきてしまったことを悔いる歌ではない。長いながい道
のりを、その折々に自ら選びとって今ここに在ることを感慨深く見つめる歌で
ある。平易な表現に余韻が残る。

 

 第一歌集「たゆた」第二歌集「まんねんろう」、そして、第三歌集「真鍮色
のロミオ」と、木下作品に長い時をかけて接することができたことをとても喜
ばしく思う。
 そして、今度こそ、短歌についてゆっくり話す機会をくださいと申し出よう

と思っている。

田村穂隆歌集『湖とファルセット』を読む

そうか、僕は怒りたかったのだ、ずっと。樹を切り倒すように話した

 

歌集『湖とファルセット』の帯にある一首である。

いつからだろうか。作者のなかにある沸々としたマグマのようなエネルギー、
そのエネルギーの来し方も、行く先も見えないまま、ただそのエネルギーを
自らの身体に内包させてきた長いながい年月・・。

今、そのエネルギーは、切っ先の鋭い数多くの短歌というかたちとなって
この歌集が編まれた。

「怒り」は、身体のなかに溜め続けてきた途方もないエネルギーであり、
「樹を切り倒す」ほどに、歌は生まれ続けているのだ。


田村穂隆の名前を知ったのは、塔誌の若葉集の頃からである。
身体感覚を誰も詠わなかった感覚で表現する短歌にひどく惹かれた。それからは
彼の作品が掲載されている雑誌等も積極的に入手して読んだ。

今回、歌集というかたちで、田村穂隆の人間像を目の当たりにすることになり
その喘ぎや、悲しみ、怒りに素手で触れているような感覚に陥った。
ひりひりとした感覚のなかで、咆哮のような作品群に触れながら、そのどれにも
今を精一杯生きたいと願う作者の息づかいをつぶさに感じたのである。

 

田村作品には、自らが樹木であるかのような、樹木と対話しているような作品が
多い。

青空の破片を浴びて凄惨に光を増してゆく樹氷

自らが、内なるものを尖らせ続ける樹氷であり、眩しすぎる外界を受け入れられず
それでもその明るさを反射させて、ならばいっそ凄惨に輝いてみようという決意。

 

感情に触れればまるで樹皮のよう燃やすのならば大きな森を 

内なるものの激しさに火をつけて、燃やしてしまいたいという衝動

 

水底に朽ち果ててゆく樹のようなそこに悲しみ棲みつくような

あるときは、その激しい感情をも、水底に沈めて静かに眠らせてしまいたいという
思い。

 

両脚にこころを溜めて人間はすこし身じろぎできるだけの樹

ときに抗いながら、ときに諦念のなかで、森羅万象のもとで、人間の出来うることは
なんとささやかなのだろうかという思い。


祖父は父を父はわたしを殴って許されてきた

最近の父は朗らかわたくしも朗らかなのに伸びる氷柱

パンクした自転車を押すこうやって父の車椅子もきっと押す

父には父の記憶の海よいつからか傷は豊かな水深となり

歌集には、実に多くの「父」が詠まれている。
「男らしく」「男として」「男ならば」、日本古来の「男」としてのイメージは
おそらく私自身も含めて、「日本男児」につながる類いのものだったと思う。
そして、作者にとって、それは「父性」そのものだったのではないだろうか。誰もが
疑わず受け入れているように見える「性」というものを諾うことができずにいる自分。
その葛藤が、父との関わりのなかで顕わになっていったのかもしれない。

上掲の四首は、そんな葛藤のなかからも、年老いて、幼いころの作者には絶対的な存在
であった「父」とは、また違う関係性をもつようになり、「父」の存在を静観出来るよ
うになっていく過程を窺うことができる。

 

「男性」「女性」の在り方もそうだが、恋愛して、結婚して、「女性」は、子どもを
産んで、それが当たり前の幸福、それができない者は、何かが欠落しているかのような
考え方、おそらく今まで殆どの人々がそんな考え方を受け入れて、この国の歴史は繰り
返されてきたのだろう。
自らが何か違う、どこか間違っていると思いながらも、声を上げることができずに、自らを苛んできたのだろう。


