ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

吉川宏志歌集『雪の偶然』を読む

 研ぎ澄まされた修辞に息をのみ、この感動を伝える言葉がなくて悲しい。せめて、一連、一連の重さと深さを、大切に読み継いでいきたいと思ったら、備忘録のようになってしまった。

[鶫]

鶫(つぐみ)とは鳴かざる鳥と書かれおり殺されるときは鳴くのだろうか

百五十万の死をおもえども思われず人間の髪の数は十万

 冒頭から、ショッキングな一連だ。
 一首目、つぐみ→口をつぐむ→つぐまされている に思いが及ぶ。
 二首目、メディアによって知らされる死者数、恐れおののきながらも、その真実は理解していないのだという自問自答。髪に突き刺すような迫力。

[実朝の墓]

ゆうぐれはどくだみの香の濃くなりて蛇腹のような石段のぼる

 大河ドラマの『鎌倉殿の十三人』が想起される一連。鶴岡八幡宮の大階段に限定しなくても、その石段の連なりに蛇が身をくねらせているようなひんやりとした不気味さを感じる。

[地上の声]

イラクには棺も運ばれゆきしという 隊員の眼に見えぬところに

 イラク戦争自衛隊派遣に反対するデモに関わる一連。棺が用意されていたということが、派遣の局面を顕わにしている。

[あばら家]

黄の蝶がぎざぎざに宙を飛びており家とは秋に年を取るもの

 住んでいる家が老いてゆくというのは実感できるが、秋に年をとるというのは、体感が影響していてなるほどと思う。

[渋民まで]

ガラス光る記念館にて見つめたり啄木の死後に産みたる節子

 石川啄木の生地「渋民村」を訪れた際の一連だが、「辺野古」や、新聞歌壇のことが差し挟まれていて、一連の流れに変化を持たせている。

[朝の池」

 朝の池ただよう鴨の心臓は水面よりも下にあるのか

誰もが見ている光景だけれど、そう気づいてしまったときから、自らが冷たい水に浸かっているような体感がある。

[城の水源]

倒れたる墓は直角をむきだしに雨に濡れおり朝の山道

 亡くなった人が眠ると言われている墓石が、地震で倒れる事によって荒々しい局面を見せているというのが印象深い。

[雪とアレント

東京に殺されるなよ 東京を知らざる我は息子に言わず

 旅立つ子ども達に親としてできることは限られている。それでも伝えたい思いはあるが、東京で暮らしたことのない身は、東京を語れないのだ。

[火のそばに]

誰か食われるあいだに遠く逃げゆくは草食獣の当然にして

「共謀」という言葉をキーワードにして、イエスの弟子ペテロの裏切りや、ナチスの大量虐殺に繋がってゆく一連。人は草食獣ではないけれど…。

オオムラサキホコリ]

紙が足りぬ、紙が足りぬと叫ぶごと細かき字なり熊楠の字は

 紀南の南方熊楠の生家を訪れた折の一連。南方熊楠の精力的な探究心を端的に表す上句に臨場感がある。紙をはみ出すほどに書かれた細かい文字が想起できる。

[龍眼]

 印刷のミスがあった
申し訳ありません、を繰り返すたび黒きソファーのぎしぎしとなる

 仕事上の、やりきれない感情がまとわりつくような一連のなかで、古の王が所望し、配下が海を渡ってまで探した龍眼という果物を食べれば、その疲れを癒やすことができるのだろうかなどと思ってみる。

[光る夕立 平成じぶん歌]

 平成元年に二十歳となり、そののちの著者の半生を綴る一連。それぞれの一年のなかには、数限りないドラマがあったはずなのに、それらを地下茎のように覆い隠して一首一首が屹立していて平成という時代の流れのなかに生きたじぶんを表現しているのがおもしろい。

[梨の汁]

山膚の黒く流れてゆく窓に「まだ無事」というメールが灯る

 母の死に逢うための旅の途中、夜の車窓の暗さ、心細さを背景に灯るメール。「まだ無事」、その簡潔な表現と明るい画面に、言いようのない感情が湧き出てくる。

[放生院] 
 
夕影の貼りつく襖を抜けてゆく ふりかえったら母がいない 

 結句の字足らずが、喪失感を増幅させる。

[野宮]

古(いにしえ)は衣(きぬ)を着しまま抱き合いし折り紙の鶴重なるに似て

 「折り紙の鶴重なる」という見立てが、紫式部が生きた時代へと想像がかき立てられ、衣を着しままというのも刺激的だ。

草枯れて石多き道 昼にのみ春は来たりて夕べに去りぬ

 春が昼にのみ来て、夕べにはいなくなってしまうという春を少し不器用なひとのように擬人化した表現が印象深い。

[美馬牛]

学校に粘土を売りにゆく人と話せり粘土はぽってりと冷ゆ

 組織に身を置いたからには、個人の考えや感情は飲み込んで、いわゆる主流というものに流されていかないとやっていけないという風潮があった。粘土という、あのひんやりとした質感と、感情を裡に包み込んでしまう量感を思う。
 粘土を売りにゆく人を受け入れる側の立場にいた私…。

[夜業]

春の月にふくらむような便器かな工場裏に六基がならぶ

 「納期が遅れている印刷所の手伝いにゆく」という詞書きが、冒頭の一首にある。町工場のような印刷所かと思われる。身体はくたくたに疲れているのに、納期に間に合わせるというひとつの目的のために、数人が力を合わせて、若き日の文化祭準備のような?!高揚感を感じる。

[遠き火、近き火]

沖縄戦に焼き潰された屋根だった同じ火にして同じ火ならず

ガラス戸の向こうを滑る水滴とうちがわの露 冬が来ている

 訪れて時を置かず首里城が焼けた。沖縄戦に焼き潰された屋根が、今度は戦火ではないけれど、再び焼けた。自らにとって、戦火は遠い火なのかという問いが投げかけられる。ガラス戸に守られ、外は寒いけれど、内側にいる自分はぬくぬくとしているように…。
 
[うしろむく人]

ボーカルが死にしバンドの残りいるごとき明るさ冬の林は

 「画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ」-第一歌集『青蟬』-この短歌を読んだとき、なんという欠落感の表現の仕方だろうと、もう何十年経った今でも心に刻まれる一首なのだが、そこに響き合うような歌だと思った。

[紅蜀葵]

忘れつつ思い出しつつ人の死を生きてきたりぬ 紅蜀葵(こうしょっき)咲く

 コロナ禍での様々な場面を詠んだ一連が続く。著名人も何人か亡くなり、ウイルスが間近に迫っていることを実感した。近親者はもちろん、そうでない会ったこともない著名人にしても、生きている者は、その人の死によってその人の生きた時代や文化を思い、その人の生き様に思いを馳せながら生きてきたのだなあと思う。

[眼状紋]

ここは三条麩屋町(ふやちょう)あたり ゆうやみの繋ぎ目として外灯が立つ

 下句が、とても印象に残った歌。ひとつの外灯を過ぎて、明るさがやや心許なくなったころ、次の外灯が現れる。そうか、外灯はゆうやみの繋ぎ目なんだ…。麩屋町という、すこしぼんやりした町名がその雰囲気を際立たせている。主体が、ゆっくりと歩いていているということも想像できる。

