ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

中井スピカ歌集『ネクタリン』を読む

 一冊を通して、作品に勢いを感じた。それは、他者を威圧するような勢いというのではなく、ポップコーンがはじけるようなカラッとした軽やかな勢いのなのだ。まっすぐに、素直に、それは読者の心に響いてくる。

 まず、序章として、そして後半の折々に詠われているのは、職場詠である。

グリーンとだけ呼ばれてる受付のグリーン三つに水を与える

 自らも、組織のなかでは、このように総称や、役職として認識されているのだろうという思い、自らを「グリーン」に投影している。「水を与える」という動作によって思いが伝わる。

もうあいつ辞めさせろという声響く向かいで書類の端を合わせる

 他者(おそらく同僚)の失態に対して、本人がいないところで、その処遇について、軽口として話題となる。よくある場面かもしれない。しかし、その「辞めさせる」という言葉のもつ深い意味を思い巡らしながら、間近に聞いていることしかできない。この一首も結句の寡黙な動作の表現が効いている。

人件費浮いた分だけ部長たち優しくなりて小糠雨降る

代わりなら幾らでもいて赤々と脚入れかえてゆくフラミンゴ

先輩もOutlookも設定をやり直されて対策が済む

 一首目、いわゆる首切りを何人かしたことによって、経営が楽になるということだろうか。そのポストに就いていた仕事は誰がするのだろうか。短絡的な発想を諦念をもって見ている。

 二首目、三首目、組織の一員として駒のように動かされてゆく日常、「フラミンゴの脚」や、PCのシステムの設定の具体がよい。

「前にも言いましたけど」の口癖が浅瀬で方位を失くしたままだ

 「前にも言いましたけど」という口癖で、部下を指導?!しているのを、日常として聞いている。この言葉は、仕事上、功を奏しているとは思えない。深く、部下の心に届くこともなく、発した言葉が浅いところで行き場をなくしている感じ、言葉を発している人を揶揄しながらも、どこか哀れみのまなざしも感じる。 

キーワード打ち込む両手ベンチから守備位置へ散る球児みたいに

残業のデスクに明かりを足すようなグレープフルーツジュースの湖面 

 職場での、ゆきどころのない怒りや疑問、哀しみも、作者は声高に詠もうはしない。感情も強く出さない。淡々と、さらっとそこにおいてみせるだけ、それだからこそ、読者は、そこから深い背景をたどることになるのである。
 もうひとつは、冒頭に書いたように、根っからのからっとしたポップコーン的な明るさがあるのかもしれない。
 それは、上掲の二首のような作品から窺うことができる。

 ただ、前向き、行動的でありながらも、長いスパンのなかで、少しづつ少しづつ、澱のように溜まってくる疲労感もある。それが次のような作品だ。

石膏のピエタみたいに湯に浸かる婚活っていう略語の致死量

 「石膏のピエタ」が絶妙で、心も体も疲れ切った主体を最大限に表現している。 

角形2号ポストの底へ突っ込んでこのまま終われないことばかり

 「角形2号」だから、簡単な書類ではないし、折りたたむことができないものなのかもしれない。能動的な行為のなかにも、将来への不安感を感じる。

月食が起きる頻度でよいのです よくやったなって言って撫でてよ

 頑張っている、自分は頑張っている、誰かのために頑張っているのではないけれど、その頑張りを、一言でいいから褒めてほしいと思うことがある。「月食が起きる頻度」って、欲がなさ過ぎると思うけれど、それほど、だからこそ、「よくやったな」が尊い言葉のように思えてくるのだ。 

 
 父母に関わる作品にも眼が離せない。 

吾の中の湖が今日は深いのだ実家の親はますます老いる

 老いてゆく親をつぶさに見るのはつらい。離れて暮らしていて、ひさしぶりに会ったときなど、その老いの加速度的な速さに唖然としてしまうのだ。

胃に肺に土足で踏み込む母がいてそこにマティスの絵などを飾る
  
 親というのは、他人のように、距離をおきながらとか、言葉を選んでとかをしない。直球で思いを伝えてくる。頭のなかでは、こういうものだと理解しながらも、感情は許さない。「マティスの絵」は、赤が印象的である。血縁といものに、衝立を立てるように置くのだろうか。
 
別々の準急に乗っているようにパラレルのまま母さん、またね

 会って直接話をしても、わかり合えないという思い。さびしいというよりも、そういうものなのだという明確な認識を、パラレルワールドとして捉えた。でも、「またね」なのだ。

安置室へ向かう車が真夜中のアンダーパスを潜ったままだ

「肺が溶けたせいです」母は淡々と呪いのごとき喪主挨拶を

 父の死に関わる二首。
 アンダーパスを潜ったまま、這い上がれない車。父の亡骸を、安置室へ運ぶまでの闇のような時間。「アンダーパス」が絶妙だ。
 
 二首目、喪主挨拶で、「肺が溶けたせいです」と言わしめた、父と母との推しはかることのできない長い時間。どんな確執があり、どんなやりとりをして過ごしてきたのだろうか。「淡々と呪いのごとき」と表現しているのだから、主体は、当然その一端を把握しているのだけれど、父に対しても母に対しても、主体とは別の人格として静観している毅然とした主体の生き方を感じさせる。

霧雨が胸を犯して降る午後にいなければいい人を数える

不浄と引けば月経と出る大辞林 葉陰に深く腕を浸した

がむしゃらに自分が嫌い五十枚一気につらぬく穴あけパンチ

 冒頭に、明るいポップコーンがはじけるような勢いと書いたが、上掲の呪いのような作品も見逃せない。 
 一首目、「いなければいい人」を数えるという。自ら手を下して排除しようとするとかではなく、身めぐりの相関関係を冷静に見直してみるという感じだろうか。それにしても、上句が不穏だ。
 二首目、上句が、ドキッとさせられる。それは、過去の慣習からきているものだとしてもだ。
 三首目、勢いと迫力がある。他者には、冷静であったはずなのに、自分自身に向けられるものは、感情も激しい。
 
