ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

中林祥江歌集 『草に追はれて』を読む

歌集から、土のにおいがする。
畑をわたっていく風を感じる。
陽のひかりや、生きものたちの息づかい、ありとあらゆる自然の
いとなみを感じることができる。

作者は、土まみれになりながら、農に生き続けている人である。

 

考へて思ひあぐねし時いつも無花果畑に聴いてもらひぬ

わが憂さが指の先より抜けるゆゑ今日も一日庭の草ひく

思い迷うときも、つらいことがあるときも、作者は常に畑にいて、
その作業によって、自らを浄化していくのである。

すばらしき歌が野良着のポケットに粉々になり竿に乾きぬ

作者の作品は、机上でつくられたものは皆無である。つねに肉体労働
のなかから汗のように滲みだしてくるのである。

 

五時間半足止めされたり無花果の葉巻作業のふた畝分か

草ノイローゼといふがあるらし街路樹の下の草さへ気にかかりをり

旅をして農を離れているときも、作者の感覚のものさしは、常に農作業と
つながっている。つくづく作者が農の人であることを裏付ける。

 

わが摘みし実綿を繰りてやうやくに4.3キロの綿を溜めたり
冬の陽に干されてわれのとんがらしごまめに使ふともらはれゆけり

自給自足とまではいかないが、母親や祖母の時代にしてきた手作業を引き

継ぎ自然のいとなみに共存するように丁寧な暮らしをしている作者。

その手作業の代価は求めない。もらった人が心から喜んでくれることだ。

 

反骨というと大仰になるが、農に生きることに誇りをもち、そこから
見えてくる世情を直視している作品も見過ごせない。風刺が効いていて
おもしろい。

村守る堤防工事はじまりて村見守り来し大樹倒さる

農政を叫びて握手求め来し政治家の手はわれより白し

幾度も剥がれては貼らるるポスターの政治家つひに川に落ちたり

 

離れて住む孫達とのかかわりも、作者らしさが滲む。

紅花に染めし毛糸で仕上げたるベビードレスにアイロンあてる

既成のものを買い与えるのではなく、自ら栽培した紅花で染めること
からはじめるというのが作者である。

三歳児と見るテレビにて種の殻かづき芽の出るわけを知りたり

幼児とおなじ視線で見るテレビからも、学びに対する謙虚さが窺える。

庭隅に僅かに雪の残れるを五歳の孫はかさぶたといふ

覗きみて窓をたたけば難聴を案じゐし孫のふりむきにけり

赤き実は檀と教へ手にゆらす明日去ぬる子らと畑をめぐりつ

離れて暮らすゆえの孫達に向ける視線も、限りなくあたたかくどこか
さびしさを帯びている。

 

忙しい農作業の僅かな時間をいとおしみ、学びのひとときを求め街に
出る作者、その移動中の電車のなかでの二首。
繊細で、五感が研ぎ澄まされ、農の歌とは違った魅力がある。

本を読む少女の靴のつま先が折々あがる朝の電車に

席をつめ座せしをみなの肩先が触れて四月の冷気つたはる

 

農作業をしているときも、そうでないときも、作者のまわりには常に
生きとし生けるもの、多くの生きものたちの息づかいが感じられる。
たとえ、それが農作物に被害を及ぼすものや、作者自身が苦手として
いるものであっても、そのかかわり方は、あたたかみがあって穏やかで
ある。

まだ誰も気づいてゐない蛍なり 橋の上にてひとりじめする

五百円ほどのものなりよくみればとぐろを巻きし蛇にありたり

死にたればこんなに小さくなるものか雨ふる外に掃き出しつつ

青光る尾をもつ蜥蜴に一本の草かけやりて畑に出で来ぬ

朝あさに啄きたべしはおまへかと網よりはづして鵯をとむらふ


気の遠くなりそうで過酷な農作業の歌も、淡々と詠う。

めらめらと熱き空気が逃げ出しぬビニールハウスの換気の時間

色のよき実に仕上げむと一枚づつ葉を後ろ手のかたちに組ます

無花果を陽にあてるため、葉を一枚づつ後ろへ移動する作業は
考えただけでも、根気のいる仕事である。「後ろ手」という表現は
無花果の一本一本と、人間同士の付き合いがあるような慈しみを
感じることができる。