[人形器官]悪について

慰安所の扉に続く列がある 水溜まりを避けて途切れたる列

たたかいとたたかいのあいだ 尖りたる器官を持ちて男は並ぶ

 衝撃的な一連だ。これがフィクションではないということを記憶せねばならない。

[十字路]

支線から冬に入りゆく駅ならむ七味の赤がかき揚げに散る

 本線から支線に変わる地点にある駅なのだろう。支線から冬に入ってゆくという感覚、五感を研ぎ澄ませているのがわかる。七味の赤も、視覚として刺激的である。

[焼餅坂]

桜から出(い)でて桜のなかに入る橋が見ゆやがて我を乗せたり

 就職して、親の元を離れ、一人住まいを始めた娘に関わる一連の冒頭にある歌。
 遠近感が不思議な感じだ。実際は、自らが橋まで行ったのだが、遠くに眺めていた橋がやってきて、自らを乗せた感じだ。
 
二十六年過ぎてしまいぬ大根を擂りつつ二人暮らしにもどる

 一連の最後におかれている印象で、より心情的なものが増すが、この一首のみ取り出しただけでも、充分に情景が伝わってくるから凄い。「大根を擂りつつ」が絶妙だ。

[組織図]

古着屋に人のからだを失いし服吊られおり釦つやめく

 退職届を出し、身辺の整理をする一連。
 一時、誰かが身につけていた衣類から、その人の身体が抜け落ちて衣類だけが残る。組織という拘束された衣服から、自分の身体を取り出すことを思う。
  
[雪の偶然]

因果はいつも認められずに雪暗(ゆきぐれ)のたまたまあなたが病んだだけだと

氷雨降る 人をあきらめさせるため〈偶然〉という言葉使いぬ

 歌集名となっている一連。
   因果応報、日頃の行いが悪いから、悪い結果になったのではないということは理解していても、では、偶々病んだのかという答えも、どこか理不尽な思いが残る。あなたが悪いのではないよ、偶々だよと言って、仕方ないねとあきらめさせて来たのか。

-〈偶然〉とは何なのか。それは哲学的なテーマであり、短歌で答えを出せるものではないが、世界に問いかける形で歌ってみたいと思った。- 著者のあとがきである。

[銃床]

 ウクライナ侵攻を身辺の視点から詠んだ一連。著者は、日本にいて、戦渦のなかに生きているわけではないが、これだけ緊迫感のある作品をつくれることに驚いた。それは、やはり一首一首が、著者の日常の具体と繋がっていることに説得力をもつからだろう。

銃を配ることなき日本 鉄橋の冬の手すりを握りたるのみ

焼け跡を歩きて溶ける靴底の臭いは想像できる できるか 

キーウに居る我をおもえり眼鏡がまず砕けて見えぬ銃口に向く

[耳の数]

 豊臣秀吉の朝鮮侵攻によるこのような遺構があることを、一連から知った。自ずとウクライナ侵攻に思いは及ぶ。

暗緑のなかに白抜きされているどくだみの花 坂に踏み入る

 朝鮮侵攻の折に、戦功のしるしである首のかわりに朝鮮軍民の鼻や耳を削ぎ塩漬けにしたものを日本へ持ち帰ったという。その経緯を知ると、この「白抜き」という言葉にはっと息を吞む。

西大寺

 大和西大寺駅前に、安倍元首相が襲撃された事件の一連。

数秒後ひかり喪う眼(まなこ)なり「考えるのでありま…」銃声

死ぬことを信じられずに死ぬことの 曇天が目に映りしままに

 「死ぬことを信じられずに死ぬ」、戦渦のなかの人々も、長く国の中枢にいた人も、自らの死を信じられずに死んでいくのだ。それは、偶然とあきらめるしかないことなのだろうか。

第15回毎月短歌【テーマ詠 「月や星の短歌」】【自由詠】選評

第15回毎月短歌【テーマ詠 「月や星の短歌」】【自由詠】の選者をさせていただきます、澄田広枝です。
 
【テーマ詠 「月や星の短歌」】268首、【自由詠】172首のなかから、それぞれ★ゆるら短歌賞★として、8首づつ選ばせていただきました。

 月や星にまつわるテーマ詠は、和歌として詠まれてきた長い時代から、もう詠い尽くされたのではと思うほどですが、いえいえとんでもない、こんなふうに詠えるんだという発見がたくさんあり、楽しませていただきました。
 今回も、選者をさせていただき感謝しています。


★ゆるら短歌賞★【テーマ詠 「月や星の短歌」】 

 

さよならを決めた夜にもついてきたキャリーケースと半分の月      反逆あひる

 抜群のストーリー性があって、強く印象に残りました。「さよならを決めた夜」によって、これまでの主体の生きて来た長い時間の経過、場所、相手との関係、それらすべてが読者ひとりひとりの想像力に委ねられます。主体の決心に添うように、ついてくるキャリーケースと、半分の月(満月ではない欠落感)も、これ以上ない素材だと思います。

だれもみな月を映した夜があり 海も草露《そうろ》も裸体もひかる     よしなに

 人の誕生には、月の満ち欠けが影響しているといいます。何も持たず、裸ん坊のまま生まれ落ちることの尊さ、儚いけれど強く美しいその営みを象徴的に詠っていると思いました。

私の名前には月がある他には何も持ってないけど          ゆ

 自らの名前に「月」と言う壮大な字があることに生きていく力をもらっていること、その素朴な詠い方が印象に残りました。シンプルだからこそ、響いてくる歌があるのですね。

会社では何にもできないわたしです土星に大地作れるけれど      綿鍋和智子

 前作と、作りが似ていますが、また違った面白みのある歌だと思いました。「土星に大地作れる」という破天荒な表現が、「会社では何にもできないわたし」との比べようもない大きさにスカッとした読後感が残ります。はかり知れぬ宇宙のことを思えば、ちまちまとした会社組織なんて、と言い放って、自らを鼓舞しているところがあるのかもしれません。

月なのか好きなのか聞きとれぬまま2センチあけてホームにならぶ      奥 かすみ

 「月」と言ったのか、「好き」と言ったのか、聞き取れなかったけれど、それはそれでよい、こんなに相手の存在を身近に感じることができるのだもの・・という感じでしょうか。「月」と「好き」の引用が初々しい感じで効いていますね。それにしても、2センチは、ほぼ密着状態ですね。でも、ほんのわずかに、まだ距離があるわけです。

ロフト付き バス・トイレ別ワンルーム 2階角部屋 月明かり良し   

                           長曾我部 じゆ

 住まいを選ぶのに、「ロフト付き バス・トイレ別ワンルーム 2階角部屋」だと申し分ないように思いますが、作者にとっては結句が必須だったわけですね。結句があることによって、ありきたりの住まい情報に着地することなく、余情のある一首になったと思います。

屋上の柵の外側腰掛ける私は月に押し返される         史記

 シビアな上句に、どきっとしますが、下句の「私は月に押し返される」によって、安堵感だけではなくて、月の荘厳な美しさや、小さな存在である人間を受け入れてくれる寛容さ、神秘性までに思いが及んで印象深い作品でした。