 さて、最後に、どうしても、パートナーについての作品をはずすことはできない。「石膏のピエタみたいに湯に浸かる婚活っていう略語の致死量」という歌があり、結婚というかたちについても、何か自分の中で様々な葛藤のあったことが窺われる。
 そのようななかで、パートナーに心を添わせてゆく過程が、作品として表現される。

体温を忘れあってはそれぞれに流れる川の右岸で暮らす

捨ててゆく机を一度撫でてから左岸の部屋へ移り住む朝

川はもうよそよそしい顔 越してゆく私に橋を渡らせながら

 パートナーとは、川の右岸と左岸で暮らしていることがわかる。それぞれの、これまでの生活、生き方を認め合いながら、川を越えて共に
生きていこうとする様子が、まるで、但馬皇女が、「いまだ渡らぬ朝川渡る」と詠んだような決意を思わせて趣深い。

一体になってしまうこと恐ろしいフクロウ闇に眼をみひらけり

植物のような交わり責めもせず新しい日を生きだす君は

バイバイっていつか言う日が来るまでの君であり空であって窓辺だ
  
 何も迷わず、ただ好きということだけで突っ走れる年齢を過ぎてしまったということだろうか、性愛についても、どこか臆病である。フクロウは、そんな主体の奥深くまで見透かすように眼を見開いている。
 二首目、「動物的」の対義語となっている「植物」、草食動物をイメージして、本能的な荒々しさのない感じとして読んだ。穏やかな信頼感のなかで、新しい生活が始まったことを示唆している。
 歌壇賞の「空であって窓辺」からの一首。既成観念や、他者の偏見にとらわれず、自らの思いによって、パートナーとの日々を編んでいこうという決意、パートナーの存在感、が端的に表現されていて心地よく読者に届く。

 「空であって窓辺」は、歌集『ネクタリン』をぎゅっと凝縮したような一連だ。そこから、印象に残った作品をあげておく。

空であって窓辺

キッチンにスタッカートが溢れ出し朝の器へ落ちるシリアル

球場に差しかかるとき右翼手が両手を上げる瞬間だった

もう君がいないと不安 川べりに本読みにゆく背を見送って

母はもうお金を認識できなくてエッジの効いた自由を暮らす

「仲良くはないです」と言い 違うと気づく 雨は西から追いついてくる

嫌いって言い切れたなら渡りゆくアサギマダラの光の浪費

お互いのために、いえ、私のために車窓は母を置き去りにする

バイバイっていつか言う日が来るまでの君であり空であって窓辺だ


 歌集『ネクタリン』、作者の来し方と現在までを、その場に居合わせたような感覚で、感情の一端を共有しながら読み進めてきた。私にとっては、何の拒絶反応もなく、すっと入っていけて、その表現方法に感動する場面がたくさんある歌集だった。

毎日を二人で暮らす靴下を片方取り違えたりしながら

 先のことではない、今、この日常、それが一番だいじだと思います。

 

丸山順司歌集『鬼との宴』を読む

 節分も近いので、鬼の歌集を・・
 丸山順司第二歌集『鬼との宴』である。
 第一歌集『チィと鳴きたり』を読んだときには、読者が身構えずに入ってゆける穏やかさと懐の深さを備えた歌集だと思い、その心地よい魅力にとことん浸りながら歌集を味わったように思う。
 今回、『鬼との宴』を読み進めるなかで、飄々とした表現、一見平易な語り口は変わらないが、その水面下にある、とてつもなく緻密で繊細な部分に触れた気がした。それは、第一歌集のときも同じだったはずで、たぶん私が未熟であったために読み切れなかった部分だったのだと、今あらためて思うのである。

のほほんののの字よろしくふるまひて座を抜け来たり寒き雨ふる

一匹の蠅が飛びをり食堂に蠅を相手に昼メシを食ふ

はつきりと了解したのぢやない感じ「はい」の代はりに「ほい」と返事す

夏雲の光りて眩し午睡(ひるね)より覚めて伸びするでえだらぼつち

ちよつとへこんで、ごめんなさいよと春の末の二十日の月が昇りて来たり

だいこんがもういい、もういい、くたくただなどとつぶやく煮汁の中で

小春日の陽射しに昼をまどろめば和泉式部が「なうなう」と呼ぶ

老夫婦の金魚なるべし「夏だねえ」「お昼寝します?」と話してゐたり

 力の抜け方が心地よく、読む者の心まで弛ませてくれる歌をあげた。
 一首目、主体のふるまい方によって、その場の空気を乱さずにおこうという思いが伝わる。道化のように表現しながら、結句に本音が込められている。
 二首目、怒りを顕わにする人もいるかもしれない場面。「蠅を相手に」の表現が、大らかな諦念を感じさせる。
 四首目から六首目、どれも、ひらがな表記の部分が、とてもいい味を出していて、それこそよく煮込んだ煮汁からしみ出してくるような旨みがある。 
 七首目、謡曲で、人への呼びかけに発する語「もしもし」という意味合いの「なうなう」と、SNSなどで流行した「晩飯なう」などのように、今(now)~してるという使われ方をオーバーラップしたおかしみのある一首。
 八首目、金魚に語らせているところが絶妙である。人間ではおもしろくない。

 著者の短歌のいちばんの強みは、「気づき」だと思う。著者が、あとがきでも書いているとおり、「普段の暮らしの中で浮かんできた言葉を書き留めています。」ということなのだが、その視点が、抜群におもしろい。同じ場面を目にしても、こんなふうに捉えることができるのかと唖然としてしまう。

