ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

ぱいんぐりん歌集『ひとつの部屋』を読む

  はじけるような躍動感のあるその名前をしっかりと刻みつけたのは、福岡の塔の全国大会の折だった。もちろん、それまでも、岡山で活躍されているのは塔誌で知っていた。しかし、福岡でお会いしたとき、彼女は私の歌集を注文してくださり、「サインもお願いします」と言われたのだ。私は面食らった。後にも先にも、サインを所望されたのは、そのときだけだったからだ。

われの名にぐりんとつけしは祖母なりき松の木(ぱいんつりー)のごとくにあれと

筆名は弾ける音に始まって明るい私を見つけてくれる

「ぐりん」は、筆名ではなく、本名だったか。全国大会でお会いしたときのあの人なつこい笑顔が忘れられない。

 ぱいんぐりんさんの歌集『ひとつの部屋』は、ご主人の装画があちこちに挿入されていて、それが付かず離れず、この歌集の世界観をつくり出している。もちろん、作品のなかにも、夫は頻繁に登場する。お互いの世界を尊重しながらあっけらかんと距離をおき、それでいてお互いの世界にも、尊敬をもってまなざしを向ける。多くの作品から好きな三首をあげた。

問うたびにきみが教えてくれるから花の名前が覚えられない

「妻?つまっておれのことか?短歌ってややこしいなあ」夫が言いたり

どこ行くのと問えば「あなたのいないとこ」麦わら帽子を被りて君は

 また、子や孫を表現する作品も多い。自然体でユーモアがあって、ほのぼのとしたぬくもりを感じる。

ゴージャスよりナチュラルやでとその父のだし巻き卵をナチュラルと子は

ねぇすもうとろうとせがむ男の孫は七歳からを令和に生きる

 自身の父親の作品は数少ないが、それだけに、亡くなったときの作品にはインパクトがある。

じいちゃんはしんじゃったからもうごはんたべないのかと聞きたり通夜に

外国の映画の父と子のようにハグすることもなくて逝かしむ

 夫や子、孫を描いても、いつもカラッとした距離感があり明るく表現する著者だが、私は、著者の独白のような作品に注目した。
 
妻と子が俺の家族と息子が言う」われの作りしピカタ食べつつ

 煮っ転がしではなく「ピカタ」である。努力して今風の献立を作った母の手料理を食べながらの台詞。悪気も深い意味もないのであろうその息子の台詞に、明らかな距離を感じてしまう著者。

細き雨ふりつつづきいる一日を廃駅のように息をしている

追いかけているのか逃げているのかが分からないまま夢に走りき

電柱の抜かれて庭にあきし穴わたしがすっぽり入る深さの

キッチンの出窓を西に過りたり胸から下のない影法師

引き潮の浜辺をゆけば靴底をゆるき重さに押し返す砂

ロフトには西に小さな窓二つひとりで見たい夕焼けがある

 家族とのあたたかい繋がりを持ちながらでも、他を寄せ付けない、個としての自分を大切にしたいと願う著者の思いが痛いほど伝わってくる作品をいくつかあげた。光のあたらない著者の影の部分を見る思いである。

一文字の漢字に我をあらわせば〈滞〉(とどこおり)というある日むすめが

 その著者像をいちばんに深く把握しているのは、娘さんかもしれない。きっぱりとして明るく前向きだと思われている著者を、〈滞〉とどこおりと表現するのだから。

 歌集の主流となっているのは、夫、娘、息子、そして孫という家族である。そのつなががりや結び目に、ぱいんぐりんさんは、長い年月をかけて、あたたかくて心地よいエッセンスを沁み込ませてきたと思わせてくれる歌集だった。

梅だったね、桜だったよと話しつつ伐られし幹を通りすぎたり

 


*他にも、印象に残った歌がたくさんありました。いくつか残しておきます。


レオナール・フジタの描きし裸婦像の素足は外反母趾のようなる

陽をあびて梢にゆれる新緑は白くまぶしく食べてみたいよ

湯の中に指がぬぬうと細くなる横向きに手を透かし見るとき

手の甲の皮をつまみあう遊び姉の手われの手もうない母の手

玄関に折りたたみ傘の濡れしまま新元号の朝になりたり

リビングの遮光カーテン開けぬまま夏を過ごせり蛹めく家

登り来て最初の火床に歩を止める「大」の文字の書き出しならむ

紺屋四郎歌集『空行くような』を読む

 
 帯文に永田和宏は「好漢」と書き、あとがきに真中朋久は「最も信頼する人の一人」と書く著者に、残念ながら私はお会いしたことがない。毎月の塔誌にて作品に出会えること、塔の社員総会の事務局長をしてくださり、塔誌にその近影を見るのみである。

  短歌の作品の評をするとき、よく私性について論議がなされる。作品の背後にある〈わたし〉を作者自身と結びつけて読むかどうか。しかし、紺屋四郎歌集『空行くような』を読んでいると、ただまっすぐに延びていく飛行機雲のように簡潔で、歌集に存在するのは著者自身より他はなく、むしろ前に書いたような考察は必要ないとさえ思えてくるのだ。