痒きところ搔きやる心地に橅につく虫の卵を落としやりたり

上掲と同じように、気の遠くなるような作業の中に、無花果
木たちが、同志であるような一体感が感じられる。

オリーブは気弱な木なり夫と伐る相談するうち枯れてしまへり

こちらも、作者にとっては、見めぐりにいる樹木たちは皆、作者の
旧知であるような情景がたちあがってくる。

 

私は、作者その人とつながりがあり、いくつかのその人となりを
わたしの捉え方で捉えることができる。

『草に追はれて』は、ほんとうに中林さんらしい、中林さんそのもの
の歌集だ、と思った。しかし、彼女の深いところには、まだまだ
彼女の奔流のようなものが隠されている気がしている。

分類すれば働く事と遊ぶこと学ぶといふは遊びに属す

一日の大半を農作業の時間に費やし、たとえば短歌をつくることは
遊びに分けられるのだろうかという疑問。断定しながらも、強い疑問
符を投げかけているように感じる。

ふとおもふおもひを通すと通さぬはどちらがどれだけ強いのだらう

作者は、思いを通したのだろうか、作者の知る人は、思いを通さぬ人
なのだろうか。様々な生き様のなかで、作者は、どう生きようとして
いるのか、奔流は、どこへ流れていくのだろうか。

 

 

 

涼閑・川柳句集 「瓶からあふれだす夜空」 を読む

 歌人であったはずの「紀水章生」が、いつのまにか川柳を詠む「涼閑」と
という顔をも持ち合わせていた。
 わずか、一年半ほどの間にである。
 なぜ、この短い間に、「川柳」という十七音の短詩型が、彼をこれほどまでに
魅了したのか。
 あふれだした、そして今もあふれ続けている彼の「川柳」たちを、興味深く
読み進めた。


足跡が消される前に発芽せよ

足跡は過去のものである。やがてあとかたもなく消えてしまう運命なのだが、
それが消される前に、発芽せよと言う。 即物的なものに命が灯る瞬間である。

浮き沈みしつつ午睡の川下る

昼下がりの眠りを、ゆるやかな川の流れにたとえている。自らの体が、川と一体
となって、浮いたり沈んだりしながら、おおらかな海までの旅を体感しているよ
うに感じる。

仮眠して半覚醒の青い沼

浅い眠りから覚めたときの、夢のなかにいるのか、それとも現にいるのか、自ら
の体なのにそうではないような感覚、「青い沼」は、そんな底知れぬもののメタ
ファとしてそこに在るのだ。

樹を抱けば樹のうちにある水の音

樹という、壮大な生命体を抱いてその命の音を聞いてみる。樹と一体化したよう
な清冽なイメージが好きだ。

さびしさを奏でる前に切れた絃

何かの弦楽器を、自らの思いを込めて奏でようとしたのに、その前に弦が切れ
てしまった。不意をつかれた不全感、喪失感が漂う。

すべり台すべるあいだは空になる

「そら」とも「くう」とも、読める気がする。すべり台を滑る間が、スローモショ
ンのように切り取られて、その間、「そら」に同化し、心は「くう」となる。

濁流に身を乗りだして合歓の花

「身を乗りだして」の表現がいい。川岸に咲いている合歓の花が川面にせり出して
咲いている。濁流に、あの淡々とした合歓の花が耐えられるだろうか。その運命を
思いやる。

正しさがすこし重荷の秋の朝

こうあるべきだということが解っていても、そればかりでは押し潰されそうになる。
そこを少しはずれたり、あえて逆のことをしてみたり、だから、人生はおもしろい。

蝶の声あなたの耳を借りて聴く

選んだ句のなかでも、特に好きな一句。
蝶という繊細な生き物の声を、私ひとりでは聞きとることができない。しかし、あ
なたとならば、あなたの耳を借りてならば、ともに聞くことができるかもしれない。
繊細で慈愛あふれる一句だ。

トリミングするときそっとはずす月

風船を割らないように切り分ける

発想のおもしろさに惹かれた二句。風船は割れるのが当然と考えていることに少し
恥ずかしさと、さびしさを感じた。

別室に花カマキリを待たせ春

花カマキリは、何のメタファだろうか?花カマキリの、少しツンと澄ましたような
仕草と華やかさがイメージされる。少し自尊心の強い女性だろうか。作中主体の少
しだけもて余し気味の様子と、それでもこれからの明るい展開が春の体言止めで窺
うことができる。