アスファルトの道に穴あり裂け目あり吸はるるやうに雨流れゆく

人の背にわが影のありその人は気づくべくもなく信号を待つ

 日常、街角であたりまえのように見ている光景。あんなに頑強であるかのように見えるアスファルトにも、負の部分はあり、雨というものは、そんなわずかな裂け目にさえ染みこんでゆくという発見。
 二首目、影はその人の影であるはずなのに、自らを離れたところにその存在を見つけたことの驚き、まるでその人のたましいが、身体から抜け出して、他者に乗り移ってしまったかのような景である。

「身籠もる」と「身罷りぬ」との字面似て人の生き死にとうとうたらり

 「身籠もる」は、新しい命の誕生、「身罷る」は命の消失、真逆の人間の在りようがよく似た漢字で表現されていることの驚き。「とうとうたらり」は能楽で、翁が冒頭に唱えることばということだが、「身籠もる」と「身罷りぬ」の字面によく合っていると思う。

コーヒーから珈琲色の湯気が立つ(それはないやろ)ポスター眺む
 
 湯気が珈琲色であるわけないでしょうという気づき、括弧書きのつぶやきが効いている。こういうことは、日常いくらでもあって、そのことに疑問を持たない日々を生きてるんだなと気づかせてくれる。
 
〈毒液〉と書かれたボトルが店頭に置かれてありぬ〈消〉見えざりき

 風刺が効いていて、抜群によい。ほんとうは、〈毒液〉であって、私達は、その上に〈消〉を付け足したものを使わされているのではと、逆なことさえ浮かんでくる。

靴跡のマーク無くともつひに人は一メートルの間を取り並ぶ
  
 こちらも、コロナ禍以降、日常として当たり前のように、その光景に慣らされていたと思った。人とは、このように慣らされ、統制されていくものなのだと怖い感じもする。

シャンプーのポンプを幾度押すもさて液はパイプをもう昇り来ず

 何気ない、日常の生活のヒトコマ。「押すもさて」という言い回しと結句が、著者ならではの詩情を立ちあげた。 

著者は、広く絵画に興味を持っているようで、絵画に関わる作品が頻出する。

まひる熱田の森の参道にニワトリ鳴けりその木下闇

語らへば声に寄り来る鯉のむれ池の上なるあづまや涼し

 「夏雲の下」の章に、上の二首があり、絵画的な色彩と構図をイメージしたが、のちに、「跳ねあがる鶏の尾羽をひと筆に描ける若冲の気と息づかひ」の一首があり、その影響を受けているのだと思った。

 シャガールフェルメール、リヒターなどの絵も、著者の日常に分け入り、その感性を刺激しているようだ。

君のなかにうづくまる我シャガールの「私と村」のやうな夢見つ

かたぶける壺の口よりひとすぢのミルク垂るるを見守りゐたり

収容所(ビルケナウ)の写真を絵とし描きたる画を塗り込めしリヒターの念(おも)い

 次の二首は、大津絵に描かれた、七福神の福禄寿の様子。滑稽で愛嬌のある福禄寿が歌集中では、間をおいて二回登場する。著者の求める「抜け感」がここにもあるように思う。

福禄寿の頭に梯子をたて掛けて毛を剃りゐたり つやめく頭

福禄寿の頭にはしご立て掛けてのぼり詰めたりちとひと休み

 冒頭で、「その水面下にある、とてつもなく緻密で繊細な部分」ということを書いたが、そのように感じた作品をいくつかあげたいと思う。

水瓶(すいびやう)に蓮いちりんの幻影を見せて佇む観音菩薩

 観音菩薩は、像としては確かに立ち続けているのだが、その魂は水瓶に影を落とすいちりんの蓮のようにあやういものなのではないだろうか。「すいびょう」と読ませることで、研ぎ澄まされた空気が走る。

十月の朝(あした)に殻を脱け出でし蟬ありあはれ世に遅れたる

 蟬は、蟬としての生涯を全うしているだけなのだが、人間界の季節では遅すぎた。人間にもあるはず、時代に合わずに生きづらさを抱えている人。

この日ごろ馬酔木が花をつけたるを君に言はむと思ひて言はず
  
 「馬酔木が花をつけたよ」たったそれだけのことなのに言わない。気忙しさのなかで、言えなかったのではない。敢えて言わなかったのだ。それが、「馬酔木」だからか、読者は想像するしかない。「馬酔木」が、迷(まよい)木に通じている。

どぶ川にセリの花咲けり町裏をあゆむ朝(あした)のこころ閑(かん)なり
  
 結句の「こころ閑(かん)なり」が、虚ろな空間に鳴る音のようで絶妙である。

あらばよし無くともよしと言はば言へ軒陰の鉢に羊歯群れて生ふ

 「あらばよし無くともよしと」は、著者の哲学だと思う。この心持ちは、この歌集に貫かれていて、そんな佇まいで、何億年も昔から生き続けている羊歯というものに畏敬の念を持っているのも確かだ。
 
深き夜に何度も聞こゆ〈ホームとの間が広くあいてゐます〉と
  
 「ホーム」は家庭だろうか。「老人ホーム」とも読める。昼間に聞いたアナウンスがリフレインのように著者の闇に響いてくるのだ。

今宵また酒を飲んでゐる今飲んでおかねばといふやうに飲んでゐる

 突然の災害や、病疫によって、私達は一瞬に未来を奪われてしまうという危うさをもって生きている。「飲んでゐる」の繰り返しが、今生きていることの実感として伝わってくる。

京(みやこ)より石山寺まで文(ふみ)を持(も)て小舎人童(こどねりわらわ)けふ二往復

 小舎人童(こどねりわらわ)は、公家や武家につかわれて身辺の雑用をつとめた召使いの少年だという。長い距離を一日に二往復、文献でしか知ることのできない内容を、時代特有の呼称を巧みに使っていて印象に残った。