 周囲からの信頼や評価について、自己評価とは差異があること、その違和感を詠う歌がいくつかある。

真っ直ぐな定規を当てて真っ直ぐな線引くひとと思われており

すすき野のごとく流れに逆らわぬ生き方もあり真似はできぬが

課長なら非常階段踊り場の灰皿立ての前に居ります

 一首目、ふとした折に、他者の言動から自らの人物像を知ることになり、他者と自らでは捉え方には差異があるということをあらためて冷静に裡に落とし込んでいるという感じである。
 それでも、淡々と流れに逆らわぬ生き方のできぬ自己を見つめ直す著者。
 三首目、課長は著者自身であろう。こんなふうに力を抜いた自身の表現のなかから、自分らしさを見失ってしまわないバランスを身につけてきたのであろう。
 
 迷い葛藤しながらも、ぶれない生き方を見つけていこうとする著者の姿が、身めぐりの身近なものに置きかえられて表現される。

いたく身にしみたる言葉また使う粛々として進むのみです

 「粛々と」、ひっそりと静かなままなすべきことを為す。歌集を読み終わったあとに伝わってくる著者像と重なって深い一首だ。

進もうか進むまいかと迷う亀を後ろの亀は甲羅でつつく

この場所で生まれ変わると決めたのだ蛇腹一枚脱ぎ捨ててあり

 一首目、迷う亀は自身だろうか。つついている亀も自身で、葛藤を詠っているようにも読めるし、社会情勢を俯瞰しているようにも読める。二首目も、蛇に託されているが自身のことである。「この場所で生まれ変わる」が、とても良くて、脱皮をすることを決めた場所が、非日常の場所ではなく、日常の普段と変わらない場所、そこで、自分自身のみ変わるのだということが静かな決意として強く伝わってくる。

 著者が生まれ育った土地には、川が流れている。その川は、

文庫本太宰治を読みし夏 国領川に足を浸して

 思春期に、太宰を読んだ人は多いと思う。著者もそのひとりで、「国領川」という川が、著者の多感な青春時代を、心象風景のように流れ続けてきたのだろう。

柩打つ石を河原に洗いしを思い出したる十三回忌

 柩にふたをするとき、河原の石で打ったのだ。十三回忌となった今では、もうそんなことをしなくなったということがわかる。川は、著者の思い出の様々な場面とつながっている。
 
水害よりひととせを過ぎ土嚢より生えて咲きたる露草の花

 川は、人々に恵みや癒やしを与えてくれるだけではなく、時として日常を容赦なく奪うこともある。水害の折に置かれた土嚢から、一年も過ぎると露草が花を咲かせている。繁殖力の強い露草に、生きる力をわけてもらうのだ。

橋はいつも切り替えの場所 川風が仕事の汗をぬぐってくれる

ねえさんにありがとうを言うために海を見ながら橋をわたりぬ

 橋とは、著者のこころを切り替えてくれる場所。この橋を渡り終えるまで、という時間が、著者の疲れた体や、心弱りを癒やしてくれたのだろう。
 川が大きく著者の真ん中を流れているとしたら、まわりの風景も懐かしく著者の心を占めている。
  
都よりしおかぜ号で帰り来てああふるさとのまだらな灯り

 都会のまばゆさの中からもどってきて、故郷の夜は灯りもまばらである。ああ、これこそが故郷なのだと思う著者。

あれほどに嫌ろうておりし段畑を耕す我を父は知らざり

 若い頃は、父に反発して、畑を耕すことを嫌ったのだろう。しかし、父の亡くなった年齢に近づき、畑を耕している自らを感慨深く思い、こんな息子を知ったら父はなんと言うだろうかと思ってみる。

 
 ご本人にとっては、厳しい日々なのかもしれないが、地方公務員時代もさりながら、年金支給時までという様々な就労、そのなかから生まれてくる歌にとても心惹かれた。
 特に、Ⅲの章には、読者をひきよせる質の高い作品が多く編まれているように思う。肩書きを取り払ったひとりの素の人間として、日常のなかに普通にある人間の生と死を静かなちからで描き出している。

誰もだれも誰かの死後を生きているICUより退室二体

 亡くなって病室を出て行くときは、ひとりではなく一体なのだ。そして、近親者も含めて、私達は、どれほど多くの死者の死後を生きて来たのだろうという思いに至る。

水鳥が天に向かって鳴くような陰洗ボトルの蓋は桃色

 介護などで、陰部を洗浄するためのボトルが、水鳥が空に向かって鳴くようなかたちであり、ボトルの蓋も桃色だという。おそらく、それを使わざるを得なくなった患者と介護をする側の感情を和らげるためだと思うが、なんとなくさびしい。

体去りて少し間を置き清掃はいつも通りに気配を消して

 「粛々として進むのみです」という歌が先にあったが、気配を消すということの動作と心情の難しさを思う。

船出する汽笛のように鳴り響く人工呼吸器警告音は

 旅立ちの明るさと対照的な、緊急事態の場面。明暗が分かれているのに、同じ緊張感を伴うというのも不思議だ。

健やかに病室を拭く我に向け患者の視線ときに鋭し

 きびきびとした立ち居振る舞いが要求される仕事なのに、逆にそのように動くことができない他者を暗くさせているのではという思い。繊細な著者の感情を思う。

ナースコール次々と鳴る病棟に無用の我は指示待ちのひと

 ナースコールの要求されていることは、自分では解決できない。「無用」と言い切ったところが、過去には肩書きを持ち、部下を持ち、有能な働き手であったはずなのに、立ち位置が変わるだけでこうまで違うのかということを思い知らされる。潔い自己の捉え方が、労働の厳しさと緊迫感を増幅させている。

