ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

溝川清久歌集『艸径』を読む

冬生まれだからだろうか、冬の空気が好きだ。
幼い頃、薪を集めるために山に入った。
陽のあたらない木陰の湿った土の匂いや、ふかふかとした枯葉の嵩を足裏に
感じながら歩くのが好きだった。
せせらぎというにはさびしい水音や、鳥の声、さざ波のような風の音も
聞こえてきた。
きいんと張りつめた空気の中で、体中が冬の空気になってしまったような
怖いような、潔い心地よさがあった。

溝川清久 『艸径』を読んで、そんな感触が鮮やかに甦ってきたのである。

「静謐」という言葉があまりにも似合う歌集である。
私事、歌をつくる際、誰も詠わなかったものを、刺激のあるものを、華の
あるものを・・などにとらわれて、自らに静かに深く向きあうこと、身め
ぐりのかそけきものへ五感を研ぎ澄まして向きあうというシンプルだけれど
もっとも難しいことを忘れていたことに、この歌集は気付かせてくれた。

読み進めてゆき、一首一首立ち止まりながら、どれほどの数の作品を
書き写しただろう。


作者は、絵を描く人のようである。数多くの草花に静かに向きあいその息
づかいを丁寧に描かれているのだろう。草木花へのまなざしが深くて優しい。
そして、どこか寂しい。

川上へ真白き雲の移りゐつ草にも樹にもなれず帰り来

どれほど、草や樹を描き、草や樹に癒やされたとしても、私たちは人として
ここに存在するのだから、人として全うしたいと希うのだ。

ひと消えし地球のやうな苔の上に実生のかへで植ゑ了はりたり

すこし湿り気を帯びた苔の上は、悠久の時が流れているような、過去も未来も
なくただ静かな時が存在するような、「ひと消えし地球のやうな」に引き込ま
れてゆく。

逆光に火伏せの銀杏散る下を身ぬちしづけくなりて過ぎたり

銀杏の木は、大火をを防ぐ役割をするという。身の裡に滾るものをもちながら
樹下をゆくと、その思いを宥め沈静化してくれるのかもしれない。
逆光のなかの銀杏、火伏せなどのイメージが絵画的である。

しら梅の散りはじめたる水ぎはに失ふ日日を春と呼びをり

春とは失うものの多い季節だということに気付いた。花々が一斉に咲くという
ことは、それらがすべて散っていくということなのだ。
人々の日常も同じ、失うことによって季節のうつろいを知ることがある。

 

君のこゑが雪と言ひたり覚めやらぬままになづきの仄か明るむ

雪の日の朝は、限りなく静かだ。まだ半分眠りの中にいて、その雪の気配を
額だけで感じとっている。この世界観がたまらく好きだ。

いまだ知らぬわれへと還るしづけさに雪の融けつつ樋をつたひをり

この静かさも好きだ。雪が融けて樋を伝う音だけしか聞こえない、そんな
独りの時間、世界に自分だけ取り残されたような・・。今まで知らなかった
新しい自分に出会えるような・・。

ほんたうに楽しかつたね秋の日をひと生のごとく言ひつつ帰る

幼い子どものように、一日の楽しかったことを素直に口に出してみる、それが
まるで一生分のように。屈託無くそう言えることが素敵だ。

さびしさの端をゆつくり折るやうにゆりかもめ飛ぶけさの川の上

ゆりかもめが方向転換して飛ぶ様子だろうか。「さびしさの端をゆつくり折る
やうに」という心象表現がたまらく魅力的だ。

空薫の香のけむりの見えながら桜咲く日の遅きを言えり

空薫(そらだき)は、昔ながらのお香のたき方のようだ。言葉を削ぎ切って
それでも、その場の状景と季節感、かぎりない静けさを感じとることができる。

破れ来たる広辞苑第四版を淡きみどりの花布支ふ

花布(はなぎれ)は、本製本の中身の背の上下両端に貼り付けた布のこと。
破れるほどに使い込まれた広辞苑の大いなる姿をかろうじて支えているのは、
淡いみどりの花布だということに気づき畏敬にも似た思いを持ったのだろうか。


作者には太平洋戦争で早世した二人の伯父がいると言う。

伯父の墓にあをき蛙のひそみをり陸軍伍長の長の字のなか

誰の墓も竹の枯葉の降るなかにおのが高さの影を持ちをり

戦時下に生きたというだけで、その命を枯葉のように燃やしてしまった
おびただしい数の人々、ひとりひとりにかけがえのない生きた証があった
はずだが、今は、墓標となってそれぞれの影を落とすのみである。

インパールとレイテに果てし二人ののちわが係累に戦死者をらず

言い切りの結句が、これからも平和であり続けてほしいと願う切なる思いが
込められている。

「本歌集を編みながらこうした世になき人たちが生きた時間をも歩みなおして
いると思った。時代を超えて折々に出会った人びとによって日日のどこかを
支えられて来たのであろう。」

あとがきに、作者の思いを知ることが出来る。


父の字に電球とある小箱よりグローランプを出だし取り替ふ

三針の柱時計を掛けありき父の打ちたる釘のみ残る

父を詠った歌二首、どちらもさりげない日々の生活のなかで、見過ごして
しまいそうな素材をあたたかなまなざしで掬いとっていると思う。
グローランプは、忘れるくらい長い間にしか取り替えないし、三針の時計も
すでに過去のものとなってしまった。


ところどころにおかれている子どもへの歌。子どもの具体的な表現は皆無
だが、子どもに繋がる素材が淡々としていて切なくなる。母性とは異なる
父性というものを垣間見た気がした。

子の文字で「なにかのたね」と書かれありバウムクーヘンの箱のおもてに

花描くは蕩尽に似む春の草を子への短き文に添へしが

離るとも父でゐるなり草の上を覆ひし雪のはだらに融くる

うへの子が小学校から使ひ来し机に春まだき朝刊ひろぐ

さくら花仰ぐなく子の発ちゆけりサドルを元の高さに戻す

球根から花までを見たる半年に幾たびも子の土産と言ひき


最後に、

周辺をたゆまず描けばおのづから主題際立ち来ぬと画家言ふ

描くとは自己を表はすことならず梅雨の日おのが置き場をさがす

一首目は、歌集の最初の方、二首目は、最後の方におかれている。
作者が、絵を描くなかで、そして深く描こうとするなかで、自らに顕れて
きた心の変化なのかもしれない。