NASAだって観測できない星があり胸ポケットの君への手紙    仁藤えみ

 宇宙空間を様々なかたちで把握しているように思われるNASAですが、まだまだ観測し得ない星もあるはずです。ましてや、私の胸ポケットに入っている君へ出すためにしたためた手紙は、どのように宇宙開発の精度がたかまっても、見つけ出すことはできないでしょう。
 壮大な権力と、一市民の心情の比較としても読むことができます。


★ゆるら短歌賞★【自由詠】 


「次に蹴る場所はおそらくこのへん」と妻は私の手を引き寄せる         梅鶏

 初句からの、「次に蹴る場所はおそらくこのへん」に、読者は、疑問を含んだ不穏さを感じます。けれども、下句によって、安堵するとともに、一首のつくりの巧さと、ほのぼのとした読後感を味わうことになります。そうか、お腹にいる赤ちゃんの胎動を感じている夫婦だったのですね。やられた…!という感じです。

すこしずつ屈折してる僕たちはなみだで虹をえがく映写機         小野小乃々

 フィルムに光を当てることによって、映写レンズで拡大投影される映写機。僕たちのひとひとりは、少しづつ屈折している光で、どの光線も同じものはありません。そんな僕たちが、悩みながら、苦しみながらも、光の束となって、大きく映し出されるとき、それは虹のように美しいものだと思います。異なる個性をもった者達が、ひとつになって何かを生み出すときの心象かもしれません。

延命を選ばなかったひとたちがドライフラワー束ねてる朝         佐十菫

 とてもシュールな光景をイメージしました。いわゆる延命治療という選択をしなかった場合、それは死を意味します。自らの意思によって、それを選んだという毅然とした様子で、ドライフラワーを束ねています。ドライフラワーは、もう死んでしまった花。それでも、そののちも乾いた美しい趣をもつ花。延命を選ばなかった人達への作者の複雑な心寄せが感じられます。
 
給食の冷めたシチューに浮かんでるにんじんの島 救助は来ない        奥 かすみ

 給食というと、実に様々な思い入れのある方が多いと思います。作中の主体は、小さい頃の作者でしょうか。もう冷めてしまったシチューのなかに、苦手なにんじんが浮かんでいます。食べるまで、給食の時間は終われません、ということなのでしょうか。時間だけが過ぎて、誰も助けに来てくれる人はいません。結句が、昨今の災害と重なって、痛恨の着地です。 

サイコパス診断ぜんぶ当てはまるそれでもペットボトルを洗う         汐留ライス

 「サイコパス」とは、社会に適応することが難しい恒常的なパーソナリティ障害 ということですから、作者は、自らその診断をしてみたわけですね。そしたら、全てが当てはまった。そのときの作者は、どんな思いだったのでしょうか。それには全く触れていません。けれども、「ペットボトルを洗う」という、ささやかだけれど、基本的なきちんとした暮らしぶりに、ある種、作者は誇りを持っていると思いました。下句、キラキラと綺麗に洗われたペットボトルに美しいものを見たような気がします。

そうやってふるさとは増えて喉元の滑走路なめらかにのびていく         onwanainu

 正直、歌意が読み切れていないかもしれません。しかし、「喉元の滑走路なめらかにのびていく」の下句が、とても魅力的でした。ふるさとが増えるというのは、配偶者ができて、その故郷も、自分の故郷になっていくという意味にとりました。滑走路は、飛行機を無事に空へ旅立たせたり、長い旅路から帰ってくるのを迎え入れるという役割があります。故郷が増え、自らが滑走路としての役割を担うことも多くなっていくのだろうな…というように読みました。

「太陽が水滴のプリズム通過します。太陽を背にお待ちください。」     二度寝計画

「電車が到着します。白線の内側まで下がってお待ちください。」駅のアナウンスでよく聞くフレーズです。太陽が水滴のプリズムを通過するのを見る、それだけでも、小さなドキドキ感がありますが、「太陽を背にお待ちください」で、一気に臨場感が増したというか、太陽の光は背中から差してくるのだということを認識する、そのことにリアル感があると思います。 

静けさと淋しさは異音同義語 待合室で鼻すする音       白鳥

 「同音異義語」というのは、よく耳にしますが、「異音同義語」というのは、作者の造語でしょうか。この歌には、ふたつのねじれのようなものがあると思います。ひとつは、下句「待合室で鼻すする音」を聞いてから、作者は、静けさと淋しさは異音同義語だなあと思ったのだろうという時間のねじれ。ふたつめのねじれは、「同音異義語」ではなくて、「異音同義語」。待合室というのは、たぶん病院などの待合室、そこで、鼻をすするといのは、何か抜き差しならぬ事態になった場面だと思います。静けさの中に、緊迫した空気があって、ふたつのねじれは、それを増幅していると思います。

 

 

 

 

 

 

 

6月毎月短歌【現代語テーマ詠】選評

 6月毎月短歌【現代語テーマ詠】の選者をさせていただきます、澄田広枝です。
 
 テーマは、「光」、144首の作品に出会うことができました。
 太陽、月、星などからの自然光、人間が創り出した人工的な光、漢字の「光」ひらがなにひらかれた「ひかり」、実に多種多様な「光」に出会うことができました。光に付随する影の側から詠っている作品も多く、興味深く読ませていただきました。

 

 ★ゆるら短歌賞★として、8首選ばせていただきました。

① 雨は檻 ねぇ、ホモ・エレクトスわたしたち淋しさのんでひかっちゃんうんだ    みつき美希

 初句の導入の言葉に、ドキッとしました。作品は軽い話し言葉のようでいて、深く内包しているものがあると思います。更新世に生きていたと思われるヒト科のホモ・エレクトスに話しかけるというつくりで、一首はできています。言葉など持たず命の根源であるような対象へ、ありあまる言葉や情報を手に入れることができる私達が、その満たされた時代であるが故のさびしさを吐露していると読みました。
 「雨は檻」と「淋しさのんで」も、あたかも、雨粒を飲んで発光しているように響きあっていて印象的でした。

②人間と恐竜なんて比べても仕方がなくて光る爪切り    短歌パンダ

 上句は、そんなの当たり前というふうに思わせて、結句のインパクトをひときわ強くしている印象でした。「爪切り」という地味な素材を光らせることによって、上句にもどって、何か意味があるのではないかと思わせる、その演出がおもしろいと思いました。「恐竜」が出てきたことによって、一首の時間軸がとてつもなく広がっていると思います。

③つやつやの茄子で光の輪を作るようにレイジースーザン回す    インアン

 「レイジースーザン」を知らなくて、知らないままでも、その言葉選びに惹かれました。人の名前のようにも思われるそれは、回転皿なのですね。茄子の濃い紫がつやつやと光って、光の輪をつくる、現実としてあり得るかどうかではなく、ファンタジーのように映像を想起してみたい一首でした。 

