ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

千葉優作歌集『あるはなく』を読む

毎月の『塔』の作品や Twitterに流れてくる著者の作品を読み
いつも、わたしの心のなかの風景がそのままとりだされて、目の

前におかれているような感覚に陥る。

それほど、この人の紡ぎ出す言葉の世界は、私が表現したくて
したくて、それでも表現し得ない世界を、圧倒的な表現力で
差し出して見せてくれる。

歌集『あるはなく』が出版されるのを知ったとき、どれほどの
喜びと期待、そして怖れにちかいものを感じたことだろう。
                

見上げれば虫に食はれたところから空に変はつてゐるさくらの葉

みづたまりだつた窪みのあらはれて路上に消えてあるみづたまり

営業をやめてしまつたコンビニがさらすコンビニ風の外観

半円にすこし足りない虹かかりこの世にはない残りの円弧

二千年前からミロのヴィーナスがしづかに耐へてゐる幻肢痛

この世に存在しているものたちは、自分が在ると信じているだけで
本当は、自分の視界のなかだけのもの、他者には見えていないもの
なのではないだろうか。

一首目、確かに葉として存在していたものが、すこしづつ消えてゆ
き、やがてその場所は空という名で認識されるようになる。
森羅万象すべてが、そのように移り変わっていくことを見つめる
冴えたまなざし・・
人間の営みも同じであると、著者は思うのだろうか。

二首目も、水たまりとして捉えていたものが、水が存在しないだけ
で、もう水たまりではなく、別の風景として視界に入ってくるのだ。
三首目、四首目、コンビニや虹の半弧が、たしかに存在したもので
あるはずなのに、その残骸のように現れるとき、著者は、その見え
ない方の世界に思いを馳せるのだ。

五首目、ミロのヴィーナスの両腕に視点を当てる。不在ゆえの想像力。
けれど、幻肢痛を詠ったのは著者が初めてだと思う。しかも、その痛
みにしずかに二千年を耐えているというのだ。

 

次の三首も、そうである。
自らの認識によって、対象のものはかたちを変える。対象は変わって
いなにのに、自らの身勝手な思いによって捉えられる。
著者は、その対象側に立って詠う。

失くしたと気付かなければえいゑんに失くしたものになれないはさみ

ほんたうは僕が変はつたせゐなのに度が合つてないと言はれるめがね

こんなにも脚が長くておれの影なのにおれには似てゐない影


見めぐりの静物に対してのまなざしも哀しくて深い。

ワイシャツを脱げばわたしがワイシャツのたましひだつたひとひが終はる

生身の人間の体温を纏うことによって、息を吹くワイシャツ。
著者の一日の労働も、ワイシャツを脱ぐことによって終わるのである。

 

月光に濡れて窓辺に吊られゐし形状記憶喪失のシャツ

形状記憶と銘打たれたシャッツも、着古され、何度も洗われくたびれてゆ
く。老いてゆく人間のように。 形状記憶喪失が、衝撃的。

 

ハンガーは何も言はずに吊されてかくも静かな労働がある

こんなかたちの労働があるということに気づき、著者は何を思っただろ
か。たぶん自らの労働を重ね合わせ、労働というもののほとんどが、限り
ない静かな忍耐を重ねてゆくことだと気付いたのではないだろうか。

 

著者が、かなしみや、さびしさを、事物や情景に託して表現するとき
今まで誰も詠わなかったかなしみやさびしさとして読者の前に現れる。

いつか降る雪はわたしを比喩にして空がかなしみから溢れ出す

わたしは、空の大きさから言えば、たったひとつの比喩でしかない。
わたしの存在さえも、やがて雪のようにとけてしまうはかない存在かも
しれない。けれども、そんな私を生きてゆく。
かなしい歌だが、絶望的でないのは何故だろうか。

 

手羽先をひとりでほぐす夜である絶望的に空がとほいよ

思ひ出の手紙の墓となるだらう鳩サブレーの黄なるカンカン

まへぶれもなくこはれたるすいはんきあの日のきみがさうだつたやうに

手羽先、鳩サブレーの黄なるカンカン、すいはんき、どれもが日常の
なかで、それほど光をあてられる素材だとは思えない。

けれど、著者の短歌世界では、手羽先をひとりでほぐす行為と、絶望的
とまで言い放つ著者のさびしさの呼応は、やはり手羽先でなければなら
ないように思えてくる。

鳩サブレーの、あのビタミンカラーも、別れた人の手紙を入れる箱なら
ば、おのずと墓となってしまうのだ。

炊飯器という、日常にあたりまえのように使われて、そこに在るのが
あたりまえのような存在も、壊れるには壊れる前の前兆のようなものが
あるはずだ。あの日のきみに、前ぶれもなくというしかない悲しみ。
(この歌は、チューリップの サボテンの花を思い出した)

 

社会詠も、著者は、限りなく自らの身めぐりに引き寄せて詠む。

たんぽぽのやうに暮らしちやだめですか三万人が自死する国で

三万人が自死するこの国に生まれ、この国に生きてゆく私達、春の
草生のなかに咲き、風にまかせて綿毛を飛ばし、下り立ったところに
また新しい命を育んでゆく、そんなたおやかな生き方を望み、それは
叶わないと知っている著者。

 

常識的な時間に洗濯機を回し隣人に刺されないやうにする

赤ん坊の泣き声にさえ険悪となる人と人とのつながりのなかに生きて
「常識」とは、誰の判断基準をもってあるのかを問いたくなる。

 

みづからの子を殺したる男さへ新聞は父と書かねばならぬ

「父母」という概念が覆される事件が多い現世、事実を端的に表現して
主体を新聞にしたところが、ありきたりではない社会詠となった。

 

著者の、生と死に向けられるまなざしは、こんなに若い著者が、と驚くほ
ど日常の生活に息づいている。

労働の合間はひとり死んだものばかりを詰めた弁当を食ふ

八ツ四つ串いつぽんにつらぬかれ鶏は四羽も殺されてゐる

鯖缶のぶつ切りの鯖 この鯖の身体が別の鯖缶にもある

日常の飲食のなかに、著者は生と死を見続ける。冴えて、冷めた目である。
しかし、読み終えたあとに、命を奪い続けることで命をつないでいる
私達の日常をつきつけられていることに気付く。

 

いつかゆくあの世の雪を見てゐたり流しに洗ひものを残して

平凡な日常の繰り返しのなかに、ふっと、現実から浮遊した一瞬がある。
今存在しているすべてのものは、存在した瞬間からいなくなる運命にある
のだから・・・。


睡蓮が水面をおほふ夏の午後こんなに明るい失明がある

明るさと暗さは表裏一体である。水面の明るさに閉ざされて、水中は光を
失う。それを失明と表現することによって、いのちが生々しいものとして
迫ってくる。


最後に、わたしが大好きな、夕焼けの歌を二首あげる。
二首目は、歌集中の作品ではないが、この圧倒的な歌を読んで、私は
言葉をなくした。


アキアカネその二万個の複眼に映る二万の夕焼けがある

わたくしが踏切ならば遮断機を下ろしわすれるほどの夕焼け
 (トワ・フルール二十二号)