平らかにプールの底のような胸、圧されてひかりまみれの溺死

わたしにもキウイにも毛が生えていて刃を受けいれるしかない身体

海綿体、許可なく膨れあがるのはおやめ お前は斧ではないよ

憎むなら毛深い闇を でもきっとわたしのなかのヘテロフォビアは


自らの感情と肉体はひとつにならず、そのことに抗うすべもなく、ひりひりとした感情は吐露されてゆく。


弁当箱でクラスメートを殴った日、連休明けの白い教室

眠すぎて泣きそうになる僕は僕に愛されなかった子どもだから

医師からは意志が脆弱だと言われ 確かにそうだ 通えなくなる

にんげんは好きだ人間関係は嫌いだ ペットボトルを洗う

僕は誰の灯台だろうまっしろなシャツをなるべく汚さぬように

医師からは意志が脆弱だと言われ 確かにそうだ 通えなくなる

よく冷えた唾液を舌で泡だててわたしはがまんできるいきもの


生きづらさとよく言われるけれど、何故自分自身の感情に素直になろうとすればするほどそれを拒む力が、周りから働くのだろうと、いつも思う。
感情を押し殺して、あるいはやり過ごして、おだやかに笑うすべを身につけた者だけが
生き残れる世の中は、少し違うといつも思う。

田村作品に触れていると、自分自身の暗闇の部分が見えてくる。

肉体であれ、感情であれ、誰もが自分自身を全面的には好きにはなれない。その好きになれない部分をともなって生きていくことの息苦しさ。
一首、一首に立ち止まりながら、あのとき、あの場面で感じた怒り、自らで蓋をしてしまうしかなかった悲しみ、何処へ、誰に伝えていいのかわからなかったさびしさなどが
ほろほろと溢れてきて泣きそうになった。

 

田村作品の精神世界は、一首一首がジグソーパズルのようだ。自分自身が、何者であるか何処へたどり着こうとしているのかわからないまま、不器用に、試行錯誤を繰り返しながら断片を嵌め続けているように思う。
やがて、すこしづつ、それが自分のかたちとなってゆくことに、ひかりを見いだしながら。
このことは、彼に限られたことではなく、私自身にも、そして、この歌集を手にした多くの人達にも当てはまることだと思う。

初めから決められたかたちなどないジグソーパズルである。完成ということがないのかもしれない。それでも、やはり私たちは、日々その断片を嵌め続けてゆくのである。

 

この歌集が、ひとりでも多くの人に読まれ、自らもジグソーパズルを嵌め続けているひ

とりだと思い出して欲しいと思う。

 

最後に、田村作品の精神世界にひきこまれてゆく作品をいくつか。


草原にひとつの穴が空いているような猫の眼 風の真昼に

履歴書に証明写真を貼るために少しだけ切り落とす両肩

銀のフォークをミルクレープに沈めゆく力加減であなたに沈む

僕らは朝に牛乳を飲む 骨壺に収めるための骨を育てる

既読はついた、返事が無い。既読はついた。ばうむくうへん木の味がする

対岸が霧に切り落とされた湖 欲しがれば欲しがるほど遠い

流水に鳴る白磁器よ訣別の後のあまりにながい余白を

雨後の窓に歪むあおぞら、青空の腕力によってわたしも歪む

ポリエチレン手袋に包まれた手が桃の奇形果みたいに湿る

白い部屋 あの世にわたしが生まれる日この世をしぼる産道がある

あまりにも無風の夜を月は満ち沼の寡黙が晒されている

折り鶴は肉をもたない鶴だから風にしゃらしゃら鳴らすたましい

花は無いけれど一輪挿しがほしい 心のための体ですからみず

溝川清久歌集『艸径』を読む

冬生まれだからだろうか、冬の空気が好きだ。
幼い頃、薪を集めるために山に入った。
陽のあたらない木陰の湿った土の匂いや、ふかふかとした枯葉の嵩を足裏に
感じながら歩くのが好きだった。
せせらぎというにはさびしい水音や、鳥の声、さざ波のような風の音も
聞こえてきた。
きいんと張りつめた空気の中で、体中が冬の空気になってしまったような
怖いような、潔い心地よさがあった。

溝川清久 『艸径』を読んで、そんな感触が鮮やかに甦ってきたのである。

「静謐」という言葉があまりにも似合う歌集である。
私事、歌をつくる際、誰も詠わなかったものを、刺激のあるものを、華の
あるものを・・などにとらわれて、自らに静かに深く向きあうこと、身め
ぐりのかそけきものへ五感を研ぎ澄まして向きあうというシンプルだけれど
もっとも難しいことを忘れていたことに、この歌集は気付かせてくれた。

読み進めてゆき、一首一首立ち止まりながら、どれほどの数の作品を
書き写しただろう。


作者は、絵を描く人のようである。数多くの草花に静かに向きあいその息
づかいを丁寧に描かれているのだろう。草木花へのまなざしが深くて優しい。
そして、どこか寂しい。

