ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

大森千里歌集 光るグリッド より

 至近距離で、作者に一度だけお会いして話した記憶がある。
フルマラソンをし、山に登り、看護師をし、眩しいほど明るくて健康的な印象だった。
 ひとりよがりの偏見かもしれないが、そんな健康的な作者が、何故短歌なのかと疑問をもった。そして、そんな明るくて溌剌とした作者が生み出す短歌は、どんなものなのか、ひどく興味ももった。


スカートをはかなくなってもう二年 置き去りの足が砂浜にある

 

特に、何かがあってというわけではないと思う。気がついたら、そうであったという思いが不意に淡い喪失感へとつながる。砂浜は、スカートをひるがえし裸足で走りまわれた眩しい季節の象徴である。

 

「ひとかけの氷」一連は、看護師として、老齢の患者の最期を看取る一連である。
感情を削ぎ落とし、事実を伝える一首一首は、とても臨場感がある。
その中から、切り取り方がおもしろいなと思った二首。

 

葬儀屋の車のドアの閉まる音 ぱたんとおもく鼓膜を叩く

片手鍋の取っ手がはずれたその朝にふいにあなたに逢いたくなった

 

「葬儀屋の車のドアの閉まる音」「片手鍋の取っ手がはずれた」そのことに、作者の五感が鋭く反応していることに惹かれた。

 

ひらひらと蝶形骨をゆるませてシロツメクサの草原に立つ

尾骨とは岬のような骨だから湯舟にそっとからだ沈めた

アスファルトを濡らしてゆけば腰椎のひとつひとつが軋んで雨だ

 

歌集のなかには、身体の呼称が多く表現される。それらは、看護師としての醒めた身体感覚にとどまらず、繊細で詩的だ。

 

 フルマラソンを走り、山にも登り、100㎞を歩く・・その精力的な作者の迫力は、
淡々とした語り口だからこそ伝わってくる。

 

真夜中にかたつむりのごとくそろそろと足を引きずりそれでも歩く

トレランのシューズの泥を落としつつ山の匂いをもう一度嗅ぐ

ためらわず生八ッ橋はふたつ取り三十五キロの壁を越えたり

 

 そんな颯爽として、豪快な作者が、子供達に向けるまなざしは、ひどく臆病で
さびしがりやである。

 

涙ぐみ布団にもぐる子わたしの子大きな大きなみのむしのよう

玄関にゴマダラカミキリ見つけても飛んでくる子のもういない夏

拳銃のごとくバナナをかまえてた子はもういないもっさりと食む

まぶしいのが嫌いなんだと深海を君は今でも泳ぎ続ける

ハンドルを握る息子にうりずんの風は吹いたか淋しくないか

 

 しかし、母である自分を遥かに越えて旅立ってゆく息子を、大らかに見守って
いこうとする決意と、子供達に負けないように、自分自身も夢をもって生きて
いきたいと願っていることが次のような歌から窺える。

 

手を振って搭乗口へ消えた君わたしの頭上を飛んでゆくのか

ゆるやかなカーブをつけて眉を描く あの丘のような母であるため

雪渓に君が残した足跡をいつかわたしも掘り出しに行く

 

 夫君の歌も多い。夫君も、息子さんも、あまり大きな声で笑ったりしない。
そんななかで、作者の屈託のない人柄が、家族の空気をゆるやかに、風通し良く
しているようだ。しかし、夫君への眼差しは限りなく愛情にあふれている。

 

夕暮れはやさしい器 君の手がくるりとまわり亜麻仁油たらす

口開けて笑うことない夫なれど奥歯の向こうに銀河は光る

だんまりも三日ともたず靴下の穴の向こうに夫をみつける

 

 素敵な家族がいて、健康な心と体を駆使し活動できる、それでも短歌は必要‥?
と思いながら、歌集を読み進めていった。
「それでも」ではなくて、「それだからこそ」、言葉があふれてくるんですね。


最後に、作者の大らかな人柄が魅力の歌をいくつか‥


コンビニのおでんの中に浸かりたい今日のわたしは冷めたはんぺん

ソックスの五本の指が引っ込んで亀のようなり亀のまま干す

うちのねこ、みかけんかったと尋ねおり道で出会った近所の猫に

南天のあかい実ひかる夕まぐれつぎ止まりますと猫バスが来る

銀盤でトリプルアクセルする人を猫パンチしたトムはもういない

バズーカのごとき太めの大根がさりさり切られサラダとなりぬ


そして、理屈抜きで好きな歌をいくつか・・


葉脈に光があたってすんすんと空の深さを吸い込んでゆく

遮断機がふわりと上がる夕まぐれレールの向こうにそれからがある

ぽうたりと玉子の黄身が落ちたようなそんな夕暮れ立ち漕ぎをする

あたたかな春の日射しが待ちきれずカーテンレールるるると鳴った

剥がそうとしても剥がれぬときもある今はこのままレタスでいたい

夕焼けのガランス色が足りなくて空をちぎって貼るしかないな