ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

木下のりみ歌集『真鍮色のロミオ』を読む

 作者、木下のりみは、同郷の和歌山の歌人である。
年齢も近く、もっともっと短歌に関わる話をして刺激をもらいたいなと思いなが
ら果たせないでいる魅力あふれる歌人だ。

 

真夜中のガラスをたたくかなぶんぶん真鍮色の小さなロミオ

 

 歌集をいただいて、まず戸惑った。果たして、「真鍮色のロミオ」とは、何だろ

う。最初はなにか彫刻のようなものを想像していたのだが、歌集を読み進めるなか
で上の一首に出会って、ますます作者の自在な創作力にひきこまれてしまった。
ロミオとは、あの有名なシェイクスピアによる戯曲、『ロミオとジュリエット』の
ロミオであり、深夜、作中主体の窓をたたくのは、禁断の恋の相手、ロミオだった
のだ。このおかしみ、この飛躍、この表現力が、作者の持ち味だ。


 ところで、わたしは時々、歌集のあとがきから読み始めるという悪い癖(?!)が
ある。今回もそれをしてしまい、その文章を読む中で、ああそうか、私はこの人の
こういう部分に魅力を感じているんだなと、あらためて知ることになったのである。

 よくある歌集のあとがきとは、少し違っていた。十五年ともに暮らした愛犬を亡

くし、その火葬の折の作者の心象を綴っているのだが、深い喪失感とは対極にある、
人間というものの滑稽さ、愚かさ、そんなあらゆる業のようなものがないまぜにな
ったおかしさ・・その心情を実に真裸に表現しているのだ。

 今回は、あとがきから先に読み進めてよかったと思い、おかれている歌にも深く
興味をもった。


愛犬にまつわる歌もそうであるが、作者の動物へのまなざしは独特のものがある。

 

暖かくなりて姿を消す鶫そう言えばツイード上着きていた

わが庭に今日も来ているジョウビタキ黒紋付きを尻からげして

仏さんのお下がり一つぶも無駄にせぬ雀の親子の静かな食事

 

 作者の身めぐりは、常に季節の鳥や虫、植物たちに満たされている。作者は、
それらとのかかわりを、人間の上から目線ではなく、古くからの親しい友人のよ
うに表現する。上質なツイード上着や黒紋付を着た個性あふれる友人達として。
庭にくる雀たちには尊厳さへ感じる。


抱いてやろうと犬にいうとき私が抱いてほしいと犬は知ってる

撫でて抱いてぼんちゃんの命を手の平に載せていし罪こころを暗す

 

 愛犬は、単なるペットではなく、作者の心の襞に深く寄り添う存在であり、そ
の存在を亡くしたときには、それまでの関わり方を罪とまで表現する謙虚さを、
作者は持ち合わせている。


靴音の周りに真空地帯あり遠巻きにしてすだく虫の音

虫たちがまだ続けいる輪唱に朝はくらしの音かぶせたり

秋冷にけやきは立てり青蝉の行き止まりかも尽く尽くと鳴く

 

 虫の歌を三首あげた。一首目、「真空地帯」が凄い。まさにそのような感覚
がある。その距離は、人間と自然界との「真空地帯」なのかもしれない。
 二首目、私達は、自然のなかで暮らしている。共存しているとは言いがたい
人間界の無頼をしずかに気付かせてくれる歌だ。
三首目、つくつくぼうしの終焉を、「尽く尽く」と聞くのは作者の心象風景な
のかもしれない。


吞んで帰るふたり転ばぬように手をつなぎて「月が明るすぎるね」

欄干にふたつ折りして休ませる酔っぱらってる私のからだ

津波来ればあなたは逃げよ僕は犬と残るこの愛どう考えるべき


 夫婦ふたりの関わりも、実に飄々と表現される。ほのぼのとした日々の暮らし
が想像される。


ちゃらぽっこ 壁に椿象ぶちあたりテレビの首相の鼻先にとまる

おそろしい時代がくるとこの人も話す今はまだものは言えると

日本人を守らんがため派兵するなどと言い出し始めましたよ

熱りたつ首相を見れば加速度的に冷めてゆくなりこの人は遠い

戦後初の戦闘に死ぬひとりかも知れぬ若者かも知れぬ彼

 

 世情に対する批判、不穏な時代への不安、怖れを表現した作品も多い。どれも
作者ならではのユーモアを纏い冷静ではあるが、それだけに余韻が残る。


焚き染めし御衣の姫を抱くやうにうち伏すセージの葉むらを起こす

身の盛りともしきろかも風に伏しし萩のひとむら起き上がりたり

 

 古典和歌の趣を、現代にタイムスリップさせたかのような二首。何気ない日常
の情景であるのに、雅な感じがする。


川土手の野焼きの煙充ちている橋を行くなり火渡りのごと

黒野にふたたび野火のかぎろいを見せたり村は夕映えのとき

重なれる山の果のはたた神しのつく雨をひきつれて来る

 

 作者の住まいは、熊野に程近く繋がりも多い風土である。「火渡り」「末
黒野」「はたた神」など、奥深い熊野の山々とそこに連なる古道や田園風景
は作者の創作に大きく影響し、表現力を育ててきたと思われる。


氾濫のあとの無惨を消す闇にぽつんと光る水の自販機

 

 東日本大震災の年、紀伊半島を大きな水害が襲った。何もかも流されてしま
って、夜の闇は、その無惨を見えなくしているけれど、皮肉にも、水の自販機
だけは流されずに、その在処を光らせている。抗えない自然への驚異と人間の
営みのかそけさの対比が印象的だ。


あかつきの部屋に静まるものみなに影が生まれるところ見ている

おかっぱの藤田嗣治をまねた友のふっ切れ方がまぶしくてならぬ


 歌集中の作者像は、おおむね気負わず自身の軸もぶれにくく、歩むべき道を
歩んでいるかのようだが、時折、上のようなひっそりとした影を感じる作品も
あって魅力的だ。
 特に、二首目は、開放的で行動力もある友のまぶしさに比して、自らはその
域に達しない(あえてそうしない)自らを静観しているような歌だ。


思い立ち夜更けパン種こねていたわれこそ酵母だったあの頃

遠いところに来てしまったな戻るには同じ時間をかけねばならぬ

 

 最後に、特に好きな二首をあげる。
人生の残り時間などと言ってしみじみとする作者ではないと思うが、その生涯
を淡々と見つめる折もあるだろう。
 一首目、「酵母」という表現が、たまらなく良い。体中に未生のものへの限
りない憧れをはらませていた時代の輝きを感じる。
 二首目、遠いところにきてしまったことを悔いる歌ではない。長いながい道
のりを、その折々に自ら選びとって今ここに在ることを感慨深く見つめる歌で
ある。平易な表現に余韻が残る。

 

 第一歌集「たゆた」第二歌集「まんねんろう」、そして、第三歌集「真鍮色
のロミオ」と、木下作品に長い時をかけて接することができたことをとても喜
ばしく思う。
 そして、今度こそ、短歌についてゆっくり話す機会をくださいと申し出よう

と思っている。