川上へ真白き雲の移りゐつ草にも樹にもなれず帰り来

どれほど、草や樹を描き、草や樹に癒やされたとしても、私たちは人として
ここに存在するのだから、人として全うしたいと希うのだ。

ひと消えし地球のやうな苔の上に実生のかへで植ゑ了はりたり

すこし湿り気を帯びた苔の上は、悠久の時が流れているような、過去も未来も
なくただ静かな時が存在するような、「ひと消えし地球のやうな」に引き込ま
れてゆく。

逆光に火伏せの銀杏散る下を身ぬちしづけくなりて過ぎたり

銀杏の木は、大火をを防ぐ役割をするという。身の裡に滾るものをもちながら
樹下をゆくと、その思いを宥め沈静化してくれるのかもしれない。
逆光のなかの銀杏、火伏せなどのイメージが絵画的である。

しら梅の散りはじめたる水ぎはに失ふ日日を春と呼びをり

春とは失うものの多い季節だということに気付いた。花々が一斉に咲くという
ことは、それらがすべて散っていくということなのだ。
人々の日常も同じ、失うことによって季節のうつろいを知ることがある。

 

君のこゑが雪と言ひたり覚めやらぬままになづきの仄か明るむ

雪の日の朝は、限りなく静かだ。まだ半分眠りの中にいて、その雪の気配を
額だけで感じとっている。この世界観がたまらく好きだ。

いまだ知らぬわれへと還るしづけさに雪の融けつつ樋をつたひをり

この静かさも好きだ。雪が融けて樋を伝う音だけしか聞こえない、そんな
独りの時間、世界に自分だけ取り残されたような・・。今まで知らなかった
新しい自分に出会えるような・・。

ほんたうに楽しかつたね秋の日をひと生のごとく言ひつつ帰る

幼い子どものように、一日の楽しかったことを素直に口に出してみる、それが
まるで一生分のように。屈託無くそう言えることが素敵だ。

さびしさの端をゆつくり折るやうにゆりかもめ飛ぶけさの川の上

ゆりかもめが方向転換して飛ぶ様子だろうか。「さびしさの端をゆつくり折る
やうに」という心象表現がたまらく魅力的だ。

空薫の香のけむりの見えながら桜咲く日の遅きを言えり

空薫(そらだき)は、昔ながらのお香のたき方のようだ。言葉を削ぎ切って
それでも、その場の状景と季節感、かぎりない静けさを感じとることができる。

破れ来たる広辞苑第四版を淡きみどりの花布支ふ

花布(はなぎれ)は、本製本の中身の背の上下両端に貼り付けた布のこと。
破れるほどに使い込まれた広辞苑の大いなる姿をかろうじて支えているのは、
淡いみどりの花布だということに気づき畏敬にも似た思いを持ったのだろうか。


作者には太平洋戦争で早世した二人の伯父がいると言う。

伯父の墓にあをき蛙のひそみをり陸軍伍長の長の字のなか

誰の墓も竹の枯葉の降るなかにおのが高さの影を持ちをり

戦時下に生きたというだけで、その命を枯葉のように燃やしてしまった
おびただしい数の人々、ひとりひとりにかけがえのない生きた証があった
はずだが、今は、墓標となってそれぞれの影を落とすのみである。

インパールとレイテに果てし二人ののちわが係累に戦死者をらず

言い切りの結句が、これからも平和であり続けてほしいと願う切なる思いが
込められている。

「本歌集を編みながらこうした世になき人たちが生きた時間をも歩みなおして
いると思った。時代を超えて折々に出会った人びとによって日日のどこかを
支えられて来たのであろう。」

あとがきに、作者の思いを知ることが出来る。


父の字に電球とある小箱よりグローランプを出だし取り替ふ

三針の柱時計を掛けありき父の打ちたる釘のみ残る

父を詠った歌二首、どちらもさりげない日々の生活のなかで、見過ごして
しまいそうな素材をあたたかなまなざしで掬いとっていると思う。
グローランプは、忘れるくらい長い間にしか取り替えないし、三針の時計も
すでに過去のものとなってしまった。


ところどころにおかれている子どもへの歌。子どもの具体的な表現は皆無
だが、子どもに繋がる素材が淡々としていて切なくなる。母性とは異なる
父性というものを垣間見た気がした。