④森林浴きみの自画像に残された絵筆の抜け毛のひかりやわらか    畳川鷺々

 「絵筆の抜け毛」に注目しました。「きみ」はもうこの世にいない人で、自画像だけが残されています。自画像は、その人の生前を写し取っているとは言え無機質なものです。そんな中で、「絵筆の抜け毛」を見つけてしまいます。きみの抜け毛ではないけれど、唯一命が通っていたものとして、作中主体の心を捉えたのだと思います。視点の繊細さに惹かれました。

⑤命賭けるとか言うなよ蛍光灯の束で殴られたことないくせに    汐留ライス

 簡単に「命賭ける」なんて言って欲しくないという強い思いが、暴力的と思われる下句へと繋がっています。破調のつくりが、自らの思いもどんなふうに伝えたらいいのかわからないけれど伝えたいという綯い交ぜの思いにつながっていると思います。

⑥理科室の暗幕に穴があいていて閉めるとみえるカシオペア座が    月乃さくは

 普段ほとんど閉じられていて、たまに映像などを見る時に、広げる理科室の暗幕。暗い夜空のように思えるその暗幕に、ぽつぽつと穴が空いています。集中するのは、前方であるべきなのに、主体は、あっ、あれはカシオペア座だ、あれは…と想像を膨らませてしまいます。現在の学校の設備では、視聴覚機器が充実しているので、黒い暗幕などは使わなくなってしまったのでしょうか。

⑦ひかりって速さがすごい感覚が先に奪われていくなら恋    まちのあき

 光速は、地球から月までは2秒、太陽までは約8分、けれども、恋はそれ以上、感覚が奪われてしまうほどの速さで落ちていくものだと言ってのけます。その有無を言わせない大胆さに読者が引き込まれてしまうおもしろい一首だと思いました。

⑧木漏れ日の光の部分を踏んでいくステップみたいにつま先立ちで    宇井モナミ

 色彩や光の印象を大胆に表現する印象派の絵画を想起しました。木洩れ日のなかを、少女が踊るように通り過ぎてゆく構図です。主体は、そのような状景を頭の中に描きながら、自らも少女のようにステップを踏んだのでしょうか。「木漏れ日の光の部分」にリアリティがあって臨場感があります。

楠誓英歌集『薄明穹』を読む

 一度目は、深く深く水底へひきずりこまれるように読んだ。二度目も、少し静観して読もうと思っていたのに、やはりみるみる引き込まれてしまった。恐ろしいほどたくさん付箋が付いた。

 日常に隣り合わせている生と死、薄くたよりない膜にへだてられているような生と死、人が死んでゆくということの残酷さと生々しさ、それらから目をそらすな、まっすぐに見つめ続けよ…そう言われているような気がした。

 歌集は、阪神淡路大震災を詠った一連から始まる。

モザイクのタイルをおほふ草の中お風呂ではしゃぐ子らの声せり

はなびらは吹き込みやがて屈葬のごとく眠れる少年の辺へ

アスファルトはがしたやうな春の日はさうだ赤子のミイラ見に行かう

名も顔もみな忘れはて草のなか茶碗のかけらも墓標となれり

 一首目、廃墟となってしまった草原と、モザイクのタイルの明るさの対比。たしかにそこに居たはずの子どもたちの存在。
 二首目、子どもたちがよくする三角座り、そのまま屈葬へとつながっていくのが悲しい。
 三首目、「アスファルトはがす」ことと、「赤子のミイラ」唐突なようで、生々しくぞわぞわとする緊迫感がある。
 四首目、茶碗のかけらしか墓標とするものが無い、それほど全てが消し去られ、奪われた震災の爪痕。

てのひらの菌を殺せば遠つ世の仏陀のまなこに翳のさしたり

   コロナ禍を材題にした歌はたくさん歌われたが、コロナの菌を殺すという視点の歌を見たことがない。まさか、コロナの菌を殺す事を殺生と捉えているのではないと思うので、このような世の中になってしまったということを、仏陀も嘆いているであろうということか。

死に方など関係ないのだ遠つ世の仏陀はキノコの毒に死ぬるも

 仏教を開き、高い徳を積んだ人であっても、死ぬときはあっけなく死んでしまう。どのように死んでいくかは関係ないと言う。著者の死生観が伝わる。

心(しん)と身(しん) 性の合はざる夕まぐれ野鳥図鑑の鶍(いすか)の嘴(はし)よ

 心のなかの性と、身体の性が合っていないことと、左右互い違いになっているイスカの嘴を結びつけた。物事が食い違うことを「イスカの嘴」ということだ。

掌をふかくひたしてすくふとき沈没船のごとく豆腐は

 沈没船を掌で掬うなどあり得ないことだけど、妙に生々しい実感がある。自らの力で動けなくなってしまったものの存在の重さだろうか。

水兵のねむりを眠れ早朝のプールの底をふれし身体よ

空港まで海底を這ふ電線に夜ごとあつまる死んだ水夫よ

 当然、海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も 塚本邦雄/『水葬物語』が下敷きになっていると思う。しかし、一首目は、作者自身の身体から感じとった生身の感覚、二首目も、海底を這う電線という現代的なものがベースになっていて、塚本作品とは違った展開となっている。二首目の「空港まで」続く電線は、亡くなった水夫達の航空母艦への憧れを暗示していると思うと悲しい。

いつからが死後なのだらう滝壺にまはりつづけるボールのありて

  生と死の境界は、一瞬のことなのかもしれない。回り続ける限り滝壺に飲み込まれてしまうことのないボールのように。

陰惨に抜かれし牛の舌に似てジャーマンアイリスくらき花弁よ

背中より刺しとほしゆく刀身の銀の光よ鱧を食みつつ

耳塚に鶏頭の供花赤黒く死は終はりなき始まりなれば

鼻をかへせ耳をかへせ 塩壺の面にあまた指紋は浮かび

開かれたポストの中を下がりゐる牛の胃袋のごときを見てゐつ

 ホラー映画を観ているような、血生臭く、陰惨な場面を描写しつつも、余情のある一首として着地させるのがこの人の特性だ。五首目、遭遇した一瞬の状景を、インパクトのある言葉で捉えた。牛の胃袋を見たことがない者にも、そう思わせる説得力がある。
 
防腐処理されて眠れるテレサ・テン抜かれし臓物(わた)のありかをおもふ

朽ちてゆくこと許されずふたひらの耳をとがらせ眠るテレサ

 テレサ・テンは、台北市に土葬され、没後十年以上生前の姿であり続けるという。台湾では、このような形で土葬されるのは、蒋介石蒋経国と3人だけだという。英雄であるが故の運命。臓物を抜かれたり、朽ちてゆくことを許されないということは、栄誉あることなのか、淡々と読み手に問いかけてくる。

下枝(しづえ)より落ちたる雪のひかりあり十指をきみの髪に沈めて
 
 君の髪に十指差しこみひきよせる時雨(しぐれ)の音の束の如きを/松平盟子 を下敷きにしている一首と思われる。梢から落ちる雪の雫が美しく詩情の広がる一首である。
  
転生をするならビルにはりついて踏まるることなき非常階段

いづこへもゆけぬ想ひはのぼりきるてまへで葛にのまるる階段(きざはし)

