一冊を通して、作品に勢いを感じた。それは、他者を威圧するような勢いというのではなく、ポップコーンがはじけるようなカラッとした軽やかな勢いのなのだ。まっすぐに、素直に、それは読者の心に響いてくる。
まず、序章として、そして後半の折々に詠われているのは、職場詠である。
グリーンとだけ呼ばれてる受付のグリーン三つに水を与える
自らも、組織のなかでは、このように総称や、役職として認識されているのだろうという思い、自らを「グリーン」に投影している。「水を与える」という動作によって思いが伝わる。
もうあいつ辞めさせろという声響く向かいで書類の端を合わせる
他者(おそらく同僚)の失態に対して、本人がいないところで、その処遇について、軽口として話題となる。よくある場面かもしれない。しかし、その「辞めさせる」という言葉のもつ深い意味を思い巡らしながら、間近に聞いていることしかできない。この一首も結句の寡黙な動作の表現が効いている。
人件費浮いた分だけ部長たち優しくなりて小糠雨降る
代わりなら幾らでもいて赤々と脚入れかえてゆくフラミンゴ
先輩もOutlookも設定をやり直されて対策が済む
一首目、いわゆる首切りを何人かしたことによって、経営が楽になるということだろうか。そのポストに就いていた仕事は誰がするのだろうか。短絡的な発想を諦念をもって見ている。
二首目、三首目、組織の一員として駒のように動かされてゆく日常、「フラミンゴの脚」や、PCのシステムの設定の具体がよい。
「前にも言いましたけど」の口癖が浅瀬で方位を失くしたままだ
「前にも言いましたけど」という口癖で、部下を指導?!しているのを、日常として聞いている。この言葉は、仕事上、功を奏しているとは思えない。深く、部下の心に届くこともなく、発した言葉が浅いところで行き場をなくしている感じ、言葉を発している人を揶揄しながらも、どこか哀れみのまなざしも感じる。
キーワード打ち込む両手ベンチから守備位置へ散る球児みたいに
残業のデスクに明かりを足すようなグレープフルーツジュースの湖面
職場での、ゆきどころのない怒りや疑問、哀しみも、作者は声高に詠もうはしない。感情も強く出さない。淡々と、さらっとそこにおいてみせるだけ、それだからこそ、読者は、そこから深い背景をたどることになるのである。
もうひとつは、冒頭に書いたように、根っからのからっとしたポップコーン的な明るさがあるのかもしれない。
それは、上掲の二首のような作品から窺うことができる。
ただ、前向き、行動的でありながらも、長いスパンのなかで、少しづつ少しづつ、澱のように溜まってくる疲労感もある。それが次のような作品だ。
石膏のピエタみたいに湯に浸かる婚活っていう略語の致死量
「石膏のピエタ」が絶妙で、心も体も疲れ切った主体を最大限に表現している。
角形2号ポストの底へ突っ込んでこのまま終われないことばかり
「角形2号」だから、簡単な書類ではないし、折りたたむことができないものなのかもしれない。能動的な行為のなかにも、将来への不安感を感じる。
月食が起きる頻度でよいのです よくやったなって言って撫でてよ
頑張っている、自分は頑張っている、誰かのために頑張っているのではないけれど、その頑張りを、一言でいいから褒めてほしいと思うことがある。「月食が起きる頻度」って、欲がなさ過ぎると思うけれど、それほど、だからこそ、「よくやったな」が尊い言葉のように思えてくるのだ。
父母に関わる作品にも眼が離せない。
吾の中の湖が今日は深いのだ実家の親はますます老いる
老いてゆく親をつぶさに見るのはつらい。離れて暮らしていて、ひさしぶりに会ったときなど、その老いの加速度的な速さに唖然としてしまうのだ。
胃に肺に土足で踏み込む母がいてそこにマティスの絵などを飾る
親というのは、他人のように、距離をおきながらとか、言葉を選んでとかをしない。直球で思いを伝えてくる。頭のなかでは、こういうものだと理解しながらも、感情は許さない。「マティスの絵」は、赤が印象的である。血縁といものに、衝立を立てるように置くのだろうか。
別々の準急に乗っているようにパラレルのまま母さん、またね
会って直接話をしても、わかり合えないという思い。さびしいというよりも、そういうものなのだという明確な認識を、パラレルワールドとして捉えた。でも、「またね」なのだ。