みどり児の眠るすがたを囲みたる人らを避けてモップは進む

 結句が、抜群にいい。自身が、モップそのものに成りきって、まさに「気配を消して」いる感じがする。それでいて、深い思いやりが伝わってくる一首だ。

何もかも今は忘れるICUの床のしぶとい汚れのために

 苦しい感情を和らげるために、困難な作業や、ただひたすらに繰り返す単純作業が役立つこともある。


生涯に歌集出さぬといつよりか決めていたこと今朝思い出す

 最後に、著者がどういう思いから、歌集を出さないと決めていたのか知るよしもないが、読者のひとりとして『空行くような』に出会えてほんとうに良かったと思う。じんわりとあたたかくて、まっすぐな著者の生き方に静かなちからをもらえたからだ。

わたしの雨のうた/歌集『ゆふさり』より

あかるいかくらいかと言へばくらい方 雨が好きだしゆふぐれも好き

谷折りのこころのみぞに昨夜の雨うすく溜まりて あひたしひとに

嘘つきと言はれたことはないけれど背にはいつも日照雨が降りて    日照り雨→そばえ

手を洗ふ。触れた記憶は梨のはな霧雨のなか剥がれゆきたり

やうやくに「既読」のつきて眼を閉ぢる 明け方近く雨になるとふ

また雨だ、降り始めから知つてゐる雨はどれだけあつただらうか

どれほどの胞子が空にのぼつたら雨を降らせてくれるのだらう

雨の朝わたしはふいにゐなくなり磨き込まれた大きなおなべ

ゆるされて陸にあがりし水族のごとくゆつくり傘を閉ぢたり

雨よふれいつもただしいことを言ふあなたをしばしとほざけながら

身のうちに積乱雲の生るる日よわたしの死後を打つ雨の音

たとへるなら閉ぢられた傘ひたひたと感情は重くしづくして

そして雨、ただそれだけで満たされる呪文のやうな言葉が欲しい

昨夜降りし雨を見てゐたひとを焼くましろき足袋をひたひたはいて

一片の手紙も日記も遺さずに、通り雨、土、ふしくれの指

遺されし道行コートは雨を知らずあなたの思慕をだれも知らない

風のかたち空のかたち雨のかたちひとりひとりがはぐくむかたち

雨がきて石づくりの橋濡らしたり頑なな人に寄り添ふやうに

雨やみし夜のしづけさもうすでに過去となりたる新聞を取る

向かう岸に降つてゐる雨がこちらにうつつてくるのを見てる おかへり

皮膚だけで雨を感じてゐる夜の泳ぎつかれたアメンボのやう

もう雨と呼ばぬしづくがあふれだすかたむけられて朝の如雨露

ともすればわれは家族の暗がりと思ふ日のあり山査子に雨   

雨過ぎてあなたのもどりてゆく場所にまた雨が降りわたしはゐない

みづいろは着たことがない ひいやりと睫のさきに雨が落ちくる   

朽ちてゆく彼岸花へと雨は降りどうにもならぬことは捨ておけ

大切にされてゐないと思ふけどざあざあ降りの雨も好きです

【毎日短歌】×【短歌の日大賞】テーマ「嘘」選評

【特選】

あまおうの「あ」が甘いではないようにそのあいたいに愛はないけど     結城熊雄(@yuki_kumao)

 「あまおう」はイチゴの登録商標名。あまおうだから、誰もがすぐに、「あまい」から引用されていると思ってしまう。ところが、そうではなくて、「あかい」「まるい」「おおきい」「うまい」の頭文字から名付けられているそうだ。さて、掲出歌、「逢いたい」と言われたときに、何の躊躇いもなく自分に愛情を持ってくれていると思うのはあまりにも早計ではないだろうかと立ち止まっている。題詠「嘘」として、この一首に向かい合ってみると、言葉のもつ深さに力をもらいながらも、その言葉というものに翻弄されている私達の生き様が見えてくる。「あ」の重層的な連なりが言葉の持つかなしみに気づいたときの感嘆詞のようだ。

【入選】

お客さま そこになければないですね なければないです 星じゃないんで   なにもない子(@nanimo_naiko)

 日常、スーパーなどで、何気なく交わす店員さんとの会話を引用しながら、結句がパラレルワールドのように立ち上がり、詩情が広がる。私達が夜空を仰いで目視できる星はほんとうにごく一部、その背景には、容易に可視化できない世界があることを思う。明確に個数が限定されて店頭に並んでいる商品との対比がおもしろい。

【入選】

裏表逆に履いたら靴下に世界はしまわれて、冬の森     髙山准(@m99ejxj )

 靴下を裏表に履いたというだけの行為だが、その違和感から嘘っぽさを感じ、身辺が反転したような居心地の悪さを感じてしまった。外の世界へ広がり、躍動感のある春ではなくて、内に向かい、何かを閉じ込めてしまうような冬の森が心象風景としてそこにある。 

【入選】

おごそかな狐薊の風媒にぼくの自白が混じってしまう   青兎(@HaL7sg)

 狐薊は、薊に似ているが、薊のような鋭いトゲを持たない。綿毛は、化粧道具の筆のように、花であったときよりも何倍もの嵩になってやがて飛び立つ。その旅立ちは、フォーカスすると「おごそか」と言えるかもしれない。その風景のなかに身をおけば、自らの過ちも、素直に言葉にすることができそうだ。ちなみに、花言葉は「嘘は嫌い}