 階段の歌を二首。非常階段というのは、文字通り、非常事態の時にのみ使われるもので、普段はその存在をあまり認識されていない。形状にしても、建物の外側にあって、まさしくしがみついているという感じだ。そういうものに転生したいと言う、著者のこころの有り様を思う。肝心な時にのみ、その存在が生かされれば、普段はあれこれと面倒なしがらみを持ちたくない、と言うことか。

 二首目、辿り着くあと少しのところで、葛に覆い尽くされている階段。内なる不全感を状景として表現した。

虐殺とはひとつ穴にて埋めること重なり朽ちる妊婦も胎児も

殺さるることをおそれて子を喰らふクロノスの裔(すゑ)ルーシに在りて

 クロノスは、ギリシア神話の農耕の神、子供らにその権力を奪われるという予言を受けて、次々と生まれた子どもを飲み込んでしまう。ルーシという地名は、現在のウクライナの首都キーウあたりか。クロノスの末裔が、そこにいるという。一首目とともに、現在のウクライナの戦況を思う。

 最後に、特に印象に残った一連『雪ふる日に』から‥

背(せな)と背(せな)あはせてかたみに死を語るどちらか影かきみとぼくでは

過労死のイルカの骸運ばれる壁ぞひのくらい小道をぬけて

「水平にたもて」とひとの声のして柩はすすむ雪に触れつつ

出棺の合図の鳴りて掌を合はす生きるひとのみ息白くして

斎場の煙の絶えずのぼりをり死人のかけら雪に混じるを

死にたるをたしかむるため刺す銃剣おもひて傘を堅雪に刺す

 本歌集は、常に生と死の境界線を描いているように思う。薄皮一枚で隔てられた生と死、一瞬の時間の進み方によって現れる生と死、様々な日常の場面において、著者はその境界線をおそろしいほど敏感に感じとっているのである。

 一首目、光と影、生と死、背中合わせにいる人と、どちらが生者でどちらが死者か。それは、常にいつ反転するかも知れない危うさをはらんで、常に揺蕩い続けているのだ。
 二首目、水族館などで人気者のイルカならば、過労死もあるだろうと思ってしまう。イルカの死から、ひとの死へ、その出棺、焼却までをたどる。
 三~五首目、事務的とさえ思ってしまう、その葬祭の流れに対して、著者ならではの感性が冴える。「水平にたもて」「生きるひとのみ息白くして」「死人のかけら雪に混じる」、どの言葉にも場面だけではない物語があり、その深みへ読み手を引き込んでゆく魅力を感じる。
 五首目、固く凍りついてしまった雪に、傘を突き刺したときの感触、死んでいるのかどうか確認するために銃剣を突き刺すなど経験しようもないが、リアルに迫ってくるから不思議だ。たぶん、戦争映画などで、映像として記憶したものが甦ってくるのかもしれない。

私性(わたくし)を読まるることにあらがへば近衛兵のごとき日の暮れ

 本歌集に、著者の私性は、ほとんど詠われていない。死を、死に限りなく近い視点で詠い、その切り口を生々しく晒して見せるだけだ。その作品世界への門番は、近衛兵が表情ひとつ変えず、淡々と任務を遂行するような姿勢がふさわしい。

 

** 印象に残った作品が多過ぎて、評しきれないので、以下に残しておく。

「疼」の字の最後の冬の点は伸び横雲かかる檸檬忌となる

肺を病む独りのごとく細りつつ梶井基次郎文学碑あり

肺胞のひとつひとつの燃え尽きてきみは暗がりに立つピラカンサ

文人に女はをらず騾(ら)に乗りて春霞に消えゆく鬢髪(びんぱつ)が見ゆ

死んだこと気づかぬひとも立つてゐる緑濃き山のカーブミラーに

冬の日のプールサイドに仰向けにかへされてゐる空色ベンチ

沈みたる中洲の樹々はゆらぎをり水中の死者を呼びよせながら

晩夏光 骨組みだけの海の家きみは最期に見たいといふを

空港島とほくかすみてたたまざる白き翼の眠れるが見ゆ

茂みへと礫(つぶて)を落とす暗がりにうごめく者(もの)をみつめるための

暗闇の深きところに手をのばすそれが一枚のドアでなくても

海峡をわたす大橋ときどきは霊柩車も背にのせてゐむ

子をもつとはどんなおもひか奇妙なる獣の遊具ふたりして乗る

きみだけにあだ名で呼ぶこと許させてコンパスの針にとどめ刺す蝶

耳朶を嚙む ふるへるきみの咽頭(のみど)には翡翠の皺のガリラヤ湖あり

きみの声おもひ出さうとするうちに海溝の闇におちゆく燭台

ひと恋ふる心はいつもあやふくて闇をねぢ込む鶏頭のひだ

だがやがてホテルの部屋の番号のやうにあなたを忘れる日はくる

吊り輪とは磔刑の形うなだるる青年の眼窩に影はあつまり

父の影のぶるをおそれて刀身の冷たさに慣れし きみの手首は

きみの飲みし錠剤の色のあざやかさ幹より吹き出す蘇芳の花は

祐德美惠子歌集『左肩がしづかに』を読む

手放すは安らぎならむ裸木がゆふおほぞらの彩雲を抱く

 祐德美惠子歌集『左肩がしづかに』の巻頭に、一首のみでおかれている歌。
 ページの余白が、その美しい雲をおく空の広がりを想像させて、どきどきしながらページを開く。木々が葉を落とすのは、手放すこと、そしてそれは安らぎだと言う。纏うものを一切もたず、素のままの自分で、美しく大いなる彩雲を抱くことができたら・・。
 それは、短歌という営為を、全て落としきったのち、再び歌人として歩み始めたという著者の、はるかな願いではなかったのかと想像をめぐらした。 

 歌集中、風が通り、水が流れ、鳥が鳴き、草木のにおいがし、ひかりの動く里山の風景が、随所に散りばめられている。

夏草を刈りしひと日の夜の湯に射干のひとひら髪より落つる

  草いきれのなかで、一日中草刈りの作業をし、心地よい疲れとともに湯に浸かる。身繕いをかまわぬままだったので気がつかなかったが、髪に射干のはなびらがついたままだったのだ。
 
蹴り上げて泣いてゐたのはなぜだらうアカショウビンが木魂する夏
 
 自らの幼少期の記憶と読んだ。わけのわからぬことに腹を立て、足を蹴り上げて泣いていた。アカショウビンが、すすり泣くように聞こえる木立の下で‥。初句の、意表を突いた導入の仕方が印象深い。

地下水を使ふ暮らしのこの家はみづの匂ひがそここことする
 
 井戸水を使っての暮らしである。水道水ならカルキの臭いがするはずだが、そうではなくて、日本家屋独特の、木材が湿気を含んだような臭いだろうか。後のほうに次のような歌もある。

有線のくぐもるこゑが伝へ来るじあえんそさんすい次亜塩素酸水

 コロナ禍のなかで、除菌効果があるということで注目された次亜塩素酸水。地元の有線放送で、呪文のように流れたのであろう。健康を守るためのはずなのに不穏な空気を醸し出していることに違和感を感じた著者。  

