潮のにおいがする。波の音が聞こえる。島影が見える。森の木々の葉擦れの音がする。かと思うと、遠い異国の町並みや石畳、大いなる川の流れ、そこから重厚な音楽が聞こえてきたりする。
塔短歌会所属の𠮷澤ゆう子さんの第一歌集『緑を揺らす』。
この歌集は、子どもの成長を、一本の木が成長していく過程になぞらえ、そこから、枝を伸ばし、葉を繁らせてゆく様を自らの生き様に重ねて編んでいるように思う。子どもの成長を、主軸にしていると書いたが、だからといって、子どもに溺れているわけではない。子どもの成長に伴走するかのように、自らも、日々生き方を模索しているように思う。
まず、主軸と書いた子どもの作品に触れてみたい。歌集中、その成長の様はつぶさに、ページを重ねるごとに、読者に伝わってくる。
ひと筋の光にあたまを差しいれて眠れる吾子を月に委ねる
会ふひとに明日は雨と告ぐる子のあたまゆらゆら日ざかりの道
わが子と言っても、あずかりものであるような、聖母マリアが我が子を抱いたときのような敬虔な情景を思い浮かべる一首目。
二首目も、幼子の無邪気な仕草を表現しているのだが、どこか天使が、神の使いとして人々に託宣しているような趣が感じられる、不思議な作品だ。
鳥がみな行つてしまつた暮れかたに子の掌に載せる胡桃、松の実
少年と亀を隔てる玻璃窓に息の曇りは重なり合へり
子どもが幼い頃、よくかかわりのあるアイテムが、著者の表現の世界では、詩的で繊細なものへと広がりをみせる。「鳥がみな行つてしまつた暮れかた」「玻璃窓に息の曇りは重なり」などの視点が、言いようのない寂寥感を醸し出す。
笑うべきところを外す母である子の早口な春はとりわけ
遅れし吾を子は待つてをり床の間に置かれつづける壺のかほして
おそなつの夕べ電話名乗られて変声期なる子の声を識(し)る
うつすらと子の唇(くち)の上を覆ひゐる短きくろき草を見てゐつ
青年の居ないひの暮れ屑籠は大きな穴として部屋にあり
子どもが成長し、少年となり、やがて青年となっていく過程が、感情に重心をかけないで表現される5首をひいた。2首目の「床の間に置かれつづける壺のかほして」などという表現は、突き放したようであって、待たせた母親の気持ちを代弁して、切なく絶妙である。
走りきて子の渡しくれし補聴器を付ければほそき鶯のこゑ
臨場感があり、ドラマティックな作品。「走りきて」の初句が、すべてを物語る。ここに来て、母と子の立場が逆転してしまった。それほど、子どもは成長してしまったのだ。聞かせてあげたかったのは、鶯の初鳴きだったのだろうか。
次に、「枝を広げ、葉を繁らせようとする著者自身の生き様」と評した著者の作品世界に分け入ってみたい。巻頭の一連は珠玉で、森に分け入ってゆくようにその作品世界にひきこまれてゆく。
森に火を落としたことがあるやうな吾と思へり草に坐れば
森に火を落とすという背徳的な行為、実際にそれを実行したことはなくても、その思いを束の間もったということの意識、誰しもこれに似た感情があるのではないだろうか。幻想的でありながら、読者の心に切り込みを入れてくる。
七文字でしかない吾に葉から葉へ落ち継いできし滴の落ちる
そうか、わたしは六文字だ。「しかない」と言っていながら、「吾」になるまでの、果てしない滴りが、悠久の時を落ち継いで「吾」にきたのだという感慨を感じさせる。
おほかたのひとの地平の果てにゐて吾はちひさき緑を揺らす
歌集の題名になっている一首。冒頭に書いたように、著者の樹である。世界のかたすみにいて、自分の存在はとても小さいけれど、それでも自ら育てた樹を、その緑を、私らしく精一杯揺らしていたい、そんな思いであろうか。とても共感できる一首である。
一連が、短編小説を読むようにひきこまれる作品群がある。「いわうじま」である。連作として読ませる魅力に満ちている。8首をひいておく。
八歳がほどまで父は住みしとふ基地のみにして無人の島に
漁りに祖父一族は生きてきて居間にカジキの吻はありたり
仏壇は海に向かひて納められ祈れるひとの横顔は見ゆ
かの夏のスクール水着大き過ぎわれの身体を遅れて布は
折り紙をしながら海は見えてゐて従兄のわれを呼ぶ声のせり
話すこと話さぬことの総量を収めてひとは夜を眠るなり
漁りの十年ののち研究者を目指しし父の思ひや如何に
いわうとう 聞き返す吾にははそはの母は遠いところだと言ふ
もうひとつ、島の名のついた、一連「答志島」。こちらは、漁村の匂いや音、陽のきらめきまでもが、目の前に迫ってきて、そこに住む人々の生業が身近に感じられて、懐かしさで胸がいっぱいになる。
日々海苔を洗ふ船ありあかき海水(みづ)港の奥にしづかに在りぬ
陽を直に浴びたる若布ぬめぬめと光を貯める溢れ出すまで
黒鯛を兜割りせし一音の冬の家ぬちにながく響けり
夫の登場する作品は少ないが、次の二首に、その人となりが静かに伝わってきて好感がもてる。一首目、「声をつかひて」二首目の「新聞の皺なほしつつ」が、とても効いていて、閑かな日常を際立たせている。
しづけさのつのる夜の更けわが夫は声をつかひて欠伸するなり
新聞の皺なほしつつ読むひとの背(せな)の角度が父に似てゐる
最後に、著者にとって切り離せないチェロの奏者としての作品をひく。
声よりもわがこゑであるチェロを容(い)れハードケースは背に平らなり
「声」は、音声としての声、「こゑ」は、身の内の深くから、絞り出すようにして伝えようとするこゑ、そんな著者の「こゑ」であるチェロを、皮膚の一部のように背にかかげ続けてきた著者なのである。