【入選】

日記には楽しかったと書いた日の筆圧だけがほんとうだった   ケムニマキコ(@qeiV97pW0x5342)

 小学生の頃の夏休みの日記、まだ語彙が少なくて、ただ「楽しかった」と言葉少なくしか書けなくて、それでも筆圧が、それ以上の思いを語っている…と読んだ。ただ、題詠が「嘘」であるから、「楽しかった」と書いたけれど、そこには表現できないネガティブな思い、たとえば怒りのようなものがあったのだろうか。思い出のようなかたちで読んだが、大人になってからのこととして読めば、また違う味わいがある。

【佳作】

満ち潮に蒼く漂う夜光虫 私の嘘はまだばれてない     田仲トオル(@tanankatoru )

 夜に外的な刺激を受けると、青白く発光する夜光虫、上句の幻想的な光景と、自らのなかの嘘が何かのはずみで、あからさまになるのではという不安と恐れ、抜き差しならぬようなものではなく緩やかな、どちらかというと、甘い嘘という印象を受ける。

【佳作】

閻魔さま、加工は嘘になりますか? 化粧は?ジャッジお願いします   毛布(@moufu412)

 閻魔大王は、冥土で死者の行いを審判し、嘘をつくと舌を抜かれるなどと言われてきた。それを、現代のSNS上で加工を施した画像が溢れている状況にからめた。口語の語り口に思わず苦笑してしまう。 

【佳作】

ほんとうがひと匙まざり嘘つきのねるねるねるねが口で暴れる     亜麻布みゆ(@amanumiyu)

 「ねるねるねるね」を、まだ体験したことはない。手作りのお菓子のようなもので、子ども向けかと思ったら、どうやら大人仕様のものもあるらしい。「ねるねるねるね」の独特の商品名から、その手作りの過程を想像することができ、一首に変化をもたせている。結句によって、それが炭酸系のものであることも想像できる。体感していない読者にも、短歌によって伝えることができるのだと思わせてくれた一首。 

【佳作】

好きなのを選んでいいというママの選んでほしい赤を選んだ    後藤たり(@tali_log_x)

 好きなのを選びなさい…と言われて、自らの意思で選んだつもりなのに、これは、母が好きな色だと気づく。母と子のつながりのなかで、自然と脳内に降り積もっていくお互いの嗜好や思考の記憶。「嘘」というテーマからすれば、わざと嘘をついたということになるのだろうが、前述のように自然な行為のように感じる一首である。

【佳作】

墓場まで持っていく嘘が多すぎて棺が花と噓とで満ちる    晩夏(@yukunatsuni )

 よく、これは誰かを傷つけることになるから、他人には言わず、自分だけの秘め事として、墓場まで持って行く…というような事をいう。それは、暗いイメージだが、掲出歌、そんな嘘が多すぎて、棺が花と嘘でいっぱいになってしまったという。読者は、この明るく言い放った言葉に、何故か力をもらう。

【佳作】

ミルキーが甘やかすからあかんねん歯にくっついて嘘がとれへん      きいろい(@kiroi_iorik)

「ミルキーはママの味~♪」幼い頃の記憶と結びつく読者も多いかもしれない。あの独特の甘さを大人になって思い返すとき、それぞれどんな印象をもつのだろうか。関西弁で、ゆるやかに詠いながら、自らの奥深くを見つめている歌である。

【佳作】

母さんが悲しい嘘をつくときの瞳の奥にある三面鏡     猫背の犬(@nekozenoinuinu)

 三面鏡は、正面だけではなく、横向きや後方近くまで映すことができる。この三面鏡は、近代的な建物のなかに設えられたお洒落なものではなく、昔ながらの昭和の時代にあった鏡台をイメージした。母親が、子どものためにつく嘘、その背景には、他の家族や社会との関わりから生まれる場合もあり、実に多面的だということだろうか。 

【佳作】

プラシーボ効果のためのラムネ玉だましだまして地下鉄にのる     水の眠り(@mizunonemuri1)

 薬だと信じて飲むと、ただの水であっても、症状が緩和されたりすることがある。そんな「プラシーボ効果」を「嘘」というテーマのもとに詠んだのが印象に残った。「だましだまして」は、「プラシーボ効果」にじゅうぶん述べられているので他の言葉でも。

【佳作】

コップから溢れた嘘を袖口で拭う嘘には長袖がいい     アゲとチクワ(@age_to_chikuwa)

 コップから溢れた嘘を袖口で拭う 嘘には長袖がいい と区切って読んだ。「嘘には長袖がいい」、何の根拠もないはずなのに、そう思わせてくれる押しつけがましくない魅力を感じた。

【佳作】

違和感は優しさだったサバ缶の骨は囁くように崩れて    インアン(@inan_erotica )

   サバ缶の身の柔らかさを思った。本来は、骨もあり、ほどほどの歯ごたえのある鯖が、崩れるほどに柔らかく詰められている。共に暮らしている人との関係性が、優し過ぎるということによって違和感を感じることもあるのだ。それは、築いてきたものが崩れてゆく前兆だったりする。

北神照美歌集『水の旗』を読む

階段井戸の十三階を降りゆけば冷気がゆれて水近づきぬ

 階段井戸は、インドやパキスタンなど乾燥した地域にみられる何段もの階段を下りて水面に達する井戸ということだが、私はどうしても、ひんやりとした空気を感じながら湿った石の階段をおりてゆく近江の井戸を想起してしまう。野菜を洗ったり、西瓜を冷やしたり、近所の主婦が集って世間話をしたり…。結句「水近づきぬ」が水の気配に迫力さえ感じる。十三階という数字も、敬虔な感じがする。