 さて、最後に、歌集名ともなった次の一首がある。

つまびかむ三味線(しやみ)は無けれどとつくりの酒をとぷとぷ鬼との宴

 主体にとって、「鬼」とは、どんな存在だろうか。自らのなかに棲む「鬼」、あるいは、私達人間がつくりだした、現世のありとあらゆるところに棲む「鬼」・・
 いずれにしても、著者の向き合い方は、次のような身構え方である。

宇宙より来たる男のいつしかに馴染みてただの男となりぬ

このままでよいかと問はれそのままでよいと答へぬ あんぱんひとつ

 「あらばよし無くともよし」は、著者の哲学だと、先に書いたが、ここにきて、それは「ひとつのあんぱん」として、著者の胸のすくような心地よい生き方を読者に示してくれた。

金川宏歌集『アステリズム』を読む

 予測変換にたっぷりと浸っている日常のなかで、この『アステリズム』は、その予測変換的なものをことごとく裏切って、バッサバッサと切り捨て、その意表のついた切り口を、あらゆる方向から晒して見せてくれたという感じがする。
 平凡に着地はしない。どこまで、飛翔するかわからない。時代もわからない。国も、名称も、人称もわからない。
 ただ、『アステリズム』の世界で、駅や図書館や、楽器、人体までもが容赦なく燃やされ、終末的な滅びの予感さえ見えてくる。だからと言って、そのことに嫌悪感を覚えることはない。むしろ、その滅びに対して、憧れに似たものを感じているのも不思議だ。日々、日常に、私達は、たたき壊したいもの、燃やしてしまいたいものを、裡に秘めているということだろうか。

びしょ濡れの葉書が届いている五月いつかその森にころされにゆく

 びしょ濡れの葉書は、通過儀礼だろうか。誰にでも必ずおとずれる死、その予感というものを、こんなかたちで受け取ったとしたら・・。「ころされにゆく」という、衝撃的な言葉も、ひらがなでひらいたことにより、自らが「死」を迎えにゆくような静かな決意めいたものを感じる。

そのオノで、と言いかけてみずをしたたらせ動かぬ森よ ならばわたしが

 上の作品に呼応した一首。私の命を奪おうとしている森よ、お前が手を下さないなら、私自らの手で・・。森には抗えぬ不動の対象が棲んでいて常に、主体の前に立ちはだかっているように思う。

水草にくるぶしをゆるくつかまれて人生という金色の午後

死んでからも木の葉のように吹き溜まる音符よそんなに鳴らされたいか

人体はやがて落葉にみたされて火を放たれる刻待つ器

覗き穴にくずれゆく雲とざされて玄関はあふるるまでのあかね

 晩年という言葉がある。冒頭に書いたように、『アステリズム』には、著者の人称は、全く語られない。ただ、上掲のような作品に、人生の黄昏の時代を生きる人間の息づかいを感じることができる。

くさなかに経帷子のこがねいろほろびてそれが風であること

えいえんのほうから吹いてくるかぜにきみの楽譜(スコア)をめくらせている

封筒のうちがわをひゅると風はゆきなんてさびしい楽器だきみは

駅は燃え寺院は沈み思ひ出のやうに風吹く 帰らうかもう

 『アステリズム』には、風が頻出する。『アステリズム』のなかで、風はありとあらゆる方向から、様々な強さで、主体の身めぐりを自在に行き来する生きものである。風の表情や動きによって、主体のこころの動きががつぶさに伝わってくるのが凄い。

十一月の類語辞典と、もうひとつ必要なのは燃え上がる図書館だよ

朝、みずびたしの部屋あんなところからも哀しい音が降ってくる

 『アステリズム』では、冒頭に書いたように、様々なかけがえのない物が燃やされ、水浸しとなる。それは、逃れることのできない人類の運命的な事象とも考えられる。しかし、それだけではなく、もっと、日常にある心象なのかもしれない。拘り続けているもの、固執しているもの、それらから解き放たれたい願いなのではとも思えてくる。
 そういう意味から言って次のような作品は、事象をある程度捉えることができる作品だ。

猫以外みんな病んでる 惑星をひとつつぶしてしまうまばたき

ヒトハヒトヲコロシテキタソシテコレカラモ 三月、黄と青やがて漆黒

その瞳に映り込んだものをみよ駅ピアノに帰還兵が叩きつける指

帰り着いた家に家はなく巨大化した犬が涎を垂らして待っていました

思い出は(郵便的に吹く風と末黒野に燃えのこるオルガン)

何処へ翔つ風もあなたもだれかれもきらきらとして鶴折るまひる

 ここにも、「風」が、表現世界の指揮者のような役割を果たしている。国として、民族として、戦火に埋没してゆく様が、戦争という言葉を使わずに、慟哭のように伝わってくる。

どこにもない季節に逢ひに行つたまま もしやけふ母を見かけませんでしたか

崩れやうとする波がしらにきいてみる もしやけふ母を見かけませんでしたか

   「母」は、何のメタファだろうか。主体のなかで、毀し続けてきたもの、失ってきたものからの、再生への灯火なのではないだろうか。
毀し続けるだけでない、これからの主体の再生について、次の二首が語りかけてくれる。

だいじょうぶという言の葉がすこし先のさくらの途を照らしてくれる

わたしではないものを絶えず書き換えてロングトーンに揺れるゆうすげ

 最後に、歌集名ともなった『アステリズム』について、次の作品がある。

幾世の伽藍ことごとく燃え 光球のcresc.(クレシェンド)の果てのアステリズム

 消失と再生を繰り返し、人類の長い歴史は編まれてゆく。星群の歴史もまた・・。その中で、塵ほどにもない私達ひとりひとりではあるが、そのなかにも宇宙はあり、とてつもない消失と再生を繰り返しているということをあらためて思った。