子の文字で「なにかのたね」と書かれありバウムクーヘンの箱のおもてに

花描くは蕩尽に似む春の草を子への短き文に添へしが

離るとも父でゐるなり草の上を覆ひし雪のはだらに融くる

うへの子が小学校から使ひ来し机に春まだき朝刊ひろぐ

さくら花仰ぐなく子の発ちゆけりサドルを元の高さに戻す

球根から花までを見たる半年に幾たびも子の土産と言ひき


最後に、

周辺をたゆまず描けばおのづから主題際立ち来ぬと画家言ふ

描くとは自己を表はすことならず梅雨の日おのが置き場をさがす

一首目は、歌集の最初の方、二首目は、最後の方におかれている。
作者が、絵を描くなかで、そして深く描こうとするなかで、自らに顕れて
きた心の変化なのかもしれない。

 

永田愛歌集 『LICHT』を読む

どのように生きてもたぶんかなしくてときおりきみの指が触れるよ

歌集の装画は、子どもの手遊びで切り取られたようなあかるいレモンイエロー
の断片が散らばっている。しかし、この歌集を流れているのは、言いようのない
さびしいレモンイエローだ。
あたたかい人々の指に触れても、作者の奥深くには、溶けることのない根雪の
ようなものが存在し続けているのだろうか。

 

森からは遠く離れている町の 森へとつづく道を知りたい

森は、作者にとって何のメタファだろうか。作者の居場所は、森から遠く遠く
離れている。しかし、森には、何か心を高揚させる、あるいは癒やしてくれる
未知のものがあるかもしれない。その道を探し続けたい作者なのだ。


もうだれも祖母のかなしみ知らなくて祖母は自分で足の爪切る

祖母がいまわたしの背中を撫でている撫でている手をよろこぶ背中

祖母だけが撫でてくれるよ頼りなく暮らす大人のわたしのことを

老いて、自らのことも解らなくなってゆく祖母だけれども、作者にとっては
いつまでも祖母で、幼子のように接してくれる唯一の存在なのだ。


会いたさかさみしさなのか 月までの段をひたすらのぼりゆきたい

さびしいから会いたいのか、会いたさが強すぎてさびしいのか、わけのわからぬ
ままいっしんに月までをのぼってゆきたい衝動、その鼓動が聞こえる。

 

はつなつのみじかい午睡の外がわに雨降っていて雨の音する

ここはもう夢なのだろう清音のきみの名前をいくたびか呼ぶ

浅いまどろみの中で、夢の中なのか、現のことなのかあいまいな中で、はっきりと
現の雨の音を聞き分けている。一首目、「午睡の外がわ」がいい。
二首目、「ここはもう夢なのだろう」の浮遊感が、名前の清音によって増す。


重荷にはならないようにすこしだけ近い未来の約束をする

葉月にはひまわり咲かむわたしからわたしがいなくなったとしても

心から弱りゆくのか体から弱りゆくのかわたしがとおい

障害を抱えて精一杯生きている作者、心弱りを歌にすることで、またわずかでも
前向きになれるよう願うばかりだ。


ひとのことを浅く憎んでいたころの十代のわれに短歌はなくて

十代のわれに「短歌はなくて」という否定形によって、今、作者に短歌があるこ
とを際立たせている。短歌に出会ったことで、人間性をも変えてきたのだ。

 

たくづのの白ぼうたんに水を遣るだれの母にも妻にもならず

「たくづのの」は、白に掛かる枕詞、「だれの母にも妻にもならず」という
強い言い切りが、白のイメージによって、より潔く哀しい。


守りたいものは少なし五月雨に肩幅ほどの傘をひろげる

多くを望まない。雨にかろうじて濡れないだけの「肩幅ほどの」傘があれば・・
作者の慎ましく生きていこうとする思いが窺われる。


A3のコピー用紙を運ぶとき溶けない雪の重みをおもう

「溶けない雪の重み」から、冒頭に書いた、根雪をイメージする。。
「A3のコピー用紙」は、社会のなかで、作者の前に立ちはだかる壁なのかも
しれない。

 

三人も甥っ子を抱く一生の思いがけない菜の花畑

三人の甥っ子とのかかわりは、作者にとって、なんの衒いもなく素直に入って
ゆける穏やかであかるい陽だまりなのだろう。結句「菜の花畑」は、歌集の
表紙をも想起させる。

 

いつの日かきっとこの世を出るような静かさなのだふたりっきりの

特急うずしお十二号(2700系)の一連から。短編小説を読んでいるような
展開に、青春時代の初々しい高揚感が甦ってくる。
それでも、上掲のような一首に出会うと、一連はやはりせつなさに溢れていて
さびしい。

 

春の樹になりたいときは外に出て手足をしろいひかりに当てる

歌集を流れている水は、雪解けの水のように純粋で冷たい。それでも、
詠うことによって、少しでも前向きに生きたいと願う作者の息づかいが
感じられる。春の樹は、作者の希望の象徴のように思われる。