 北神照美歌集『水の旗』を読んでいると、知らないうちに水のにおいを感じながら、その水脈をたどっていくようにページを繰っていることに気がついた。

稲妻の飛ぶ夜は窓辺で想ふなり近江の井戸のやはらかき水

尾のながき風が海から吹ききたりキッチンの床に鱗を零す

抽斗は古き時間のたまる池 蛙の鳴く声 ゆれる梅花藻

店先に空芯菜を見るたびに茎の空洞に湖(うみ)あると思ふ

釣り上げられ陸に落ちたる魚のごと目覚めしわれか 魚でよいのに

蛇口から水きゆうと鳴りあふれ出る ふるさとの湖(うみ)温むころなり

 著者は、現在千葉県在住であるという。それでも、日常生活のあらゆる場面で生まれ育った近江の水のある風景が、鮮やかに甦るのである。まるで水脈がとぎれることなく繋がり続けているように。
 二首目は、淡水ではなく、少し生臭さのある海風である。「尾のながき風」がその風の入り方を如実にとらえていて、結句「鱗を零す」もリアリティがある。
 三首目、抽斗に水辺の風景が仕舞われているという。異次元ポケットのような時空を超えた、それでいてとても実体に近い距離を感じてしまうのは何故だろう。
 五首目、歌集の帯にもひかれている歌で、とても印象に残る歌。眠りから突然覚めた。夢を見ていたのだろうか。魚となって、自由に泳いでいたら釣り上げられてしかも、陸の上に落とされ、そのはずみで目が覚めてしまった。陸に落とされたときの衝撃と、現実へひきもどされたときの陶然とした思い。結句「魚でいいのに」に、言い知れぬ余情がある。

 他に、心に残った歌をいくつかひいてゆく。

マスカットを包む薄紙の手ざはりよ 名を鉛紙(なまりがみ)と知れば冷えをり

 あの壊れやすいものを包む紙が、重い質感をもつ鉛紙という名前だと知ると、その冷ややかさに触れたような小さな驚きを感じる。

きんせんくわ二百鉢ほど置きしまま作業する人消えたる公園

 きんせんかの明るい黄の色を一面に公園に残したまま、人が誰もいない。一瞬、世界の終わりのように思われてシュールな光景だ。

人の手で陸(くが)となしたるわが街はいつか海へと還る日あらむ

 海であったところを埋め立てて陸にしたのだから、いつか海へ戻ってしまう日があつても仕方のないことだと思えるか。抗うことのできない災害や、自然への畏敬のこころを思ってしまう。

白き月消え入りさうに薄つぺらそのままわたしの鞄においで

 壮大な月を、幼子のように傷つきやすく壊れやすい対象として包み込んでいるのが印象深い。ファンタジックで母性を感じる。

木星土星をつれて月のぼるとわが明月記に書きたきものを

 「明月記」は藤原定家の日記であるが、天文学の記録としても知られている。月は満ち欠けしながら、木星土星の近くを通り過ぎる現象を頻繁に起こすという。著者は、今を生きるひとりとして、定家のように、まさに今の天体の不思議を残しておきたいと願うのか。
       
ほほづゑのわたしが映る食器棚白磁のポットもほほづゑをつく

 白磁のポットのふくらみが、頬に似ているような気がする。アンニュイな感じがいい。

陽のあたる水飲み場にて水が描(か)く弧の美しくくちびる迷ふ

 結句が印象的。水が描く弧の、どれほど著者の目に美しく映ったか、官能的な結句が際立たせている。

 歌集『水の旗』は、北神照美さんの第五歌集。長い歌歴を持つ著者の安定した表現世界を、ゆっくりと辿ることができた。


※ 他に、好きな作品を残しておきます。

若さとは浮力であつたかも知れず天然水飲みスキップしたり

椿の葉一枚置いたやうな陽が日蝕メガネの向かうに現る

一本のバナナの皮の黒き斑(ふ)がわれに忍びくる気配に耐へる

空にある春のレンズを磨くごと音たて回る駅の風車は

泣かずにきたずつと泣かずにきたことに気づけり青きガスの火見つつ

ものの名を果てなく問ひてゐし吾子の少年時代はなんとみじかき

自然数のなめらかさにて兵隊は死者も負傷者も算えられたり

なくしたるもの数知れず蔵のにほひ 家鍵 ブローチ、よき耳、友ふたり

ふくろふが見えたらもうぢき死ぬのだとそんな死に方いいわねほんに

歩くほど君の雪靴壊れゆく瀧向かひまでゆかねばならぬ

門脇篤史歌集『自傾』を読む

 声高に何かを主張するというのではない。詠われているのは、読者のほとんどが目にしたり、触れたり、聴いたことのある日常の風景である。ともすれば、手垢のついているような見慣れた場面をも、著者はさりげなく切り取り、詩情をもって、押しつけがましくなく差し出してみせる。

歌詠めば日々はかなしも生まれゆく愚にもつかざる生活の歌 

 このような自虐の一首が、歌集のなかにある。「愚にもつかない」ことは、全くなくて、著者の「生活の歌」は、日々見過ごしてきたモノクロの身辺に、パステル画で色を施すように、読者の前に置かれている。