わたくしという現象の交差点

「交差点」という、進む方向を自ら選び、そこから未生の時間へ進んででゆける場所。
そこから始まる「わたくし」は、一体どのように変化し、何者になってゆくのか。
自らの変貌を、自ら静観しているような一句。最後の一句にふさわしい。


 印象に残った句をいくつか引いてみた。
 どれも、自在にあふれ出て、夜空に浮遊しているような感じだ。作者自身が、これら
の句とともに浮遊している気がする。
 
 短歌と比べて、川柳は、表現の滞空時間が短い。その分、生まれるとき、ポップコー
ンがはじけるような勢いがあるような気がする。
 涼閑その人から生まれてくる言葉の数々は、今まさにポップコーンのようだ。あふれ
出すことに心地よさがあり、潔さがある。
 涼閑が魅了された川柳のおもしろさは、この辺にあるのかもしれない。

田中律子 歌集 『森羅』を読む

まどろみのなかに広がる風景のようで、なつかしく、さびしい。
どこまでも、どこまでも続く星空の下、波の音が聞こえる。
遠くにひとすじの灯りが見える。
夜汽車だろうか・・舟かも知れない
何処にむかっているのだろうか。

そんな装丁を見つめながら、田中律子歌集『森羅』を開いた。

Energy、Ambivalence、Transition、 Eternity と4章に分けられた
この歌集は、作中主体の心の揺らぎと、そこから生まれてくる波動、そして
あまりにも閑かな慟哭が、章を追って、読者の心に響いてくる。

『森羅』の大きな流れとなっているのは、病むこともなく逝ってしまった父、
病みながら、自らを見失いながら逝った母、そして、婚姻というかたちの
もつ息苦しさと安らぎ、キャリアを重ねた仕事への葛藤と幕引きについて。
作者は、毅然として向かい風に立ちながら、その何倍もの弱さや悲しみを
短歌というかたちで表白していると思った。

 

小径から裏道をぬけ白木蓮のあふれる路地に母みうしなふ

自らを見失ってゆく母と、母としての母を見失ってゆく作者。
木蓮の白さは、喪失の象徴として溢れるように咲く。

 

スペイン坂をのぼる日傘はみな白く ああこんな日も母は病みゐる

母の病むベッドのシーツの白さほどカラヤン広場の水がまぶしい

スペイン坂も、カラヤン広場も、明るく躍動感のある場所である。
そんな場所にいても、作者の脳裏には、いつも病む母がいる。
白という色は、白ければ白いほど、どこか痛々しい。

 

ナースコールいちども押したことがない母のベッドに垂れゐるブザー

心身が、もう自らのものでなくなった人達のベッドにも、ナースコールは
おかれている。事実でありながらゆきどころのない違和感を覚える。

 

二日間喪主をつとめた首すぢがパールネックレスの重さのままだ

どれほど近しい人が亡くなっても、悲しみを感じる間もなく葬儀が執り行われる。
特に喪主ともなれば、その気配りに一層の負担がかかる。ネックレスをはずした
途端、そんな重圧があったことに気付く。ネックレスという皮膚感覚をもった
素材が作者の繊細な思いをしずかに伝えている。

 

ひだりむく前島密十人の封書のなかの退職ねがひ

〈子を産んだこともないのに〉育児担当われに放たれる矢がいくつ

マウス持つかたちのままにてのひらを胸にあてたり ふたたび眠る

春立つ日しろがねいろにくもりゆくお台場の海 もう辞めようか

キャリアを積んで、重要なポストに着いたとしても、そこにはまた新たな苦悩も
生まれる。作中主体は、人事を扱う部署にいるようだ。他人の未来をも左右する
ことに関わる慄きを感じる一首目。
私性にまで踏み込んでくる社会への怒りや理不尽さも、作中主体は客観的に捉
えることができる。
しかし、四首目、そんな気の遠くなるような積み重ねにも、幕を下ろそうかと
考え始める。自らを解き放そうとする思いが、初句に窺われる。

 

遺影ばかりの部屋で抱きあふ食卓の校正ゲラが風にうごけり

梧桐があまたの腕をゆらす夜半 きみの戸籍の妻と子を消す

むかしきみの子が怖れたる青鬼はわれかも知れず はるの雪降る

きみは今調停室の朝窓に樹々のゆらめき見てゐるころか

愛する人との関係は、常に翳りを帯び、自らをも嘖んできたのだろうか。
選んだ四首、どれも私小説のように、かなしくうつくしい。

 