 印象に残った作品で、触れられなかった作品を次に残しておく。

星の布置考えている 静かな生活 ジェラ紀の端っこで切手を舐める

韻を踏むように九月の汀ゆく 水雪駄 雲のにおいを嗅ぎて

重力はこんなにもとおくて冬の鏡に象使いがしまいこむ天球儀

劇中劇をチェンバロの雨とおりすぎかたほうの翼をゆっくりはずす

十六分休符があるような気がする 雷を身ごもる都市は鍵盤

射干玉(ぬばたま)の黒洋傘(かうもり)をひらきゆく真昼屋上におひつめられて

靴二槽まぼろしのごとたつみづに冬の星座はつながれてをり

あえかなる胸の朱実を啄ばめる百のみだらな鳥部屋に飼ふ

くらぐらとひきあげられてこれの世に釣瓶は白銀(ぎん)のみづ滴らす

𠮷澤ゆう子歌集『緑を揺らす』を読む

 潮のにおいがする。波の音が聞こえる。島影が見える。森の木々の葉擦れの音がする。かと思うと、遠い異国の町並みや石畳、大いなる川の流れ、そこから重厚な音楽が聞こえてきたりする。
 塔短歌会所属の𠮷澤ゆう子さんの第一歌集『緑を揺らす』。
 この歌集は、子どもの成長を、一本の木が成長していく過程になぞらえ、そこから、枝を伸ばし、葉を繁らせてゆく様を自らの生き様に重ねて編んでいるように思う。子どもの成長を、主軸にしていると書いたが、だからといって、子どもに溺れているわけではない。子どもの成長に伴走するかのように、自らも、日々生き方を模索しているように思う。

 まず、主軸と書いた子どもの作品に触れてみたい。歌集中、その成長の様はつぶさに、ページを重ねるごとに、読者に伝わってくる。

ひと筋の光にあたまを差しいれて眠れる吾子を月に委ねる

会ふひとに明日は雨と告ぐる子のあたまゆらゆら日ざかりの道

 わが子と言っても、あずかりものであるような、聖母マリアが我が子を抱いたときのような敬虔な情景を思い浮かべる一首目。
 二首目も、幼子の無邪気な仕草を表現しているのだが、どこか天使が、神の使いとして人々に託宣しているような趣が感じられる、不思議な作品だ。

鳥がみな行つてしまつた暮れかたに子の掌に載せる胡桃、松の実

少年と亀を隔てる玻璃窓に息の曇りは重なり合へり
 
   子どもが幼い頃、よくかかわりのあるアイテムが、著者の表現の世界では、詩的で繊細なものへと広がりをみせる。「鳥がみな行つてしまつた暮れかた」「玻璃窓に息の曇りは重なり」などの視点が、言いようのない寂寥感を醸し出す。

笑うべきところを外す母である子の早口な春はとりわけ

遅れし吾を子は待つてをり床の間に置かれつづける壺のかほして

おそなつの夕べ電話名乗られて変声期なる子の声を識(し)る

うつすらと子の唇(くち)の上を覆ひゐる短きくろき草を見てゐつ

青年の居ないひの暮れ屑籠は大きな穴として部屋にあり

 子どもが成長し、少年となり、やがて青年となっていく過程が、感情に重心をかけないで表現される5首をひいた。2首目の「床の間に置かれつづける壺のかほして」などという表現は、突き放したようであって、待たせた母親の気持ちを代弁して、切なく絶妙である。

走りきて子の渡しくれし補聴器を付ければほそき鶯のこゑ

 臨場感があり、ドラマティックな作品。「走りきて」の初句が、すべてを物語る。ここに来て、母と子の立場が逆転してしまった。それほど、子どもは成長してしまったのだ。聞かせてあげたかったのは、鶯の初鳴きだったのだろうか。

 次に、「枝を広げ、葉を繁らせようとする著者自身の生き様」と評した著者の作品世界に分け入ってみたい。巻頭の一連は珠玉で、森に分け入ってゆくようにその作品世界にひきこまれてゆく。

森に火を落としたことがあるやうな吾と思へり草に坐れば

 森に火を落とすという背徳的な行為、実際にそれを実行したことはなくても、その思いを束の間もったということの意識、誰しもこれに似た感情があるのではないだろうか。幻想的でありながら、読者の心に切り込みを入れてくる。

七文字でしかない吾に葉から葉へ落ち継いできし滴の落ちる

 そうか、わたしは六文字だ。「しかない」と言っていながら、「吾」になるまでの、果てしない滴りが、悠久の時を落ち継いで「吾」にきたのだという感慨を感じさせる。

おほかたのひとの地平の果てにゐて吾はちひさき緑を揺らす

 歌集の題名になっている一首。冒頭に書いたように、著者の樹である。世界のかたすみにいて、自分の存在はとても小さいけれど、それでも自ら育てた樹を、その緑を、私らしく精一杯揺らしていたい、そんな思いであろうか。とても共感できる一首である。


 一連が、短編小説を読むようにひきこまれる作品群がある。「いわうじま」である。連作として読ませる魅力に満ちている。8首をひいておく。

八歳がほどまで父は住みしとふ基地のみにして無人の島に

漁りに祖父一族は生きてきて居間にカジキの吻はありたり

仏壇は海に向かひて納められ祈れるひとの横顔は見ゆ

かの夏のスクール水着大き過ぎわれの身体を遅れて布は

折り紙をしながら海は見えてゐて従兄のわれを呼ぶ声のせり

話すこと話さぬことの総量を収めてひとは夜を眠るなり

漁りの十年ののち研究者を目指しし父の思ひや如何に

いわうとう 聞き返す吾にははそはの母は遠いところだと言ふ


 もうひとつ、島の名のついた、一連「答志島」。こちらは、漁村の匂いや音、陽のきらめきまでもが、目の前に迫ってきて、そこに住む人々の生業が身近に感じられて、懐かしさで胸がいっぱいになる。