 たしかに、日々の生活の歌、特に「厨歌」と呼ばれるような作品が印象的だ。

たつたいま使ひきりたるくれなゐの小壜に残る小壜の重さ

 調味料を使い終わって、初めて、脇役に徹していた小壜そのものの存在感に目を向けられるということの気づき。 

痣のある枇杷を三割引きで買ひあかりのやうに手のひらに置く

3円のレジ袋ゆゑ畳むときさざ波のやうな音が聞こえる

マジックに書かれて198の文字アラのパックのおもてにたわむ

 「所帯じみた」と括られてしまい、私などは、どうしても素材にするのを避けてしまう「スーパーねた」を、「あかり」「さざ波」「たわむ」などの言葉で、詩情のある作品に仕上げた。

ふた袋もやしをつかみをぢさんはゴム長靴をきゆいと鳴らせり
 
 背景を全く示していないのに、「ふた袋のもやしをつかみ」や下句「ゴム長靴をきゆいと鳴らせり」で、場面が鮮やかにイメージできる一首。
 
レジ横に温かきまましづもりてからあげクンは鶏の諡

 歌集には、「コンビニねた」も多く、好きな作品も数多くあったが、上記は、特に印象に残った。「諡(おくりな)」とは、死者に、その生前の徳や行いによって贈る称号。「からあげクン」に、今までそのような視線を向けたことはなかった。
 
 「生活の歌」には、暮らしていくため収入を得なければならない仕事の歌も含まれる。仕事の歌も著者らしい視点で切り取られてゆく。

人生の目標を問ふ質問に良い歌を作りたいとは言へず
 
 仕事のための研修の場であろうか。「人生の目標は?」と聞かれたとき、自らの根っこの部分はここにあると思っていても、それは、生活してゆくために、あるいは会社組織の一員として、何の影響力をも持たないということを突きつけられてしまう。

昼食にぬるきスープを飲み干せり誰かの生の端役を生きて

われのため罵声を浴びし上役は電気ポットに水を足しをり
 
 連作「端役」から二首。私達ひとりひとりは、自らが主人公である人生を生きているわけだが、同時に常に誰かの脇役としても生きているということ。二首目は、そのことがリアルに表現されていて胸を打つ。上役の人となりまでが伝わってくる。

六尺を座席は窓にちかづきて係長とふ名前をもらふ

 著者の職場詠は、諦念とまでいかなくても、静観した作品が多い。「六尺」は約1.8メートル、身分的にも低い男性を指す言葉でもあるようだ。1.8メートル明るい窓側に席を移動して、いわゆる「昇進」という場面に、主体は、手放しで喜べない複雑な感情を持っている。

退職のひとを見送るゆふぐれの拍手のやうな雨音を聞く

定年を待たずに辞めるひとのため日暮れの花舗に花を見てゐる

 職場のなかでも、著者が向ける視線は、退職するひとや、定年を待たずに辞める人である。それは、次のような作品からも著者の思いを窺うことができる。
 
朽ちてゆく花瓶の花の棄てどきを思ふがごとく職場にゐたり

帰りぎはにとほく見てゐるできたての廃墟のやうなわたしのデスク

 今は、そうでなくても、自らもいつか必要とされなくなり、この場所を去ることになるのであろう…という思い。今の自分に奢ることなく、遠いところにまで思いを馳せる感性を著者は持ち合わせているのだ。

花殻をそつと抜きたり発言を撤回できる国に生まれて

滅びゆく自覚はありや花殻を引き抜くときの軽き手応へ

 「花殻」は、もう咲いてしまったあとだが、まだ茎や根は生きている。一首目、「発言を撤回できる国」、国の行く末を託されている中枢の政治家であっても、その発言を撤回できる。ましてや、私達民間人の発言などは、間違いがあれば修正できるし、命まで奪われることはない。そう考えたら、私達はなんと良き国に生まれてきたのか…はたして、そうだろうかという疑問。
 ずっと離れたところに、二首目がある。花としての時代は終わってしまったが、茎や根が残っていれば、ふたたび花を咲かせることができるかも知れない。この混沌とした世界においても、ひとりひとりは生きている。何かに抗いながら、何かを支えにして。

非常ボタンを一度も押さずに生きてゐる触るれば硬きそのくれなゐを

イヤフォンのコードをほどく指先のひと殺めたることのなき指

 救急車やパトカーに乗ったことがない、災害にあわずに生きて来た…それらは、全てあたりまえのことではない。きわどい偶然をかいくぐり生かされてきたということだ。非常ボタンを押すという非日常の場面に遭遇したことがないというのも然り。あたりまえのように日々目にする風景は、ほんとうはあたりまえではないのだ。
 二首目、殺意というものが芽生えても、私達は、理性というバイヤスによって踏みとどまることができたのだ。それを抑止できなくらいの状況に遭遇していないだけである。現在の社会情勢であれば、常に紙一重の状況で、様々な非日常が存在していてもおかしくない。

