ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

光野律子歌集『ミントコンディション』を読む

 鳥の羽をモチーフにした美しい装幀である。「かりん」所属の光野律子の第一歌集、『ミントコンディション』とは、「新品同様」という意味らしい。古物取引の場で使われる用語ということで、画廊のバックヤードに三十五年近く勤めたという著者ならではのタイトルである。
 ペパーミント色の付箋をつけながら読み進めた。

 まず、私の地元和歌山にまつわる作品が、ところどころにおかれていることに注目した。父母の出身地が和歌山であり、短い期間ではあるが和歌山の地に過ごしたことを後に知った。

亜米利加まで一万哩(マイル)の木の札の向こうに円き水平線見ゆ

 和歌山県日高郡美浜町には、明治時代に多くの若者が太平洋を渡り、カナダと行き来をしていた「アメリカ村」という地区がある。美しい海が近くにあり、まさに遠い異国へ夢を馳せる場所であったと思われる。
 以下、今も故郷として、和歌山の風景を懐かしく心にとどめていることがわかる作品をあげておく。
  
ふるさとの牟婁の浜辺に真珠採りの翁らの居て煙草のけむり

神様が最初に生んだおのころ島の春霞に浮く紀淡海峡

亡き父の故郷あたり機上よりクライン・ブルーの海底見ゆる

  1977年和歌山県有田市で集団コレラが発生。

水無月の追憶の村にコレラ事件ありたり蜜柑の花の香充ちて

ふるさとの母より届く和歌浦の冬波の音よ初電話にて

 『ミントコンディション』は、非常にカタカナ表記の作品が多い歌集である。画廊のバックヤードとして、海外の絵画に触れるという日常を過ごしてきたことが影響しているのか。あるいは、クリスチャンとしての生活様式からくるものなのか。 
 カタカナ表記が散りばめられた世界は、遠く異国とつながっていて、日常生活の何でもない所作を幻想的な世界へと誘う。 

メシアンのピアノ聴こえて小鳥くる春嵐止む朝のベランダ

防風林幾つも超えてライマンの唯唯白き油彩を観に行く

メシアン」は作曲家、「ライマン」は、ジャズミュージシャンから転向した画家。正方形の画面に白い色を塗った抽象画を描くという。それぞれの人物の知識がなくても、それらが醸し出す情緒は、著者の立ち位置が日本であることを忘れそうだ。

お御堂の聖水盤は塞がれつそれでも口に入れるホスチア

 祈りの道具である聖水盤が塞がれている。コロナ禍の影響だろうか。それでも、聖別用に用いられるという円形のパンは口にする。「いけにえの供え物」という意味があるらしい。「ホスチア」という音がいい。 

マラルメの半獣神(バン)を語れる老いびとの長電話受く留守居の画廊

 「マラルメ」はフランスの詩人。難解な講釈を延々と続ける老人に、やや困惑している様子が描かれる。「マラルメの半獣神(バン)」がやはり、現実を浮遊している空気感を持つ。 

行き掛けに食みたるクレープ・シュゼットのリキュール回る面談のさなか

亡き人を偲びて飲めるカルヴァドス万聖節の夜は更けゆくも 

「あと少し生きればいいからいいじゃないですか」非正規雇用女子モヒート飲み干す

ほろ苦きチョウセンアザミのリキュールが胃の腑にしみるさよならのあと

 お酒や、お菓子の名前がカタカナ表記で、効果的に配され、洗練された雰囲気が伝わってくる作品群だ。 

くちびるの端がもうずっと切れている クレタに行くべしカンカン帽で

 初句の入り方にどきっとさせられる。何故クレタ島なのか。しかもカンカン帽で。初句の、やや自虐的な様相から、鬱的な心象を読み取る。それでも、カンカン帽をかぶって地中海のあかるい陽光がふりそそぐクレタ島へ行くべきだと宣言している著者に、あっけらかんとした希望を感じるのだ。

ピアノ科を諦めた日のヘンレ版はひときわくすんだブルーブラック

 「ヘンレ版」は音楽、特にピアノを志す者にとっては、必須アイテムのようだ。そして、その進路を自らの意思で断つと決めた日。「ヘンレ版」は心象風景を染めているようなブルーブラックだったのだ。
 
競売のカタログに見る謎の言葉「ミントな状態」のキャンベルスープ

 これは、アンディ・ウォーホルの「キャンベルスープの缶」の絵画のことだろう。ここで、歌集名「ミントコンディション」への伏線が張られていることになる。

 こうして見ていくと、ほんとうにカタカナ表記の言葉が入っていない作品は探すのが難しいほどである。門外漢である分野も多く、読み解くのに苦労するところもあったが、それでも読解以前に、音的なものに惹かれたり、醸し出す世界観に惹かれたりして、引き込まれる作品が数多くあった。
 逆に、歌集後半は、心なしか、カタカナ表記が少ないような印象だ。

革命とう名のスナックの扉開き小鉢並べる痩せ男見ゆ

 「革命」という、衝撃的な店名とは裏腹に、痩せた男が小鉢を並べている。その対照的な様子を、扉が開かれた束の間のぞき見ている。ハマスホイの絵画に見るような構図と色調を思い浮かべる。

手のひらにおさまるほどの米研げばしゃらしゃら軽き音の夕暮れ
 
 日々の暮らしの様子が、しゃらしゃらという乾いた音とともにさびしく伝わってくる。

喝!という導師の怒号に送られて父は彼の世に旅立ちたまう

 クリスチャンである著者が、仏教の習わしによって父を送る場面。宗教の違いを静観するのみの主体。不謹慎だが、どこかおかしみもある。

神無月打たれてたことに気づきたり打たれ強いと友に言われて

 自らのなかでは、試練に打ちのめされたという意識はなかったのに、親しい友だちが「打たれ強い」と評した。それによって、私は打たれていたのかと思う。物事にポジティブに立ち向かう作者の一面を垣間見ることができる。「神無月」と「打たれる」も響き合って宗教的な趣もある。
 
ことり図鑑小川流るるこの町に越して最初に購いしもの

こんなにも地面に近く咲いている拝領行列のよう洎夫藍

 終の棲家かと思われる土地へ移り住んだときの作品。いちばん最初に買ったものが「ことり図鑑」というのが、その住居の周辺の風景や、著者のこれからの生き方を想像させる。  
 洎夫藍(サフラン)が地を這うように並んで咲いている。ミサのために入堂するときの行列のようであるという捉え方が、著者ならではで印象的だ。 

月のさす螺旋階段世紀末パリ彷徨いて神田川べり

三四郎が道に迷いし柏木の停車場辺りと夫は言いけり

どの駅も坂の上なり摺鉢の底に暮らしてなかなか愉快

 一首目も、二首目も、神田川べりに移り住んだ折の作品。著者は、来し方を思い感慨深く思っているのに対し、夫は、夏目漱石の小説『三四郎』の主人公が、道に迷ったあたりと言っていて、その対比が実におもしろい。
 三首目、結句が、移り住んだ土地に愛着を持ち、そこでの暮らしを心底楽しんでいこうという思いが伝わってきてあかるい。

 『ミントコンディション』、画廊のバックヤードに生業をおいていた著者ということに、非常に興味を持った。絵画のもつ魅力と、著者の生き様が響き合って、今まで出逢ったことのない世界観を味わうことができた一冊だった。その生業を断たれ、「ミントな状態」で、再び立ち上がろうとする著者の姿に共感したり、励まされたりしながら、共に半生を生きたような思いに頁を閉じた。