日々海苔を洗ふ船ありあかき海水(みづ)港の奥にしづかに在りぬ

陽を直に浴びたる若布ぬめぬめと光を貯める溢れ出すまで

黒鯛を兜割りせし一音の冬の家ぬちにながく響けり


 夫の登場する作品は少ないが、次の二首に、その人となりが静かに伝わってきて好感がもてる。一首目、「声をつかひて」二首目の「新聞の皺なほしつつ」が、とても効いていて、閑かな日常を際立たせている。
 
しづけさのつのる夜の更けわが夫は声をつかひて欠伸するなり

新聞の皺なほしつつ読むひとの背(せな)の角度が父に似てゐる

 
 最後に、著者にとって切り離せないチェロの奏者としての作品をひく。

声よりもわがこゑであるチェロを容(い)れハードケースは背に平らなり

 「声」は、音声としての声、「こゑ」は、身の内の深くから、絞り出すようにして伝えようとするこゑ、そんな著者の「こゑ」であるチェロを、皮膚の一部のように背にかかげ続けてきた著者なのである。

 

 

 

 

牛隆佑歌集『鳥の跡、洞の音』を読む

 牛さんに、私の歌集をお送りしたいと、メッセージした時、「せっかくなのですが、歌集のご恵贈は遠慮させていただいておりまして、関わったものでない限り書店で購入するようにしております。これはささやかながら葉ね文庫など歌集を扱ってくれる書店の売上のためでもあります。ご謹呈の数にも限りがあることですので、他の地域の方や学生の方など、歌集が手に入れにくい方にお贈りいただければと思います」という返事だった。
   批評会を控えていた私は、自分の歌集を読んでもらうことに必死で、大切なことが見えなくなってしまっていたのではと思った。そして、あらためて、牛隆佑さんの、短歌にとどまらず、出版そのものに対しての姿勢に触れる気がしたのだった。
 長い間、多くの歌人のバックアップに力を注ぎながら、自らの歌集は出さなかった著者の、ここに来てようやく第一歌集に出会えることを、とても嬉しく思い、その世界に真摯に向きあいたいと思った。

 

雨は降る たとえば傘をひらかせてたとえばあなたに本を読ませて

 巻頭に置かれた一首である。著者に、そんな意図があるかどうか解らないが、この雨は著者自身ではないかと思う。傘を開かせる、すなわち様々な短歌に興味を持った人達に対して、その面白さや、奥深さを伝えるきっかけ、場をつくる、そして、他者の作品や著書を読む機会を与える。まさに著者自身が、これまでしてきたことではないかと思うのだ。

 しずかに、霧雨のように染みてくる繊細な歌がある。かと思えば、泥臭く、生活感にペーソスの滲む歌、破調の歌、一篇の詩のように連作を紡いだ歌群、枕詞を駆使し、口語体と融合させた作品、実に多彩で、歌集は、変化に富んでいる。この人の求めているものは、どこにあるのだろうか。
 著者は、あえてあらゆる可能性に挑戦しているのだと考えてみた。短歌という枠におさまりきらない、著者から迸る熱量をあらゆる可能性として、試しているような気がするのだ。
 栞文が、川柳、短歌、詩の人から成っているのが、そのことを物語っている。

 さて、私が作れそうになく機知に富んだ歌達も、もちろん魅力的なのだけれど、ここからは、私の感性の糸をきしきしと震わせてきた歌達を、紹介しておきたい。

あっ、雨が降っているなと思ったら横に動いて羽虫と気づく

 塵のようで、動くことでしか生きていることを認知されない羽虫。雨と同じ方向に動いていたら、雨に流されてゆくゴミだと思っただろう。しかし、ちゃんと、雨ではない方向に動いたのだ。その発見に涙してしまう。深読みをすれば、何かにあらがっている一人の人間のようにも思えてくる。

しかしあるいは自販機の冷たい珈琲が6℃の熱を持っていること(冷たい珈琲→アイスコーヒーのルビ)

 人間の平熱からすれば、6℃はあきらかに冷たい。しかし、それは体感温度としてであって、アイスコーヒーとしては、6℃という身体の熱を保っているのだ。ともすれば、人間中心、自分中心の考え方をしてしまうことに、はっと立ち止まった。

パレードのように葬列のようになにかのデモが通過してゆく

 「デモ」という能動的でエネルギーあふれる行為も、どこかに諦念をはらんだ部分を潜ませていることを著者は見逃さない。

手になってしまえば殴るしかなくて手になる前のもので触れたい

   感情をもたない「手」を人間の道具として考えたとき、動作として殴るという行為は簡単だ。けれど、そこに感情を込めたとき、「手」は殴らないという選択肢を与えられる。著者は、道具としての「手」ではなく、感情を持った「触れる手」で、ひとに向き合いたいと願っているのだ。

父親にならないと決めて父を見る 胡瓜をうまそうに食っている

 上句の厳しい胸の奥の決断と、下句のゆるやかな描写が、絶妙な一首だ。世の中のことは、概してこんなふうに緩急があって、そこそこバランスがとれてゆくのではないかと思わせてくれる。

