ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

大引幾子歌集『クジラを連れて』を読む

 著者は、大学四年(1980年)に塔短歌会に入会したと、あとがきにある。歌集『クジラを連れて』は、長く短歌を詠み続けた著者の二十代から四十代半ばの作品を収めているという。

〈ふれあふ〉と書くときスカートたつぷりと裾ひるがえるような〈ふ〉の文字

〈ゆふがほ〉とう仮名文字ほぐれゆく宵を何に憑かれて梳(けず)るわが髪

ふんわりと雪のごとくに降りて来るこの薄闇を払わずにいる

 歌集の前半は、上掲のような、柔らかく、それでいて心の内に迸る若々しい感性が自在に表現されている作品が、息を継ぐ間もないほど並べられている。このような作品群を目の当たりにすると、長い歌づくりの時代を経て、どれほど多くの歌が生まれたのだろうと想像した。そして、この歌集には掲載されなかった歌の、計り知れないほどの数を思った。


もし我におみなごあらば火のごとき麦秋のなかを歩み来たれよ

 主体は、女の子を産んではいないのだ。もし、自らと同じ性の子どもを産んでいたならば、自らの血を受け継ぎ、この晩夏光のなか、どれほどの一生を歩み始めるのだろうかという思い、そんな読みをした。

便箋の静脈透けて舞い落ちる間も底知れぬ夜への投函

 「便箋の静脈」とは、便箋の罫線ともとれるし、主体の血流そのもの、しかも動脈よりも外界により近い場所で息づいている存在。秋の夜、自らの思いを込めた手紙を書いている。木々が次々と落葉していくかのように、その思いを一心にしたためている。結句は、落葉のイメージとポストに投函する様が重なっているが、「夜への投函」なので、思いだけが闇へ吸い込まれてゆくようなさびしさがある。

「冬薔薇」の一連、七首。

 切迫した時間の詞書から、わずか七首の連作でありながら、短編小説を読み終えたような緊迫感と広がりを感じる。逢うことを禁じられているのか、あるいは予断を許さないような父の病状なのだろうか。それでも、わずかなひとときの逢瀬を望み、仙台までを往復するひと日。

 18時 そろそろ駅へ向かわないと

ことばさえ吹きちぎられて君と佇つ冬薔薇ひらき初むと告げても

 
  出産に纏わる作品が、実に生き生きとして瑞々しい。

髪染まるほどのみどりを浴びて泣けわが産み終えしばかりのいのち

ポプラ葉を風梳きてゆく黎明に目醒むれば夢のごとく吾子いて

はつ夏のひかりの底に子を抱けば吾子は雫のごとき果実よ

まはだかにしてかき抱くひとり子のパセリ畑に植えたい匂い

 初めての子を得たときの、畏れにも似た感動が、瑞々しい植物や果物に言葉寄せされていて、胸に迫ってくる。
 特に、四首目、真裸のわが子を、「パセリ畑に植えたい匂い」という、意表を突いた表現が印象的だ。乳のにおいの野性的な感覚、大地から命を与えられたような感動、ないまぜの喜びが溢れ出している感じだ。

びょうびょうとわれの在り処も見失う風中おまえが鳴らす草笛

木蓮しろきまぶたを閉じる頃吾子も眠りへゆらりとかしぐ

みどりごはつかのまの風さやさやと吾を発ちてゆく風の後姿(うしろで)

母である過剰に疲れいし日々の蹠(あうら)ひりひり踏みゆける砂

   子育ては忙しい日々のなかで、潤いをもたらしてくれるが、仕事と両立していくためには、時間との闘いという側面もある。
 一首目、子どもを野に遊ばせながら、子も自分も、そのつながりも果てしなく遠いもののように感じられる。
 四首目、母として、母ならば、母らしく、母であることを完璧にこなそうという使命感にも似た気持ち、それらに疲れて立ち止まるとき、足裏から、ひりひりとしたものが伝わってくるのだ。
銀杏樹(いちょうじゅ)はしんと炎えたつ感情という過剰なるものを脱ぎ捨て

 もうひとつ、「過剰」という表現を用いた作品がある。著者は、突き進んでしまって、自分を見失ったときに、自らを俯瞰するように、短歌をつくってきたのではないかと思う。


 後半は、学校現場の過酷な状況を詠んだ作品が多く、抑制された表現で、実景を臨場感いっぱいに伝えている。

授業半ばにやりと教室に現れるギブスの両腕ぶらんと下げて

いっしんにノート取りいし切れ長の目はもう青い風を見ている

放課後に座れば硬き椅子である一日(ひとひ)と三年どちらが長い

少女とは楽器であるか片脚を立てて銀色のペディキュアを塗る

 どれも、教師としての日常を詠んでいるのだが、切り取り方が実に巧みである。「ギブスの両腕」「切れ長の目」「硬き椅子」「片脚を立てて」、それらに収束してゆく著者の視点が、おしつけがましくない愛にあふれている。

(死にたい)と(死ぬ)のはるかな隔たりをふいと跨いでしまいぬ君は

退学者欄にひっそり加えらる事故死も自死もただ一行に

 教師として何よりも辛い、生徒の死、感情を抑えて表現された作品は、何処にぶつけていいのかわからない悲しみと怒りが、主体のなかで渦巻いているが、それでも、敢えてひっそりと詠う。

激高ははるか火傷のごとくにも我を苛み深夜に及ぶ

潰されずに生きねばならぬ固く長き廊下に散れる桜はなびら

教師という役を演じよいま罵倒されているのは〈わたし〉ではない

やめさせることが担任の手腕だと聞かされている生活指導会議

 主体の人間性そのものを問われているのではないのだと、常に言い聞かせながらも、激高や罵倒の場にいなければならない。生徒からすれば、権力側である主体は、本当の思いとは別な対応もしなければならない。シビアな現実が、これでもかというほど迫ってくる臨場感あふれる作品群である。
 
ガラス戸の割れ目から入れる封筒の学校の名が不意に目を打つ

誠実と書けばチョークは折れて飛びさざめく教室に無縁のわれか

せめてせめて教室だけは荒らすまい放課後に床のガム剥がしつつ

夕飯を待たせておればトランプを床に散らして子は眠りおり

指導経過報告書書きつつ辿る日々 一度だけごめんと言ってくれた

秋空は水を湛えるごとく澄み刑務所隣の少年鑑別所

父母からのネグレクト姉の引きこもりユキよあなたはじゅうぶんつよい

 自らの子どもにもじゅうぶん関わってやれないほど疲弊する日々。生徒指導という、言わば、生徒ひとりひとりの生活環境や、生育歴にまで踏み込んでゆく職務。自らの力でできることはわずかだと知りながら、それでも教師として前を向く日々。一度だけ言ってくれた「ごめん」という言葉や、生きていくことの過酷さを十代で知ってしまった少女に、その力をもらいながら。
 
 教師としての厳しい日々は、詠み続けた著者も苦しかったであろう。読者として、その一端に触れることさえ辛いものがある。しかし、次のような作品に、私達は救われる。苦しいだけではない時代を生きたことを、歌が教えてくれる。未来があること、その先に光が見えることを教えてくれる。

金髪をいつかあなたは卒業するその日を一緒に待ってはだめか

もう九月 クジラを連れて散歩する陽気な君に会えるだろうか