ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

田中律子 歌集 『森羅』を読む

まどろみのなかに広がる風景のようで、なつかしく、さびしい。
どこまでも、どこまでも続く星空の下、波の音が聞こえる。
遠くにひとすじの灯りが見える。
夜汽車だろうか・・舟かも知れない
何処にむかっているのだろうか。

そんな装丁を見つめながら、田中律子歌集『森羅』を開いた。

Energy、Ambivalence、Transition、 Eternity と4章に分けられた
この歌集は、作中主体の心の揺らぎと、そこから生まれてくる波動、そして
あまりにも閑かな慟哭が、章を追って、読者の心に響いてくる。

『森羅』の大きな流れとなっているのは、病むこともなく逝ってしまった父、
病みながら、自らを見失いながら逝った母、そして、婚姻というかたちの
もつ息苦しさと安らぎ、キャリアを重ねた仕事への葛藤と幕引きについて。
作者は、毅然として向かい風に立ちながら、その何倍もの弱さや悲しみを
短歌というかたちで表白していると思った。

 

小径から裏道をぬけ白木蓮のあふれる路地に母みうしなふ

自らを見失ってゆく母と、母としての母を見失ってゆく作者。
木蓮の白さは、喪失の象徴として溢れるように咲く。

 

スペイン坂をのぼる日傘はみな白く ああこんな日も母は病みゐる

母の病むベッドのシーツの白さほどカラヤン広場の水がまぶしい

スペイン坂も、カラヤン広場も、明るく躍動感のある場所である。
そんな場所にいても、作者の脳裏には、いつも病む母がいる。
白という色は、白ければ白いほど、どこか痛々しい。

 

ナースコールいちども押したことがない母のベッドに垂れゐるブザー

心身が、もう自らのものでなくなった人達のベッドにも、ナースコールは
おかれている。事実でありながらゆきどころのない違和感を覚える。

 

二日間喪主をつとめた首すぢがパールネックレスの重さのままだ

どれほど近しい人が亡くなっても、悲しみを感じる間もなく葬儀が執り行われる。
特に喪主ともなれば、その気配りに一層の負担がかかる。ネックレスをはずした
途端、そんな重圧があったことに気付く。ネックレスという皮膚感覚をもった
素材が作者の繊細な思いをしずかに伝えている。

 

ひだりむく前島密十人の封書のなかの退職ねがひ

〈子を産んだこともないのに〉育児担当われに放たれる矢がいくつ

マウス持つかたちのままにてのひらを胸にあてたり ふたたび眠る

春立つ日しろがねいろにくもりゆくお台場の海 もう辞めようか

キャリアを積んで、重要なポストに着いたとしても、そこにはまた新たな苦悩も
生まれる。作中主体は、人事を扱う部署にいるようだ。他人の未来をも左右する
ことに関わる慄きを感じる一首目。
私性にまで踏み込んでくる社会への怒りや理不尽さも、作中主体は客観的に捉
えることができる。
しかし、四首目、そんな気の遠くなるような積み重ねにも、幕を下ろそうかと
考え始める。自らを解き放そうとする思いが、初句に窺われる。

 

遺影ばかりの部屋で抱きあふ食卓の校正ゲラが風にうごけり

梧桐があまたの腕をゆらす夜半 きみの戸籍の妻と子を消す

むかしきみの子が怖れたる青鬼はわれかも知れず はるの雪降る

きみは今調停室の朝窓に樹々のゆらめき見てゐるころか

愛する人との関係は、常に翳りを帯び、自らをも嘖んできたのだろうか。
選んだ四首、どれも私小説のように、かなしくうつくしい。

 

しよせんは独り テツパウユリにつぶやきぬひとりのときはわからなかつた

パラフィン紙のかすかなる音夜おそく居間にあなたが本を包めり

いわゆる制度としての安穏な関係になったとしても、作中主体は
「幸せに暮らしましたとさ」で、The Endにはできないのだ。
おそらく、いつも何かを問い続け、求め続けるはずだ。
一首目、独りより、ふたりのときの方が、より一層さびしさが際立つという。
はっと気付かせてくれる。
二首目、一人住まいでは聞くことがなかった自分以外の所作の音。パラフィン
の音が、やわらかいぬくもりを伝えている。

 

他に、ところどころに配される作品に、とても惹かれたものがあった。

 

フランス語でRを発音するときに洩れる空気がすこし好きなり

フランス語は門外漢だが、その印象として雰囲気がとても伝わってくる。
「洩れる空気」が官能的である。

 

死んだこと知らない守宮の脚と尾がそれぞれ別のところで動く

それぞれ別のところで動く脚と尾は、死んだことを知らないからなんだと
いう捉え方が、斬新だが哀しい。

 

シンバルは出番を待つてゐるずつと ところにより雨、のやうなさみしさ

降るのだろうか、いつ降るのだろうかと待っている雨、シンバルの出番を
待っている演奏者にとっては異論もあるだろうが、なんとなく納得できて
この歌に纏う哀感が好きだ。

 

「さくら歯科」と「すみれ歯科」ある駅前に幾何学模様の傘をひらけり

絵本の挿絵に出てきそうな情景を想像してしまう。実景なのだろうけれど・・

 

たましひが抜けてく夜のすがしさに土星の輪つかがほしくてならぬ

『森羅』につながる壮大な宇宙空間をイメージする。作中主体と、宇宙が
響き合い呼応しているかのようだ。

 

空が裂ける 雪、鳥、ひかりあふれだす この世を降りるときの速度で

前作とともに、歌集中、最も惹かれた作品。作中主体が神として、
この世に降臨するかのような荘厳で臨場感があふれる一首。

 

いつ行っても閉店セールの眼鏡屋が今日ほんたうに閉店となる

いつ行っても閉店セールの看板が掲げられていて、ほんとうに閉まるのだろうかと
思っていたら、不意を突かれた感じで、ほんとうに閉店になってしまった。
喪失感は、こんなところにもある。

 

わたくしの生んだ闇なら抱きとめるノコンギク摘みヨモギを摘んで

抽象的な前半のフレーズが魅力的だ。自らの犯した罪というのは大袈裟かも
しれないが、自らのせいでどこかに翳りを落としてしまったとしたら、それは
それで真摯に受けとめて、清楚に償い続けていきたい・・というふうに読んだ。

 

狗尾草の穂絮がわれについてくる さみしいくらいがちやうどいい日だ

狗尾草の穂絮もさみしいのだろうか。私がさみしいと知っていてくっついてくるの
だろうか。「さみしいくらいがちやうどいい日」は、甘えもぬくもりも、優しさも
少し遠ざけて独りになりたい日だろうか。また帰ってゆける場所があるから言える
言葉かもしれない。

 

非常口も公衆電話も萌葱いろこの世ぬけだすわれに月射す

そう言えば、非常口も公衆電話も、緑色だ。現世からぬけ出すための非常口、現世を
放れて交信するための公衆電話、月の光に照らされると、そんなこともできそうに
思えてくる。

 

最後に・・

ここ数日、『森羅』の世界に入り込んでしまった。『森羅』に描かれている人物像に
自分の日々を重ね合わせてもみた。
手ざわりは、さびしさがあふれている。しかし、その深くに流れている、激しさや
強さをしっかりと感じとることができた。
森羅万象、裡にエネルギーを溜めて生きてゆきたい。