あきらめることがそんなにわるいのかそのへんどうよ麻婆豆腐

 こちらも、好きな作品で、前作に通じる抒情を感じてしまう。話しかけている相手が、噛みごたえのあるものは何もない麻婆豆腐というのがまたよい。

寝不足の時代できっとぼんやりとしたままたぶん戦争に征く

銃声が聞こえてしかし銃声のような音だと考えなおす

空き家を燃やす空き家を燃やす空き家が燃えて隣町へと冬を知らせる

 メッセージ性のある三首をひいた。
 一首目、ウクライナイスラエルのことではなく、日本においても、一触即発の状況にさらされていると思う日々である。仕事や、様々な生活のことに追われ、睡眠時間を削っている身めぐり。ある日、突然召集令状が来て、寝不足のまま戦争に行ってしまうのではないか。あえて反戦を掲げた歌ではないのに、それだからこそ、ぞわっとしてしまった。
 二首目、日常によくある場面である。必ず起こると言われている地震も、そうである。今、今日起こるかもしれないけれど、そのことばかりを考えていると、私達は生きられない。負のバイアスがかかって何とか精神のバランスを保っていると言える。
 三首目、社会現象として、空き家問題が深刻化している。空き家、次の家も空き家、またその次の家も空き家、一軒に火が放たれると、次々に火が燃え移る。「隣町へと冬を知らせる」は、叙情的な表現だが、冷え切った冬空を染める炎は、ひどく怖ろしい感じがする。 

ひと月に一度は泣いている人に出会うのがガスト 大阪のガスト

(っはい、その夢あきらめましょう)ジャパネットたかたの声でつげてやりたし

【ご先祖様ありがとうキャンペーン】の幟どこまでも続いていそう

  冒頭の文章に、「泥臭く、生活感にペーソスの滲む歌」と書いたが、上記のような作品がある。関西ならではの風土、そこに根ざした著者の日常生活からの視点を垣間見ることができる。

鳥の跡、洞の音、礫の先、人が行くのは人の道だけ

 最後に、歌集名となった、一首をひく。
 「鳥の跡」は、鳥が巣立ってしまった跡と読んだ。「洞の音」は、巣立ってしまって空洞となった風景、そこに吹く風のように思った。「礫の先」は、巣立ちのあとの、様々な試練を想起させる。鳥は、鳥の未来を生きるように、私は、私として、自らの道を歩いてゆかなければならない。そんな決意を思わせる一首だと思う。

 
 多くの作品に付箋をつけたが、特に印象に残った十首を追記して終わりたい。

この町にグーグルアースで目印を刺すようにして夕日がとどく

誰が死ねば僕は泣くかなカーテンを外せば部屋に春が来ていた

何かが何かになり損なった夏の日々だろう光はこんなところまで

思い知れ、お前は一人、一人なのだ、一人だ、一人しかいないのだ

何ものも待たないという生き方よ月の沙漠を耕しながら

追伸を書くために書くとても長い手紙のなかば流れている川

一日で書籍が届くうつし世に三日がかりで書き上げる手紙

この紐を引くと世界が落ちてくるみたいに僕ら夜になります

吸う音と吐く音があり吸うほうがわずかにすこしばかりさびしい

土用東風すごくすずしいのに話したいだれかがどうしてもいないんだ

石畑由紀子歌集『エゾシカ/ジビエ』を読む

肉を焼く お前も肉だろうという声が肉からする 肉を焼く

 この一首が、Twitterに流れてくるのを見たとき、たまらなく「石畑由紀子」という人の歌を読んでみたいという衝動が走った。
 何だろう、人間だけがもつものなんてなんになるの、人間としての尊厳なんて糞食らえだ。動物にも植物にも人智を超えた生きるための知恵があり、愛もあり、悲しみもあり、この世界に、人間としての奢りをまき散らすのはやめろ、と一喝されたような気がした。そして、変にすがすがしい気持ちになった。
 どれだけ、私たちが日々、持たなくてもいい多くの重たい枷をまとっているかを思った。すべてを脱ぎ捨てれば、一塊の肉でしかない私たちなのに・・。

 早速、歌集『エゾシカジビエ』を取り寄せた。

 北海道に生きる著者の作品世界が、樹木やけもののにおいをまといながら、雪の礫となって向かってくるような迫力を感じた。

くちびるに触れるはかないものたちをあまく殺めて これは雪虫

 北の地方では、雪虫が飛び始めると、また厳しい冬の季節がやってくると知ることになるのだろうか。雪虫自体は、あわあわとしたはかない存在だけれど、北国に生きる人たちにとって、覚悟を強いられる象徴なのだ。

敗北に北のあること川べりに凍りたがりのみずを見ている

川べりの霜を踏みつつ辺地という言葉をわたしはさりさり憎む

 この歌集は、全編をとおして、北の地に生まれ、そこに生きている日々の咆哮のように思える。「敗北」という言葉は、もともと、方角を指すものではなく、二人の人が背を向け合っている様から由来しているという。それでも、「敗北」という、ネガティブな言葉のなかに「北」をおかれたことがゆるせないのだ。水よ、そんなに許容して凍ってくれるな、という感じだろうか。
 「辺地」という言葉もそうである。そこに住むひとりひとりに関係なく、ひとくくりにそう呼ばれることへの怒り。「さりさり憎む」が攻撃的でない怒りを想起する。

石畑と名乗りはじめた先人の両手のひらの血豆をおもう

 不毛の地であった広大な土地を、気の遠くなるような手作業で、切り開いてきた先人達。「石畑」と名乗りはじめたことの、先祖達の決意と覚悟に、とおく思いを寄せるのだ。
 このような思いは、樹と斧のせめぎあいとなって、著者の作品の中に、しばしば現れる。