しよせんは独り テツパウユリにつぶやきぬひとりのときはわからなかつた

パラフィン紙のかすかなる音夜おそく居間にあなたが本を包めり

いわゆる制度としての安穏な関係になったとしても、作中主体は
「幸せに暮らしましたとさ」で、The Endにはできないのだ。
おそらく、いつも何かを問い続け、求め続けるはずだ。
一首目、独りより、ふたりのときの方が、より一層さびしさが際立つという。
はっと気付かせてくれる。
二首目、一人住まいでは聞くことがなかった自分以外の所作の音。パラフィン
の音が、やわらかいぬくもりを伝えている。

 

他に、ところどころに配される作品に、とても惹かれたものがあった。

 

フランス語でRを発音するときに洩れる空気がすこし好きなり

フランス語は門外漢だが、その印象として雰囲気がとても伝わってくる。
「洩れる空気」が官能的である。

 

死んだこと知らない守宮の脚と尾がそれぞれ別のところで動く

それぞれ別のところで動く脚と尾は、死んだことを知らないからなんだと
いう捉え方が、斬新だが哀しい。

 

シンバルは出番を待つてゐるずつと ところにより雨、のやうなさみしさ

降るのだろうか、いつ降るのだろうかと待っている雨、シンバルの出番を
待っている演奏者にとっては異論もあるだろうが、なんとなく納得できて
この歌に纏う哀感が好きだ。

 

「さくら歯科」と「すみれ歯科」ある駅前に幾何学模様の傘をひらけり

絵本の挿絵に出てきそうな情景を想像してしまう。実景なのだろうけれど・・

 

たましひが抜けてく夜のすがしさに土星の輪つかがほしくてならぬ

『森羅』につながる壮大な宇宙空間をイメージする。作中主体と、宇宙が
響き合い呼応しているかのようだ。

 

空が裂ける 雪、鳥、ひかりあふれだす この世を降りるときの速度で

前作とともに、歌集中、最も惹かれた作品。作中主体が神として、
この世に降臨するかのような荘厳で臨場感があふれる一首。

 

いつ行っても閉店セールの眼鏡屋が今日ほんたうに閉店となる

いつ行っても閉店セールの看板が掲げられていて、ほんとうに閉まるのだろうかと
思っていたら、不意を突かれた感じで、ほんとうに閉店になってしまった。
喪失感は、こんなところにもある。

 

わたくしの生んだ闇なら抱きとめるノコンギク摘みヨモギを摘んで

抽象的な前半のフレーズが魅力的だ。自らの犯した罪というのは大袈裟かも
しれないが、自らのせいでどこかに翳りを落としてしまったとしたら、それは
それで真摯に受けとめて、清楚に償い続けていきたい・・というふうに読んだ。

 

狗尾草の穂絮がわれについてくる さみしいくらいがちやうどいい日だ

狗尾草の穂絮もさみしいのだろうか。私がさみしいと知っていてくっついてくるの
だろうか。「さみしいくらいがちやうどいい日」は、甘えもぬくもりも、優しさも
少し遠ざけて独りになりたい日だろうか。また帰ってゆける場所があるから言える
言葉かもしれない。

 

非常口も公衆電話も萌葱いろこの世ぬけだすわれに月射す

そう言えば、非常口も公衆電話も、緑色だ。現世からぬけ出すための非常口、現世を
放れて交信するための公衆電話、月の光に照らされると、そんなこともできそうに
思えてくる。

 

最後に・・

ここ数日、『森羅』の世界に入り込んでしまった。『森羅』に描かれている人物像に
自分の日々を重ね合わせてもみた。
手ざわりは、さびしさがあふれている。しかし、その深くに流れている、激しさや
強さをしっかりと感じとることができた。
森羅万象、裡にエネルギーを溜めて生きてゆきたい。

 

大森千里歌集 光るグリッド より

 至近距離で、作者に一度だけお会いして話した記憶がある。
フルマラソンをし、山に登り、看護師をし、眩しいほど明るくて健康的な印象だった。
 ひとりよがりの偏見かもしれないが、そんな健康的な作者が、何故短歌なのかと疑問をもった。そして、そんな明るくて溌剌とした作者が生み出す短歌は、どんなものなのか、ひどく興味ももった。


スカートをはかなくなってもう二年 置き去りの足が砂浜にある

 