安置室へ向かう車が真夜中のアンダーパスを潜ったままだ
「肺が溶けたせいです」母は淡々と呪いのごとき喪主挨拶を
父の死に関わる二首。
アンダーパスを潜ったまま、這い上がれない車。父の亡骸を、安置室へ運ぶまでの闇のような時間。「アンダーパス」が絶妙だ。
二首目、喪主挨拶で、「肺が溶けたせいです」と言わしめた、父と母との推しはかることのできない長い時間。どんな確執があり、どんなやりとりをして過ごしてきたのだろうか。「淡々と呪いのごとき」と表現しているのだから、主体は、当然その一端を把握しているのだけれど、父に対しても母に対しても、主体とは別の人格として静観している毅然とした主体の生き方を感じさせる。
霧雨が胸を犯して降る午後にいなければいい人を数える
不浄と引けば月経と出る大辞林 葉陰に深く腕を浸した
がむしゃらに自分が嫌い五十枚一気につらぬく穴あけパンチ
冒頭に、明るいポップコーンがはじけるような勢いと書いたが、上掲の呪いのような作品も見逃せない。
一首目、「いなければいい人」を数えるという。自ら手を下して排除しようとするとかではなく、身めぐりの相関関係を冷静に見直してみるという感じだろうか。それにしても、上句が不穏だ。
二首目、上句が、ドキッとさせられる。それは、過去の慣習からきているものだとしてもだ。
三首目、勢いと迫力がある。他者には、冷静であったはずなのに、自分自身に向けられるものは、感情も激しい。
さて、最後に、どうしても、パートナーについての作品をはずすことはできない。「石膏のピエタみたいに湯に浸かる婚活っていう略語の致死量」という歌があり、結婚というかたちについても、何か自分の中で様々な葛藤のあったことが窺われる。
そのようななかで、パートナーに心を添わせてゆく過程が、作品として表現される。
体温を忘れあってはそれぞれに流れる川の右岸で暮らす
捨ててゆく机を一度撫でてから左岸の部屋へ移り住む朝
川はもうよそよそしい顔 越してゆく私に橋を渡らせながら
パートナーとは、川の右岸と左岸で暮らしていることがわかる。それぞれの、これまでの生活、生き方を認め合いながら、川を越えて共に
生きていこうとする様子が、まるで、但馬皇女が、「いまだ渡らぬ朝川渡る」と詠んだような決意を思わせて趣深い。
一体になってしまうこと恐ろしいフクロウ闇に眼をみひらけり
植物のような交わり責めもせず新しい日を生きだす君は
バイバイっていつか言う日が来るまでの君であり空であって窓辺だ
何も迷わず、ただ好きということだけで突っ走れる年齢を過ぎてしまったということだろうか、性愛についても、どこか臆病である。フクロウは、そんな主体の奥深くまで見透かすように眼を見開いている。
二首目、「動物的」の対義語となっている「植物」、草食動物をイメージして、本能的な荒々しさのない感じとして読んだ。穏やかな信頼感のなかで、新しい生活が始まったことを示唆している。
歌壇賞の「空であって窓辺」からの一首。既成観念や、他者の偏見にとらわれず、自らの思いによって、パートナーとの日々を編んでいこうという決意、パートナーの存在感、が端的に表現されていて心地よく読者に届く。
「空であって窓辺」は、歌集『ネクタリン』をぎゅっと凝縮したような一連だ。そこから、印象に残った作品をあげておく。
空であって窓辺
キッチンにスタッカートが溢れ出し朝の器へ落ちるシリアル
球場に差しかかるとき右翼手が両手を上げる瞬間だった
もう君がいないと不安 川べりに本読みにゆく背を見送って
母はもうお金を認識できなくてエッジの効いた自由を暮らす
「仲良くはないです」と言い 違うと気づく 雨は西から追いついてくる
嫌いって言い切れたなら渡りゆくアサギマダラの光の浪費
お互いのために、いえ、私のために車窓は母を置き去りにする
バイバイっていつか言う日が来るまでの君であり空であって窓辺だ
歌集『ネクタリン』、作者の来し方と現在までを、その場に居合わせたような感覚で、感情の一端を共有しながら読み進めてきた。私にとっては、何の拒絶反応もなく、すっと入っていけて、その表現方法に感動する場面がたくさんある歌集だった。
毎日を二人で暮らす靴下を片方取り違えたりしながら
先のことではない、今、この日常、それが一番だいじだと思います。