 松村正直氏のオンラインの講座で引用されていた、「ソーセージパン」の一連は、大変興味深いものだった。

     ソーセージパン

ゆふぐれを蕨餅屋の灯はともるあをきコンビニ潰えしところ

暗闇に続く石段(いしきだ)しづやかにのぼりて冬にいくたびか触る

ひんやりと石のベンチの足元に誰かが吸ひし異国の煙草

誕生のときから冷えてゐたやうなソーセージパンをひとり食みをり

石段(いしきだ)と鎖の触れあふ音のして黒きおほ犬あらはれにけり

感情の次第にあふるる文章のライナーノーツのやうにけふの日

けふの日を閉ぢゆくあはひ感情のひとつひとつを夜にしづめむ

 場面を明確にしていないのに、読者はその場所をはっきりとイメージできる。導入の二首、青いコンビニが撤退し、蕨餅屋の灯は、それほど明るいものではなく、ぼんやりと灯っているのだと思う。そして、神社の暗闇に入ってゆく。明るい青から、ぼんやりとした灯、そして暗闇と、読者は、その色の濃淡にひきこまれてゆく。
 三首目と四首目、石のベンチの冷ややかさと、すっかり冷えてしまったソーセージパンの響き合い、「誕生のときから冷えてゐたやうな」は、大仰ではなく、ストレートにその寂寥感を受けとめることができる。
 五首目、暗闇に鎖のふれあう音、不穏な予兆ののち、大きな黒い犬だったという展開。一連の中でクライマックスとも言える。
 最後に、六首目、七首目は、自らのこころの内に深く分け入って、一連を閉じる。
  五感を研ぎ澄ましたかたちで、自らの内面に収束していく過程が過不足無く表現された一連で、実に巧みだ。

 好きでない歌はないと思うくらい、たくさんの歌を書き写した。せっかくなので、十七首のみ残しておく。


とうめいな袋のなかにみかん満つたがひの皮にしづかに触れて

かわきゆく白きタオルの揺れゐるをベランダといふ矩形の辺獄(リンボ)

バスのおもてに描かれてゐる空を見つ乗客からは見えざる空を

手のひらにあらはれ過ぎたフリスクをひと粒ひと粒戻してゐたり

川風を浴みてはつかに傾ぎたるあなたに意味を手渡してゐつ

ひとあまた待ちゐる冬の銀行に寝てゐる口座を起こしてもらふ

階段の踊り場に付す四分休符春のかばんに春のエビアン

さみしさにつと撫でらるるたまゆらにこころのうちの納屋に陽はさす

こんなにもやはらかくなる豚の死を舌にほどきてわれはほころぶ

感情の置き場に困る夏宵の酢にやはらかくなりたる胡瓜

誤植さへ時に詩となるしづけさに賈島(かたう)の敲(たた)く真夜中の門

収集場所に立てかけらるる一本の箒かごみかわからざりけり

急行電車にぎつしりと人てのひらに包丁を研ぐ動画しづけし

ほのぐらい夢に知つてるひとがゐて夢に出慣れた表情をせり

渡せなかった言葉がひとつ参照をされずに終はる別紙のやうに

遡行して父の父そのさらに父夏の墓石をみづに濡らせり

祖母(おおはは)の漬けし梅干しおほきくて触れたるめしはくれなゐに染む

 

 

 

 

 

 

逢坂みずき歌集『昇華』を読む

 ふるさとは、自らと地続きである。そこから、自らの細胞のひとつひつが生まれてきたような、血縁にも似たものを感じる。著者にとって、それは海と切り離すことができない。豊かな恵みをもたらしてくれる海は、時に、容赦なく、荒々しく、その営みを奪いとるものでもある。
 『昇華』を読み進めるなかで、私は、どうしても私の生い立ちを重ねざるを得なかった。私は、堅実な人々が山峡の蜜柑畑を、堅実にまもっている土地に生まれた。ひとりっ子として…。
 愛情としてそそがれる家族の思いは、私から風切り羽を奪う枷だと思えた。生身の人間を生きがいにしないでと叫びつつけた。
 『昇華』は、文芸作品である。ひとりの主人公が、ひりひりとした感性をたずさえ、透徹したまなざしで、自己を、家族を、社会を見つめ、短歌に昇華してゆく物語である。
 私は、その物語に寄り添い、自らの半生を生き直した気がしたのである。
  
 歌集は、三つの章に分かれている。Ⅰは、ひとり暮らしの章である。

春浅き夜道を歩くトイレットペーパー抱くとやや温かい 

うっすらと雪平鍋に染みついた線は一人分の味噌汁の嵩

 自らの体感温度が低いと、ささやかな温もりでも温かいと感じることがある。マフラーや手袋でなく、日常生活品のトイレットペーパーに温もりを感じているところが、その暮らしぶりにまで想いがおよぶ。
 二首目、ひとりで暮らしてきた時間の嵩が、目に見える確かなものとしてあるということの実感を思う。

 Ⅰの章には、怯まずに心のうちを真っ直ぐに押し出した表現と、自らを俯瞰し、諦念にも似た面持ちで表現したものとがある。

「金持ちになってもオレはなか卯行く」君は金持ちにならないと思う

思っても言ってはいけないことがある思ってもいけないこともたぶんある

 たとえば、一首目は、何でもない同年代の仲間との会話だと思うが、相手に対して、お金持ちになっても、今と変わりなく付き合ってくれる人だという親愛感をもちながら、そうはならないという社会に対して冷めた感覚をも持っている。
 二首目で、そんなふうに周囲を静観してしまう自分と、そこから生まれてくる言葉を制御しようとしている自分を客観的に見ている。

