ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

大地たかこ 歌集 『薔薇の芽いくつ』を読む

大地たかこさんの第三歌集、『薔薇の芽いくつ』を読む。


 自分の短歌がこのままでいいのかと迷い・・・立ち位置が定まっ

ても独りよがりな歌であってはいけないと、いくつかの歌会に参加

しています。

という、あとがきを読んで、著者の姿勢をとても素敵だなと感じ、

それが顕れている歌集だと思った。

 

まず、連作としてのおもしろさに注目した。
ある場面ではエッセイを読むように、ある場面ではやさしい童話の
ように、ある場面では、昔語りをとつとつとするように、その作品
世界に引き込まれてゆく連作が多かった。

特に次のような一連が、印象深かかった。

『真白き輪つか』

巻頭におかれている一連。

農水省神戸植物防疫所国内検疫担当者某氏

など、あえて堅く事務的に、事象を追っていく展開が、その事象の
大きさを物語る。

伐られたる梅林の梅は四百本 すうすうすうと鴻臚館が見える

一切、著者の思いを表現していない一連のなかで、この一首が際立つ。

躑躅を添へる』

自死といふさいごを夫は言ひしのち「楽になつたんやな」と呟く

一連の導入としておかれた一首。夫の素朴であたたかい言葉が、あと
に続く甥の人となりへと導いてゆく。内容は、きびしく辛いものであ
るが、このあたりの一首一首の配置の仕方が絶妙である。

すみれさう・はこべ・かたばみ低く咲く墓地の隙間の土を掴んで

雨の日は雨のあかるさ人棲まぬ家の軒よりツバメ飛びたつ

くらく悲しい事象も、著者の歌には、命の力強さと希望のひかりが
窺える。

『父とオルガン』

朝ぼらけ 海のにおひがするやうな、からころ下駄の音するやうな

「たかちゃーん」と幼きわれを呼んでゐる缶蹴り遊びの誰かの声が

まどろみの中で、父母がいて、姉妹がいて、つつましくあたたかい
くらしがあった時代にかえってゆく一連。

懐かしい映画を観ているような、ひとつひとつの情景が、せつなく
鮮やかに甦ってくる。

たらちねの母はとぎ汁そそぎたり一叢の金魚草にしやがみて


連作を、三作品あげたが、他のどの作品も、ストーリー性があり

連作として読み手をひきつける魅力をもっていると思った。


以下、特に印象に残った一首をいくつかあげておきたい。


××と雨戸に板打つ父の手が、口より釘出す父の手が、うかぶ

台風が接近すると、必ずどこの家でもやっていた風景。
こんな父の姿に、一家を守るという存在の大きさを重ねていたのかも
しれない。口から釘を出すという人間離れしたことを、あたりまえの
ようにやっていた時代。幼い子どもには偉大でしかない。

トロ箱の平目もびびんと水沫飛ばす「昼網でっせ」と声するなかを

歌集には、関西弁が多用される。
この作品も、市場の活気が伝わり臨場感いっぱいの効果がある。


夕かげのなかにとくさは群立ちて青銅の鈴のやうなしづけさ

薄暮のなかで「青銅の鈴」の音を聞いた感覚。とくさの直立した風景
を視覚だけではなく、著者だけが感じる身体感覚でとらえたところが 

崇高な気配さえ感じてしまう。


葛の葉が覆ひつくしていく速さ 歌からはなれたいといふ思ひ

太郎月のみみづく吾に囁きぬ「やめたいというひとはやめんよ」

歌集全体に流れる印象は、なべてやわらかく前向きな作者の姿勢が
窺われるが、時にこのような作品があると、一瞬足をとめてしまう。
葛の葉は、なにかにとらわれている自分自身の姿であり、葛藤でも
ある。みみづくの語り口が心地よく、安堵をおぼえる。


丸型の赤きポストをみつけたり その頭を撫でてガマズミガマズミ

あかまんままんままんまといひながらその穂しごきしあなたはだあれ

葱坊主ほうほううたふ夕つかた吾もうたふよ だあれもゐない


著者の、オノマトペの使い方も魅力的である。
一首目、「ガマズミ」は特にポストとの関連はないはずだ。しいて言
えば、秋に赤い実をつけることぐらいか。それなのに、ポストをなで
ながら、呪文のようにこの言葉を繰り返すと、ポストは作中主体にと

って唯一無二のひかりを放つ。

二首目、「あかまんままんままんま」三首目「ほうほう」なども著者
独特の童謡の世界に導かれていくような表現だ。
「ガマズミ」も「あかまんま」も、植物名であるのに、著者独自の

オノマトペのような印象を受ける。

 

棒切れの好きな男の子が森をゆく木橋に来たら流すよ、きつと

上掲の、ガマズミの歌もおさめられている『流すよ、きつと』の一連
のなかの一首。

子どもは、棒切れが好きで、それを振り回したり、何かをつついたり
するのが大好きだ。そして、小川のせせらぎを見つけたりすると必ず
それを流そうとする。その子どもの持っているのびやかさ、明るさを
大人もわくわくしながら見ている。
牧歌的で楽しい一首である。

彼岸花ひと束ひと束流しをり捨てておいでと言はれた子ども

彼岸花は、「死人花」などと呼ばれたり、毒があるから摘んではいけ
ないと言われたりして翳りのある花である。無邪気にその華やかさを
摘んできた子どもが、捨てておいでと言われて、そのありあまるほど
の中から、ひと束ひと束、せせらぎに流している。

この作品も、童話の挿絵のようなせつない風景だ。


歌集をずっと読み通してみると、幼少期をふりかえって描かれている
作品が多い。
それは、時に眠りの中の風景のように淡く、時に目の前のできごとの
ように鮮明であったりする。

どちらも、今ここに在る著者自身のなかに生き続けて、著者の生きる
力になっている風景であると思う。

思ひ出といふ非力の味方のあることの ほらもう枇杷の花が咲いてる