非日常を消し去り、あえて日常の些細なできごとに焦点を当てた作品が多い。
家族や、人間関係のつながりに関わる歌も極めて少ない。
これほどまでに、日常の歌を、これ以上力の抜きようがないというくらい気負いなく
詠いながら、これほどまでに、世界が広がり、せつなさや、さびしさをも表現できるものなのだと読み進めながら思った。
蜘蛛の巣にかかれる蝉のもがきつつ飛び去りしときチィと鳴きたり
歌集『チィと鳴きたり』の、題名になっている歌である。
繊細でいて強靱な蜘蛛の巣に、身なりは結構大きい蝉がとらえられ、もがいている様子は無様であり、ペーソスさえ感じる。必死の体で、飛び去ることができた蝉は、解放感にあふれているはずなのに、発した声は、小さな「チィ」だけであった。
自然のなかで、日常に繰り返されている情景なのに、一匹の蝉が、たまらなく愛おしいそう、思わせてくれる一首だ。
この歌集には、上に挙げたような歌がたくさんある。
誰もが見て、誰もが感じているはずだけれど、誰もがあたりまえのように通り過ぎているささやかな日常のひとすみをズーム化し、目の前においてくれる。
太刀魚のごとく体を横たへて今日はおしまひ「保存」せず寝る
今日もなほぶらさがりをり路地裏の電信柱に手提げの袋
目も鼻も口も昨日と同じ位置 浮腫める顔をじゃぶじゃぶ洗ふ
スマホ、スマホ、スマホ、マスカラ、スマホ、スマホ、一人は眠る 向かひの座席
五円玉いくつあるとも自販機に缶コーヒーを買ふことならず
フライパン広しや広し片隅にサイコロステーキ四個ほど焼く
のぞき見を誘ふやうなり戸に隙をつくりしままに人の声する
窮状のさほどにもなき嘆きには「難儀やなあ」と相づちを打つ
もあもあと今日も暑きに何がさて買ひに行かむかトイレの草履
一列に人立ち並び一列の余白を運ぶエスカレーター
軽妙でありながら、どこかペーソスがあり、ハッと気付かせてくれる歌たちに
ゆっくりと立ち止まり、あらためて、共感以上のものを感じた。
苦瓜の身をくり抜けばポリネシア海渡りゆくカヌーが二つ
気を抜かばポロロッカのごとく押し寄せむ虚しさのありそろりと暮らす
「ポロロッカ」は、潮の干満によって起こるアマゾン川を逆流する潮流。
苦瓜が、ポリネシアの海を渡る舟になったり、日々の思いがアマゾン川にまで至り
作者の想像力は自在だ。
「蝶のごとく」の一連は、この歌集の中では異色だ。性愛の歌が多い。
蝶のごとく体つなぎて飛びゆけり波しづかなる夜の海なる
すでに何も生むはなけれど国生みのごときわざ為すくるほしきまで
伊勢物語「狩りの使ひ」を膝に置き論じ合ひたりまぐはひののち
性愛のいとなみについても、知的で、自らの行為を俯瞰しているような客観性がある。
国生みという、壮大で神聖なテーマであったり、伊勢物語「狩りの使ひ」が引用されたり・・。
(伊勢物語「狩りの使ひ」が、どんな内容だか解らなかったので調べたりした)
「狩りの使ひ」を膝に置き論じ合える関係、しかも、性交ののち・・。男女の契りについてのやりとりだとしても、意表を突く引用であった。
マグリットの空と雲あるガラス窓 チキンラーメンほとびてゆけり
三日目にはひりて昼に残りたるカレー食ひをりゴーギャンの顔で
死の予感さへも纏ひて抱き合ふシーレの女男のうねれる姿態
ベッドより腕をだらりと垂らしては「マラーの死」などとつぶやいてみる
森の中の泉へ若き女らがわがサテュロスの手をとり誘ふ
絵画にまつわる歌も多い。遠い日に描かれた絵画が、作者のなんでもない日常に
すべり込んできて、作者と絵画の主人公達が交錯し、軽妙な情景をつくりだしている。
最後に、もうひとつ、好きな歌を挙げておく。
まつ黒なテレビ画面にエプロンをはづすあなたの影を見てをり
エプロンをはずすという些細な行為が、ひどく官能的に思えるのは、明るい陽ざしや灯火のもとで、直接あなたを見ているのではなく、電源を消した真っ黒なテレビ画面という閉じられた空間のなかにあるあなた、しかも影を見ているからである。エプロンをはずしているという行為も作者の想像力のなかにあるものであって、その場の空気感から、たぶんそうしているはずだという確信のもとに詠まれていて、作者とあなたとの濃い関係性も窺うことができる。
逆の読み方として、影はあなたの暗い部分を表現していて、作者の知らないあなたを垣間見たような寂寥感を表現したのかもしれない。
いずれにしても、魅力的な一首だ。