特に、何かがあってというわけではないと思う。気がついたら、そうであったという思いが不意に淡い喪失感へとつながる。砂浜は、スカートをひるがえし裸足で走りまわれた眩しい季節の象徴である。

 

「ひとかけの氷」一連は、看護師として、老齢の患者の最期を看取る一連である。
感情を削ぎ落とし、事実を伝える一首一首は、とても臨場感がある。
その中から、切り取り方がおもしろいなと思った二首。

 

葬儀屋の車のドアの閉まる音 ぱたんとおもく鼓膜を叩く

片手鍋の取っ手がはずれたその朝にふいにあなたに逢いたくなった

 

「葬儀屋の車のドアの閉まる音」「片手鍋の取っ手がはずれた」そのことに、作者の五感が鋭く反応していることに惹かれた。

 

ひらひらと蝶形骨をゆるませてシロツメクサの草原に立つ

尾骨とは岬のような骨だから湯舟にそっとからだ沈めた

アスファルトを濡らしてゆけば腰椎のひとつひとつが軋んで雨だ

 

歌集のなかには、身体の呼称が多く表現される。それらは、看護師としての醒めた身体感覚にとどまらず、繊細で詩的だ。

 

 フルマラソンを走り、山にも登り、100㎞を歩く・・その精力的な作者の迫力は、
淡々とした語り口だからこそ伝わってくる。

 

真夜中にかたつむりのごとくそろそろと足を引きずりそれでも歩く

トレランのシューズの泥を落としつつ山の匂いをもう一度嗅ぐ

ためらわず生八ッ橋はふたつ取り三十五キロの壁を越えたり

 

 そんな颯爽として、豪快な作者が、子供達に向けるまなざしは、ひどく臆病で
さびしがりやである。

 

涙ぐみ布団にもぐる子わたしの子大きな大きなみのむしのよう

玄関にゴマダラカミキリ見つけても飛んでくる子のもういない夏

拳銃のごとくバナナをかまえてた子はもういないもっさりと食む

まぶしいのが嫌いなんだと深海を君は今でも泳ぎ続ける

ハンドルを握る息子にうりずんの風は吹いたか淋しくないか

 

 しかし、母である自分を遥かに越えて旅立ってゆく息子を、大らかに見守って
いこうとする決意と、子供達に負けないように、自分自身も夢をもって生きて
いきたいと願っていることが次のような歌から窺える。

 

手を振って搭乗口へ消えた君わたしの頭上を飛んでゆくのか

ゆるやかなカーブをつけて眉を描く あの丘のような母であるため

雪渓に君が残した足跡をいつかわたしも掘り出しに行く

 

 夫君の歌も多い。夫君も、息子さんも、あまり大きな声で笑ったりしない。
そんななかで、作者の屈託のない人柄が、家族の空気をゆるやかに、風通し良く
しているようだ。しかし、夫君への眼差しは限りなく愛情にあふれている。

 

夕暮れはやさしい器 君の手がくるりとまわり亜麻仁油たらす

口開けて笑うことない夫なれど奥歯の向こうに銀河は光る

だんまりも三日ともたず靴下の穴の向こうに夫をみつける

 

 素敵な家族がいて、健康な心と体を駆使し活動できる、それでも短歌は必要‥?
と思いながら、歌集を読み進めていった。
「それでも」ではなくて、「それだからこそ」、言葉があふれてくるんですね。


最後に、作者の大らかな人柄が魅力の歌をいくつか‥


コンビニのおでんの中に浸かりたい今日のわたしは冷めたはんぺん

ソックスの五本の指が引っ込んで亀のようなり亀のまま干す

うちのねこ、みかけんかったと尋ねおり道で出会った近所の猫に

南天のあかい実ひかる夕まぐれつぎ止まりますと猫バスが来る

銀盤でトリプルアクセルする人を猫パンチしたトムはもういない

バズーカのごとき太めの大根がさりさり切られサラダとなりぬ


そして、理屈抜きで好きな歌をいくつか・・


葉脈に光があたってすんすんと空の深さを吸い込んでゆく

遮断機がふわりと上がる夕まぐれレールの向こうにそれからがある

ぽうたりと玉子の黄身が落ちたようなそんな夕暮れ立ち漕ぎをする

あたたかな春の日射しが待ちきれずカーテンレールるるると鳴った

剥がそうとしても剥がれぬときもある今はこのままレタスでいたい

夕焼けのガランス色が足りなくて空をちぎって貼るしかないな

歌集 チィと鳴きたり/丸山順司 より

 非日常を消し去り、あえて日常の些細なできごとに焦点を当てた作品が多い。
家族や、人間関係のつながりに関わる歌も極めて少ない。
 これほどまでに、日常の歌を、これ以上力の抜きようがないというくらい気負いなく
詠いながら、これほどまでに、世界が広がり、せつなさや、さびしさをも表現できるものなのだと読み進めながら思った。