斧の音芯まで残るししむらに流れるみずを樹液とおもう

いつかの樹の根元に振り下ろされたのはとおいむかしのお前の斧だ

みぞおちに斧うつくしく研ぎあげて正しく怒る気高さにおり

白樺、白樺、切り株、白樺、たましいも幻肢痛あり並木にふれる

 樹も斧も、著者のなかでは、気高く、尊く、著者と一体化し、息づいているのだ。


マイナスをつけずに気温をいう母の、父の わたしの内に降る雪

浴びたならこごえるような水をなぜひとは飲めるのでしょうね、蛇口

止まらないみずも凍っていくことのマイルスのトランペット、寒いよ

 北の地に生きる人ならではの三首。
 一首目、マイナスをつけないというと、どれほどの数字なのかわからないけれど、隠されていることで、変に空恐ろしさを想起させてしまう。
 二首目、ほんとうに、そう、人間の底にある強靱な生命力を思う。
 三首目、流れてゆく水さえも凍ってゆく寒さ、マイルスのトランペットは聴いたことがないけれど、金管楽器が醸し出す鋭利なひかりや、マイルスという語感から、その凄絶な寒さを想像することになる。

食されぬ肉塊として車輛越し一度限りの邂逅われら

かなしみは速さ侵入者であれば鋼の足を敷きひた走れ

丸鶏を腹から開く生前の密事は何処へゆくのだろうか

 冒頭にふれた一首のように、歌集中には、野性味あふれる作品も多い。荒々しくて、血の臭いのするような、それでいて、深く命の哀しみに寄り添うような表現である。
 一首目と二首目、作中主体は、車輛の人である。野生の動物が不意に現れて、車輛は、それを轢いてしまった。たった一度出会った命と命を、こんなかたちで知ることになる。私達は、私達が生きるために、生きものを殺め、それをいただく時に、その命のことを思う。そうではなくて、「食されぬ肉塊として」出会うことも多いのだ。
 腹に一物を持つとか、腹に据えかねるとか、腹を立てるとか、腹は、数え切れないほどの、人間の心象を、抱え込んでいるところらしい。調理された鶏の腹を割きながら、この腹におさめられていた、他者の知らない密か事は、どうなってしまったんだろうと思う。自らの死後を思うようなシュールな一首である。

やわらかく倒されながら思いだす雪虫の雄に口のないこと

沼尻にぬ、と差し入れるここちして抱く頭髪の暗いぬくもり

ふれるとき底いにみずの動くおときみは根開きのくるしさをいう 根開き→ねあきのルビ

 著者の相聞歌も、どこか冷え冷えとして、北の大地の風土を思わせる。

 一首目、下句の表現にはっとする。官能的な場面で、くちづけのできない雪虫のことを想っている冷めた感覚と、どんな場面であっても、北の地に生きる感覚であることがせつない。
 二首目、「ぬ」が、ぬめぬめとした粘性の心象風景として読者に伝わってくる。相手の頭髪をかき抱きながら、それは、相手の深くて暗い部分へも、足を踏み入れることになってしまうと気付くのだ。
 三首目、「根開き」とは、春先になると、樹木の根元だけ、雪が溶け始めることを言うそうだ。樹木は、地下水を吸い上げて生きているので、その水が、外の空気よりも温かくなると、このような現象が見られると言う。相手の鼓動に触れたとき、確かに生きている証を感じながらも、相手の生きているがための苦しさも、同時に受けとめなければならない作中主体なのである。

 ほんとうに溺れているひとはしずか加湿器がこくりとみずを飲む

 歌集中で、最も惹かれた一首かもしれない。溺れている人を、つぶさに見たことはないが、そうであると信じられる迫力がある。下句の、冷ややかな静けさが、音として読者に入ってきて、背筋につめたい恐怖を感じる。

 けものなら終わるいのちを繋ぎとめひかり輝く廊下の向こう

 著者は、つねに獣たちの息づかいを近くで感じながら生きていることを感じさせる一首。人間は、病を得ても、可能な限り、その再生のための手当を施すことができる。しかし、野生に生きる獣たちはどうであろうか。傷ついたら傷ついたまま、痛みをかかえたまま死んでゆくしかないのである。人間は、こんなにもピカピカの設備のなかに身をおけるというのに・・。

 私は、冬生まれで、夏よりも冬の季節が好きだ。そして、今私が住んでいる土地でも、シカや猿やイノシシや、他の小動物も、日常に出没し、田畑に甚大な被害を及ぼしたりもしている。自然も豊かで、木々や草木も、季節のうつろいを伝えてくれる。山は緑豊かで、川はその流れをたおやかに横たえている。
 しかし、この『エゾシカジビエ』に出会って、私は、それらと、どれだけ共に生きてきただろうかということを思った。もう一度、あらためて身めぐりに向き合ってみたいと思った。
 そして、私なりの向き合い方で、それらを短歌に残してみたいと思った。

 最後に、評はできなかったけれど、印象に残った作品をいくつかあげておく。

水鳥の羽裏のしろさ平気よという顔をしてきみに手をふる

歯みがきや洗顔のように信じてる川にひたすら雨降っている

川と海みず混ざりあう場所にいてたましいの正座を待っている

恋愛は人をつかってするあそび 洗面台に渦みぎまわり

仄明るいひとすじが見えるひとりきりいってかえってくるための道

ゆっくりと染まる坂道 ゆっくりと燃える坂道 ふりかえらない

街のどこかの炉に立つ炎ひっそりとわたしであった肉が逝く

十秒後をなにも知らない 火を分けるように体温をすこし差し出す

家族して餃子を包むみちみちと誰も死なないような気がする

少年の心を持つという揶揄よ少女ばかり渡る夜の河

友たちへ手作りのハンカチを配るちいさな窓を配る手つきで

澄田広枝歌集『ゆふさり』批評会(第二次案内)

澄田広枝第二歌集『ゆふさり』批評会の第二次案内を公開させていただきます。

短歌について、広く楽しく、多くの皆さまとお話ができたらと思います。

ご参加、お待ちしております。