一生に一度なんだな今日という(録画のアニメ観ただけの)日も

映画なら-十年後-って端折られる日々の只中を生きていくんだ

わたしから夢と希望と強靱な理性を引けば放火魔になる

 諦念にも似た・・と書いたのは、上掲のような作品である。世代から考えると早すぎるほどに、自己を俯瞰し、今の自分の立ち位置を、冷静に見つめている。
 むしろ、三首目のような暴力的な表現のなかに、荒々しい若さを感じてしまう。誰でも持ち合わせている善悪を濾過していく作業のなかで、「強靱な理性」が主体を苦しめることにもなるのだろうか。


 Ⅱ章は、自分のなかの性を凝視し、俯瞰し、そして苦しみながらはっきり見えてくる思いを表現している。

くちづけをしたいと思ったことがないカステラの底の紙は食べたい

結婚はしたいが恋はしたくない心臓が干した無花果なので

 一首目、「くちづけ」と「カステラの底の紙」、唐突なようで、割と納得できる。目の前にある感情をもたないカステラ、その底の紙は、今、手を伸ばせばすぐに手に入る欲望である。しかし、「くちづけ」は、そうではない。そこに至るまでの人間関係があり感情がある。「くちづけ」そのものに憧れることには違和感があり、その過程を疎んでいる気がする。
 二首目、歌集のなかに、通奏低音のように流れている思い。一首目とも響き合う。「干した無花果」は、老化した心臓を思わせる。「無花果」の字面から、花は咲かない、恋はしたくないという思いへも及ぶ。下句のはすっぱな表現に意思を感じる。

ベーグルの穴はきゅううと空いている かつてわたしも通った産道

布製でも良かったかもなこの軀しょせん魂の着ぐるみならば

わたしの中に女があるのはいいけれど女の中にわたしは居たくない

 女性として生まれたことを諾いながらも、女性だからという枠のなかに閉じ込められたくない。
 一首目、そこを通って、この世に生を受け、自らももつ産道…その役割の重さが痛い。
 二首目、自らがもつ性の役割を淡々とこなすだけのために生まれ落ちたならば、血肉を持たない借り物の着ぐるみの方がよかったかもしれないという思い。
 三首目は、端的に自らの思いを吐露している。 


Ⅲ章では、故郷や家族とのつながりをたしかめながら、自らの進む道を手探りしてゆく。

ライバルの第一歌集のハードカバー日に焼けちまえと窓際に置く

遺歌集を頼める友のあらざれば石川啄木より長く生く

 たいがいは、こんなふうにストレートに表現できず、取り繕ったことを書いてしまう。むしろ、この本音に読者は安堵し開放感を感じるのかもしれない。
 二首目と合わせて、歌をつくることはしみじみと孤独であると思う。

結婚をするのも仕事の一つにて家族経営のどん詰まりにいる

回遊魚みたいに生きられたのかなもっと家族が嫌いだったら

今日も父はわたしの双子の弟のような名前の船と働く

 冒頭に少しふれたが、漁業にしても、農業にしても、投資をして、それで生計を立て、家族だけでやっていこうと思ったら、跡継ぎが必要になってくる。当然、子へ、孫へと引き継がれることになるが、主体のように、その役割を、ひとりで引き受けなければならないこともある。 
 今の時代、もっと自由だと思われがちだが、主体が家族から愛され、家族を愛し、ふるさとを愛していれば、その思いは複雑である。一度は故郷を離れ、ふたたび故郷を選んだ主体の決心は、向かい風のなかにある。

ひとりひとつ生還体験談抱えこの街に暮らし続ける人ら

この街はピザ屋もフルーツサンド屋も原発もある素敵な街です

 当然、故郷は、3.11の震災の傷跡を背負っている。少しずつ復興を遂げながらも、今この地に生きている人々は、あの地震津波から生還してきたひとりひとりなのだ。美しくお洒落な街に生まれ変わっても、震災前と変わらず、原発もあり、人々の心の奥には深い傷跡が残されたままなのである。

親戚がほとんど枝のたらの芽やほとんど竹のたけのこくれる

わっぱが食う朝飯わらわら食う昼飯わっつわっつと食う晩の飯

 小さな村のようなところでは、近所に親戚が集まっていることも多い。一軒に何かあると筒抜けで、自家製のものをあげたり貰ったり、家族のようである。素朴、言い換えれば無頓着に物をくれたりもする。ほとんど枝、ほとんど竹 の表現が絶妙。
 二首目、わっぱは子どものことでしょうか。わっの重なりが躍動的で、漁師町の忙しく、旺盛な食事の様子が伝わる一首。
 
お父さんのタオルがくさいお父さんのタオルだけがくさい 梅雨入り間近

水音で誰が風呂場にいるのかが分かる家族歴二十八年

ばあちゃんがいたら、ってまた思ったよ私が婆ちゃんになっても思うよ

これはあなたを喜ばす為ではなくてあなたを喜ばせたいわたしの願いの為

 血縁とは不思議なものだ。くさいタオルをつきつけられても嫌いになれない。水音だけで、誰がお風呂に入っているかわかる。反目することがあったとしても、素直に喜ぶことをしてあげたくなる。厄介だけれど、唯一無二のものだ。

漁業なんて向いてないよと仰るが三半規管は強いんですよ

潮水にまけるしウニもホヤもきらい船には酔わないから生きられる

 最後に、この二首をおいておく。

 葛藤に抗いながらも、強靱な理性と、三半規管を武器にしてたくましく生きてゆく主体を眩しく想像しながら・・。