縁側に坐つて居れば亡父(ちち)なのか山鳩なのかそつと来てゐる

 日本家屋には必ず縁側があって、雨戸を開け放ちそこに坐ると、風が通り抜け、自然が間近に感じられた。山鳩の鳴き声は、亡くなった父が隣に座って、ぽつりぽつりと話しかけてくれるようなのだ。
 
夕映えの風におもてと裏あらむ煌めきながらアキアカネくる

夕映えの遙かな声に呼びだされうつとりとゐるわれとくちなは

 夕映えの風が一枚の壮大なうすぎぬのようだ。そこから、アキアカネが、煌めきながら飛んでくる美しい映像が、眼前に広がる。
 二首目、夕映えという幻想的な風景の前では、誰もが言葉を失ってしまうのかもしれない。「くちなは」が相棒なのも、表記も、そうでしかないと思わせてくれる。

手に折れば茎がすぐさま黒くなるタカサブロウは気鬱の薬

前世に見てゐしやうな森の闇シイノトモシビタケの標識

 「タカサブロウ」も、「シイノトモシビタケ」も、その呼称が印象的で、どちらも実景なのだが、摩訶不思議な里山の入口に佇んだ気分になる。

 幻想的で、現実と非現実の狭間を揺蕩っているような作品に、好きな作品が多い。
 
夏至の夜は白磁の皿がうつくしい 予感にみちて月のぼる見ゆ

 歌集中、最も好きな作品。白昼夢を見ているような世界観がある。白磁の皿と、夏至のイメージ、予感にみちた月という表現も謎めいていて美しい。

火が問へば闇はじくじくと応じつつ神楽がつづく歳晩の夜

 歳晩の夜の神楽の様子。火が問い、闇が応えるという、火と闇のせめぎあいのような臨場感がある。荒ぶる火に対して、闇は、じくじくと鎮めていくという対比もおもしろい。

み仏はみなうつくしき指もてり指の先より月光が来る

 仏像については門外漢だが、弥勒菩薩の半跏思惟像などをイメージすると、とても美しい指先をしている。人々を救う方法を思索しているということだが、そこには月の光が宿り、現世を超越した力が生まれそうである。

ひとつ避けひとつ跨ぎて潦(にはたづみ)さびしい夢を見てしまひたる

 水たまりは、人生における難関であろう。試練として、それを飛び越えたり、避けたりしながら人は歳を重ねる。こうありたい、こうなりたいという夢を見ながら‥。

 社会詠も、目が離せない。

権力が捩じ伏せてゆく息遣ひ迫りてきこゆ黄砂の向かう

 ひと続きの空の向こうから、黄砂はやってきて、そこには常に不穏な空気が漂っている。権力というものの闇を見るようだ。

ひとつかみ山椒の実を漬けておくひそかな夏の火薬のやうに

 この作品も特に印象に残った作品だ。火薬というものを、日常の生活のなかで見ることは殆どないが、山椒の実がそうであると言われれば、平和とは、いつそれが反転するかもしれない危険をはらんでいるものだと思うのだ。

誤爆され炎上してゐる旅客機を画面にのこし夜空見てをり
 
 日常のなかで、こういう場面が多すぎる。悲惨な戦渦の場面であっても、スイッチさえ切れば、今の平和な現実に戻る。画面の向こう側で起こっていることは、フィクションではなく、確かに現実の日常であるのに・・。だから、それ故、映像の場面は、いつ何時、私達の日常となるかもしれないのだ。
 
百人の少女の爪の点検をなしたる夜のはなびら無尽

 教育者として、生徒の爪の点検をする。その行為に、むなしさや疑問を抱えているのかもしれない。仕事として、それを為し終えたあと、少女たちの爪のような花びらが降ってくる。自然のままの美しさとはかくも美しいのかという思いで、それを見つめる。

    最後に、亡くなった母の作品をあげる。

陽のなかを欅紅葉が土に散る母と別るるこの世の辻に

 あの世とこの世を隔てている辻、主体がかろうじてとどまっているこの世と、今まさに、あの世へと旅立つ母を隔てるように、欅紅葉が降りしきる。一枚の絵画を見ているような美しい構図だ。

痙攣が母を貫き終はるまで抱き留めてをり腕と其のいのち

 壮絶な場面だ。まさに断末魔のような母を抱きとめて、その命の終わりを共有している。肉親の最期を、このようなかたちで表現した歌に出逢ったことに息をのむ。

墓石には樗の花がわれよりも先に来てゐるうす紅いろに

 樗は、栴檀のこと。大仏の下に樗の花の数/虚子 をふまえているのか。「われよりも先に来てゐる」が、母の化身のように主体を待っているようでせつない。

覚め際のすこし冷たい左肩がしづかに亡母(はは)と話してゐたり

 歌集名となっている一首。亡くなってしまった人とは、なぜか真正面に話すことはないような気がする。血の気のないひんやりとした存在感が、生きている者の左肩というわずかな場所におりてくる。そこで、とつとつとしずかに語り続ける。夢のなかのことであったようにも思えるが、左肩には、たしかに母の気配が残されているのだ。

 一二〇〇首から、二九〇首を選び、歌集を編んだという著者。短歌に対する、著者の純粋で妥協をしないまっすぐな思いが伝わってくる。ひとりの読者として、その思いを尊敬の念をもって受け止めたいと思った。

小田桐夕歌集『ドッグイヤー』を読む

  著者は、『塔』誌上で、ずっとその作品の魅力を追い続けてきたひとりだ。今回、その作品世界に歌集として出逢い直せることを、とても嬉しく思っている。

 まず、最初に気づいたのは、オノマトペの巧みな使い方である。短い、小さな息づかいが音になったようなオノマトペが、一首のなかに、絶妙の位置に配されていて、それが作品の世界を一気に押し広げている感じだ。

ふり向かぬ背(せな)のしろさをのみこみてそののちつん、と真昼がにほふ

 視覚で捉えていた茫漠とした寂寥感が、「つん」で、嗅覚へと移る。「つんと」ではなく「つん」のあとの読点にも配慮がある。

半端ものはどこへ行つてもはんぱものかかとをゆつと持ち上げてみる

 重たい心情を抱えた身体を、それでも、ここで終わりたくないという思いで持ち上げる。「ゆつ」にねじれ感があってよい。

怒りからすこし角度をずらしをへすーんとみづを飲み込んでゐる

 怒りでヒートアップしてしまった身体を冷ますために、水を飲む。「すーん」が、怒りで斜めになった身体をまっすぐに立て直しながら、水が貫いてゆくようだ。

握りゐるペンを指からひきはがしペン立てにす、と直立させつ 

 ペンは、自らの内面をも文字にするための道具。思いの強さがあふれている時は、皮膚の一部のようだ。それを敢えて引き離すことによって、自分自身を静観する。「す」は、毅然としたたたずまいをイメージする。

