ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

牛隆佑歌集『鳥の跡、洞の音』を読む

 牛さんに、私の歌集をお送りしたいと、メッセージした時、「せっかくなのですが、歌集のご恵贈は遠慮させていただいておりまして、関わったものでない限り書店で購入するようにしております。これはささやかながら葉ね文庫など歌集を扱ってくれる書店の売上のためでもあります。ご謹呈の数にも限りがあることですので、他の地域の方や学生の方など、歌集が手に入れにくい方にお贈りいただければと思います」という返事だった。
   批評会を控えていた私は、自分の歌集を読んでもらうことに必死で、大切なことが見えなくなってしまっていたのではと思った。そして、あらためて、牛隆佑さんの、短歌にとどまらず、出版そのものに対しての姿勢に触れる気がしたのだった。
 長い間、多くの歌人のバックアップに力を注ぎながら、自らの歌集は出さなかった著者の、ここに来てようやく第一歌集に出会えることを、とても嬉しく思い、その世界に真摯に向きあいたいと思った。

 

雨は降る たとえば傘をひらかせてたとえばあなたに本を読ませて

 巻頭に置かれた一首である。著者に、そんな意図があるかどうか解らないが、この雨は著者自身ではないかと思う。傘を開かせる、すなわち様々な短歌に興味を持った人達に対して、その面白さや、奥深さを伝えるきっかけ、場をつくる、そして、他者の作品や著書を読む機会を与える。まさに著者自身が、これまでしてきたことではないかと思うのだ。

 しずかに、霧雨のように染みてくる繊細な歌がある。かと思えば、泥臭く、生活感にペーソスの滲む歌、破調の歌、一篇の詩のように連作を紡いだ歌群、枕詞を駆使し、口語体と融合させた作品、実に多彩で、歌集は、変化に富んでいる。この人の求めているものは、どこにあるのだろうか。
 著者は、あえてあらゆる可能性に挑戦しているのだと考えてみた。短歌という枠におさまりきらない、著者から迸る熱量をあらゆる可能性として、試しているような気がするのだ。
 栞文が、川柳、短歌、詩の人から成っているのが、そのことを物語っている。

 さて、私が作れそうになく機知に富んだ歌達も、もちろん魅力的なのだけれど、ここからは、私の感性の糸をきしきしと震わせてきた歌達を、紹介しておきたい。

あっ、雨が降っているなと思ったら横に動いて羽虫と気づく

 塵のようで、動くことでしか生きていることを認知されない羽虫。雨と同じ方向に動いていたら、雨に流されてゆくゴミだと思っただろう。しかし、ちゃんと、雨ではない方向に動いたのだ。その発見に涙してしまう。深読みをすれば、何かにあらがっている一人の人間のようにも思えてくる。

しかしあるいは自販機の冷たい珈琲が6℃の熱を持っていること(冷たい珈琲→アイスコーヒーのルビ)

 人間の平熱からすれば、6℃はあきらかに冷たい。しかし、それは体感温度としてであって、アイスコーヒーとしては、6℃という身体の熱を保っているのだ。ともすれば、人間中心、自分中心の考え方をしてしまうことに、はっと立ち止まった。

パレードのように葬列のようになにかのデモが通過してゆく

 「デモ」という能動的でエネルギーあふれる行為も、どこかに諦念をはらんだ部分を潜ませていることを著者は見逃さない。

手になってしまえば殴るしかなくて手になる前のもので触れたい

   感情をもたない「手」を人間の道具として考えたとき、動作として殴るという行為は簡単だ。けれど、そこに感情を込めたとき、「手」は殴らないという選択肢を与えられる。著者は、道具としての「手」ではなく、感情を持った「触れる手」で、ひとに向き合いたいと願っているのだ。

父親にならないと決めて父を見る 胡瓜をうまそうに食っている

 上句の厳しい胸の奥の決断と、下句のゆるやかな描写が、絶妙な一首だ。世の中のことは、概してこんなふうに緩急があって、そこそこバランスがとれてゆくのではないかと思わせてくれる。

あきらめることがそんなにわるいのかそのへんどうよ麻婆豆腐

 こちらも、好きな作品で、前作に通じる抒情を感じてしまう。話しかけている相手が、噛みごたえのあるものは何もない麻婆豆腐というのがまたよい。

寝不足の時代できっとぼんやりとしたままたぶん戦争に征く

銃声が聞こえてしかし銃声のような音だと考えなおす

空き家を燃やす空き家を燃やす空き家が燃えて隣町へと冬を知らせる

 メッセージ性のある三首をひいた。
 一首目、ウクライナイスラエルのことではなく、日本においても、一触即発の状況にさらされていると思う日々である。仕事や、様々な生活のことに追われ、睡眠時間を削っている身めぐり。ある日、突然召集令状が来て、寝不足のまま戦争に行ってしまうのではないか。あえて反戦を掲げた歌ではないのに、それだからこそ、ぞわっとしてしまった。
 二首目、日常によくある場面である。必ず起こると言われている地震も、そうである。今、今日起こるかもしれないけれど、そのことばかりを考えていると、私達は生きられない。負のバイアスがかかって何とか精神のバランスを保っていると言える。
 三首目、社会現象として、空き家問題が深刻化している。空き家、次の家も空き家、またその次の家も空き家、一軒に火が放たれると、次々に火が燃え移る。「隣町へと冬を知らせる」は、叙情的な表現だが、冷え切った冬空を染める炎は、ひどく怖ろしい感じがする。 

ひと月に一度は泣いている人に出会うのがガスト 大阪のガスト

(っはい、その夢あきらめましょう)ジャパネットたかたの声でつげてやりたし

【ご先祖様ありがとうキャンペーン】の幟どこまでも続いていそう

  冒頭の文章に、「泥臭く、生活感にペーソスの滲む歌」と書いたが、上記のような作品がある。関西ならではの風土、そこに根ざした著者の日常生活からの視点を垣間見ることができる。

鳥の跡、洞の音、礫の先、人が行くのは人の道だけ

 最後に、歌集名となった、一首をひく。
 「鳥の跡」は、鳥が巣立ってしまった跡と読んだ。「洞の音」は、巣立ってしまって空洞となった風景、そこに吹く風のように思った。「礫の先」は、巣立ちのあとの、様々な試練を想起させる。鳥は、鳥の未来を生きるように、私は、私として、自らの道を歩いてゆかなければならない。そんな決意を思わせる一首だと思う。

 
 多くの作品に付箋をつけたが、特に印象に残った十首を追記して終わりたい。

この町にグーグルアースで目印を刺すようにして夕日がとどく

誰が死ねば僕は泣くかなカーテンを外せば部屋に春が来ていた

何かが何かになり損なった夏の日々だろう光はこんなところまで

思い知れ、お前は一人、一人なのだ、一人だ、一人しかいないのだ

何ものも待たないという生き方よ月の沙漠を耕しながら

追伸を書くために書くとても長い手紙のなかば流れている川

一日で書籍が届くうつし世に三日がかりで書き上げる手紙

この紐を引くと世界が落ちてくるみたいに僕ら夜になります

吸う音と吐く音があり吸うほうがわずかにすこしばかりさびしい

土用東風すごくすずしいのに話したいだれかがどうしてもいないんだ