厚みあるつぼみのつやをむつと割り石榴は花の鮮紅ひろぐ

 ぼってりと厚みのある固い殻のやうな蕾を押し広げ、石榴は花を開く。「むつ」は、その朱色の熱量を伝える。

ちぎられた和紙がそのまま花になり ふ、と舞ひあがりさうな白さよ

 映像として、そのまま立ち上がってきて、雅な風情を感じさせる。「ふ」が、一首を現代的にしている。

 ここからは、やや長いオノマトペの作品をひいてゆく。

しゆおしゆおとすすきがなびく秋の夜(よ)の原野におもひで手放しにきた

 「しゆおしゆお」がススキの乾いた質感を感じさせる。思い出を手放すということは、今まで積み重ねてきたものを無に返すということか。原野という場所が、自身の再生の地であるかのような描き方だ。芒の原は、蘇りの地、幽玄の世界だ。

塩うすくまとつたままに焼かれゆく天魚の尾鰭りりりと曲がる

 「りりり」がとても斬新だ。文字のかたちからくるイメージだけではない、焼かれるしかない天魚の身体にペーソスを感じる。

たちあふひ下から咲きゆくからくりの、ことりことりと記憶をたどる

 「からくり」がとても効いていて、この言葉があるから、からくり人形が「ことりことり」と記憶をたどってゆくような感覚になる。

欠けてゆく月と石鹸 ゆたかさは夜をふくみてふんはりと泡

 「月と石鹸」という異質で、はるかな隔たりをもつものが、幻想的につながった。副詞である「ふんはりと」が柔らかく、オノマトペのように感じた。夜の闇のやわらかさが、月までも包み込んでしまうようだ。

 オノマトペが効果的に使われている作品をあげただけで、ずいぶん、この歌集の作品世界が見えてくるような気がするが、以下、もう少し印象に残った作品をあげてみたい。

まぐかつぷかつんとふれてしまつたな、としかいひやうのない口づけだつた

 口以外は、すべてひらがな書き、それなのに硬質で冷え冷えとした印象を受けるのは何故だろう。「かつん」の響きが、ひらがな書きが、やわらかく優しいだけの印象ではないことを見せてくれた。上句の切り方、読点から、下句へのつなぎ方も巧み。

串刺しにまはりつづける馬たちのつやの瞳に映るひとびと

 回転木馬を、こんな切り口で表現する作品を初めて見た。瞳には、家族や恋人達の笑顔がさざめいているかもしれないが、その馬達のからだは、ずっと串刺しにされて回り続ける他ないのだ。

 著者は、いわゆる属性を語らない。深い悲しみやさびしさも、具体的なことは省かれて、身めぐりの素材に語らせる。だが、次のような作品には、比較的、著者の立ち位置が見え隠れして、歌集中の流れに変化を与えている。

行きたくてゆく故郷はあらず曇天の記憶をしぼるやうにすすむよ

 自らが、懐かしい、帰りたいと思って行く故郷はないと言う。それでも、行かねばならず、「曇天の記憶をしぼるやうに」向かっている。
からだに残っている故郷の記憶を、自らのからだを引き絞るように思い出しながら、という凄みがある。

おたがひをほどよく褒めるひとびとの口をはみだすうすぐろい舌

ほんたうをたぶんいへないあつまりに麩のかたどれる花を崩して

 集団の中にいても、何か違う、どこか違うという思いをもち、目の前の風景の後ろにあるものを見てしまう。自らのほんとうを見つめようとすればするほど、その違和感は、くっきりとしてくる。

 『no/not 』の一連は、生々しい陰影をもった私小説のように、歌集の終わり近くに置かれている。ここにきて、生身の身体をもつ著者の姿が迫ってきて、読者は息をのむ。 
 始終、背景に雪の降り続けているのもせつない。
 手紙でやりとりをする「あなた」にも、向きあってきた日々が確かにあった母にも、告げることなく、体内に「not」を残す決断をし、たったひとりで、その場に臨む。
 著者にとって、「no」と 「not」の違いは何だろうか。私は、同じ否定であっても、「no」は、まだこれから修復したり、軌道修正ができる可能性がある「no」、「not」は、全否定したことによって、その否定したと言う事実が、自らに残り続ける「not」のように読んだ。
 何れにしても、深く重い心の裡を、これほどの透明感をもって描き出されていることに感動する。

雪だるまとほい日向にまだあつてわが手袋を濡らしつづける

信じないわたしのことも受けいれて病院前のマリア様の像

体内にnotは残る これからの〈産める〉をぐるり、捨ててしまつた

似てるけどnoとnotはちがふこと 生きてるあひだnotは増える

下腹部の傷に触れたり薄れてもnotはいつもはじまりである


 歌集の最後におかれている一首。奥深くに持っている自らの考え、唇からふり絞って出てきた声、それは、必ずしもそのまま全く同じとは言えない。それでも、言葉にしたい。ずれていても、ゆがんでいても、わたしは、わたし自身の声で、言葉にしてゆきたい。詠うこと、そのもののように思える。

かんがへと唇(くち)と声とがずれてゐるそれでもいいからこゑをください

 

※思いの残る歌が多くて、評を書き切れなかった作品を残しておきます。

風のまま起きあがりゆく雲の峰 夏があなたを簡潔にする

沸点がたぶんことなるひととゐる紅さるすべりさるすべり

虫が翅ひろぐるときのふちどりのひかりのやうにかつて笑ひき

旅先にはんぶんおいてきたのだらう切つた林檎のやうに心を

みづを吸ふやうにここを出て行きたい印字すくなきレシートを捨つ

ゆびさきに感じる乾きははりはりと君のこころの曲がつたところ

まばゆさと光はちがふ 見てゐしは驟雨のなかをむきだしの幹

組み立てる、対ふ、打ち消す、押す、割れる、鳴る、潰しあふ、組織と人は

ひらかるる日までひかりを知らざれば本のふかみに栞紐落つ

右足に鉄を踏みたり暮らしにはをりをり渡る踏切がある

ゆびさきにふれるものゆびさきがつくるものゆびさきがえらびとるもの

このからだ、まるごと汚してゑがきたい花粉(ボラン)にまみれる虫のごとくに

あけがたの蟬のこゑ聴くこのこゑのいくつがけふにをはるのだらう

にはたづみ ひらかるることばの庭のまんなかにいまからでもおいでよ

 

 

 

東野登美子歌集『ひすとりい』を読む

 著者、東野登美子さんにお会いしたことはない。偶然、お名前を知る機会があって、私からお願いして、歌集『ひすとりい』を送っていただいた。
 まず、『ひすとりい』という、歌集名に注目した。歴史に造詣が深く、その教師をされ、今も勉強をされている著者。あと書きには、「何よりも、私たちひとりひとりが、歴史的存在であること」と書かれている。あえて、ひらがな書きとしたことについては触れていないが、歌集を読み進めるにつれ、私は、アルファベットでも、カタカナでもない、『ひすとりい』というひらがな書きが似合う歌集だと確信した。

木星の第一衛星イオにある火山の噴火みたいな報道

数万年の眠りのなかの断層の真上で話す 業(カルマ)について

アテナイに怠惰の罪あり罰則は死刑!と赤く黒板に書く

 歴史に纏わる作品を、三首選んだ。

 一首目、結句の「報道」に掛かっている背景が、すさまじく壮大なスケールで、読者はたじろいでしまう。それでも、昨今の人間性をはるかに逸脱したような事件が頻発すると、なんとなく共感してしまう。

 二首目、こちらも、途方もない歴史の厚みを思わせる作品。人間の業というものも、歴史を積み重ねてきたのと同じように、地層どころではない繰り返しのなかで、積み重ねられてきたのだという思い。 

 三首目、「アテナイ」は、ギリシャ共和国アテネ」の古名ということ。人口の半数近くの奴隷がいて、酷使されたようだ。「アテナイ」は当ての無いに通じて、奴隷として生まれた者の、終わりの無い労働を思わせる。「死刑!と赤く黒板に書く」が視覚からも刺激的だ。

 歌集中、登場人物は、祖父母、実母、夫、そして娘である。

正月もお盆も休まん店やから国鉄みたい!と言われたお店

掌(て)の傷のわけを話さぬ祖父は杣(そま)、農民、そして兵士であった。

 祖父母は、「カトウ商店」というパン屋を営んでいたようだ。苦しい戦中、戦後の昭和の時代を、働くことで生き抜いた人達だ。「正月もお盆も休まん店」が、その生き様を物語っている。なるほど、「国鉄」は、三百六十五日、休みがない。

なきぬれてわれなきぬれてと呟いて昭和のパンを売っていた母

夜をひとりかもねん歌などつまらんとふっふっふうっと笑う母さん

   石川啄木や、藤原定家の歌を日常に諳んじながら、しかも、自らの生活に明るく重ねながら、忙しい日々をおくっていた母親像。著者が短歌を詠むようになったルーツが、此処にあると思う。
 
母がまだ少女期であった頃のこと「負けるってことは死ぬことだった」

いっ子ちゃんとジャンケンすると笑うから負けるってことは死ぬことじゃない

 負けるということの、両極を表出した二首。戦時下の「負ける」は、「死ぬ」と同じ意味を持っていた。しかし、にらめっこで負けるというのは、笑ってしまうこと。子どもの気づきとして表現された二首目によって、著者も読者も未来へのひかりを感じることができる。

「げんきかな」ただそれだけのひらがなを打ちいる指はしわしわだろう

ありきたりだけれど泣いてくれるからなんどでも言う「生まれてよかった」

 一首目、老いた母が送ってくるメールは、字を覚え始めた子どものようにたどたどしいが、純粋で素朴で、だからこそ心に響く。
 二首目、老いて幼い子どものようになってゆく母だから、娘として、こちらも素直に思いを伝えることができる。「生まれてよかった」という言葉以上の感謝の言葉が他にあるだろうか。


裁ち鋏たんと磨いて古そうな夫の肌着で試す切れ味

寄り道のカフェ一杯で香り立つ女になって ただいまあなた

濡れ落ち葉の見えるところに腰かけてふたりで食べているララクラッシュ

 一首目、この一首だけ取り出すと、サスペンスドラマのような怖さを醸し出しているが、二首目、三首目によって救われる。帰宅するまでに、外での様々な確執や喧噪を脱ぎ捨て、自らを軌道修正しようとする試み。ささやかな試みだが、著者の前向きな姿勢が伝わってくる。
 三首目、「濡れ落ち葉」は、実景ともとれるし、いわゆる「濡れ落ち葉症候群」的な意味合いもあると思う。「濡れ落ち葉症候群」が間近に見えるような距離感の夫婦だけれど、そこまでにはならない。意表をつく結句「ララクラッシュ」が、鮮やかで若々しい。

 登場人物の核となっているのは娘である。作品数も、圧倒的に多い。

もし君をたまごで産んでいたのなら食べていたかもしれぬ親鳥

   この圧倒的な表現に、読者は息を吞む。そして、この究極とも思える表現に至る著者の思いを、次のような作品から知ることになる。

障害を持つ子を産むなという識者 生まれてそして生きている娘よ

咲いたけどあまり褒めてもらえないペンペン草はランより強し

健やかに生かしてください吾の子も「おかねのけいさんはできません」

 障害を持って生まれてきたわが子へ、母としての、ただただ純粋な、生きて欲しいという思い。歌に、何の技巧も修辞もいらない。 

テグレトール限界までの処方にてきみにあらわるモナリザの笑み

リスパダール液体(不穏の時)とある。世界はこのごろ常常ふおん

 専門的なことは解らないが、どちらも、精神的に不穏な状態の際に処方される薬剤と思われる。一首目、謎めいていると言われるモナリザの微笑み、その本当の心の内は、当該の本人にしか理解し得ない。卵であれば、親鳥として、それを食べてしまうことは可能であるが、人格をもったひとりの人間に対してはそれもできない。障害をもっていようがいまいが、親と子であっても、ひとりとひとりの距離は、時に果てしなく遠いという思いに至る。
 二首目、ひと一人の不穏な状態よりも、世界ははるかに不穏であると思う。その不穏な状態が、ひとりひとりを不穏にさせて、他者を大らかに受け入れることをできなくさせている気がする。 

表現できぬ思いに苛立っているきみの そやけどなそやけどなそやけど

永遠に迎えに行けぬときがくる 来てくれないのと?と訊けないきみを
 
 子を見守り、支えることができなくなってしまう時のことを思う。自らで、自らの危うさを伝えられない子であれば尚更。痛切である。

 
 穏やかで、端正な表現でありながら、著者の視点、切り口は鋭い。最後に、その断面をあげてみたいと思う。

ほほえみを浮かべるように人を見て並んで貰う冷凍の魚

 動物園での様子。人間に対して、媚びているわけでもないのに、そのように見えるのは、著者の心象の反映だろう。そして、与えられるのは、生ではない冷凍の魚。動物も、人間もどこかさびしい。

リボンのような水草のせて浮遊するミズカマキリも肉食だという

 やわらかな流れの上句に対して、あの糸のようなミズカマキリがという結句にドキリとさせられる。

もう駄目だほんとにダメだが「忍忍」と呟くアニメの忍者を見ていた

 もう精神的に限界だという状態になって、それでもまだ、テレビ画面に「忍忍」とあっけらかんと言われてしまう。足をすくわれたようで、一瞬心のもっていきどころが無くなってしまうという場面。意外と、こんな状況はある。

家じゅうの食器を割りたいとりあえずペットボトルをペシャンコにする

 破壊願望というのであろうか。ほんとうは、何もかも毀してしまいたいのに、他への影響の無いペットボトルから手始めに。家じゅうの食器なんて、到底できない自分自身であることを知っているのも自分なのだ。

スズランを引き抜かれたるような日が暮れてスズランの毒を思いき 

 可憐で、ひ弱そうに見えるスズラン、その根や花には、最悪、死に至らしめるような毒があるという。「引き抜かれたるような日が暮れて」によって、誰かが誰かを死に追いやろうとしたのではないかということまで想像させて、迫力のある歌である。

停車場に降りてしばらく風を待つヤンマに光が刺さっている

 この作品も、結句が印象深い。「光が射す」とはいうが、その光が「刺さっている」という表現はあまり見たことがない。光に貫かれたヤンマの未来を想像してしまう。
 
夕雲の光るところを切り取ってともし火にするところで会おう

 歌集『ひすとりい』の最後におかれた一首。

 痛切な思いが編まれた歌集であった。抗えない今を抱えながら、それでも、灯火をかざして生きていこうという決意の表白された一首であると思う。