 

  蜘蛛の巣にかかれる蝉のもがきつつ飛び去りしときチィと鳴きたり

 歌集『チィと鳴きたり』の、題名になっている歌である。
 繊細でいて強靱な蜘蛛の巣に、身なりは結構大きい蝉がとらえられ、もがいている様子は無様であり、ペーソスさえ感じる。必死の体で、飛び去ることができた蝉は、解放感にあふれているはずなのに、発した声は、小さな「チィ」だけであった。
 自然のなかで、日常に繰り返されている情景なのに、一匹の蝉が、たまらなく愛おしいそう、思わせてくれる一首だ。

 この歌集には、上に挙げたような歌がたくさんある。
 誰もが見て、誰もが感じているはずだけれど、誰もがあたりまえのように通り過ぎているささやかな日常のひとすみをズーム化し、目の前においてくれる。

 

 太刀魚のごとく体を横たへて今日はおしまひ「保存」せず寝る

 今日もなほぶらさがりをり路地裏の電信柱に手提げの袋

 目も鼻も口も昨日と同じ位置 浮腫める顔をじゃぶじゃぶ洗ふ

 スマホスマホスマホ、マスカラ、スマホスマホ、一人は眠る 向かひの座席

 五円玉いくつあるとも自販機に缶コーヒーを買ふことならず

 フライパン広しや広し片隅にサイコロステーキ四個ほど焼く

 のぞき見を誘ふやうなり戸に隙をつくりしままに人の声する

 窮状のさほどにもなき嘆きには「難儀やなあ」と相づちを打つ

 もあもあと今日も暑きに何がさて買ひに行かむかトイレの草履

 一列に人立ち並び一列の余白を運ぶエスカレーター


 軽妙でありながら、どこかペーソスがあり、ハッと気付かせてくれる歌たちに
ゆっくりと立ち止まり、あらためて、共感以上のものを感じた。


 苦瓜の身をくり抜けばポリネシア海渡りゆくカヌーが二つ

 気を抜かばポロロッカのごとく押し寄せむ虚しさのありそろりと暮らす

 「ポロロッカ」は、潮の干満によって起こるアマゾン川を逆流する潮流。

苦瓜が、ポリネシアの海を渡る舟になったり、日々の思いがアマゾン川にまで至り
作者の想像力は自在だ。


「蝶のごとく」の一連は、この歌集の中では異色だ。性愛の歌が多い。

 蝶のごとく体つなぎて飛びゆけり波しづかなる夜の海なる

 すでに何も生むはなけれど国生みのごときわざ為すくるほしきまで

 伊勢物語「狩りの使ひ」を膝に置き論じ合ひたりまぐはひののち

性愛のいとなみについても、知的で、自らの行為を俯瞰しているような客観性がある。
国生みという、壮大で神聖なテーマであったり、伊勢物語「狩りの使ひ」が引用されたり・・。
伊勢物語「狩りの使ひ」が、どんな内容だか解らなかったので調べたりした)
「狩りの使ひ」を膝に置き論じ合える関係、しかも、性交ののち・・。男女の契りについてのやりとりだとしても、意表を突く引用であった。

 

 マグリットの空と雲あるガラス窓 チキンラーメンほとびてゆけり

 三日目にはひりて昼に残りたるカレー食ひをりゴーギャンの顔で

 死の予感さへも纏ひて抱き合ふシーレの女男のうねれる姿態

 ベッドより腕をだらりと垂らしては「マラーの死」などとつぶやいてみる

 森の中の泉へ若き女らがわがサテュロスの手をとり誘ふ

 絵画にまつわる歌も多い。遠い日に描かれた絵画が、作者のなんでもない日常に
すべり込んできて、作者と絵画の主人公達が交錯し、軽妙な情景をつくりだしている。

 

 最後に、もうひとつ、好きな歌を挙げておく。

 まつ黒なテレビ画面にエプロンをはづすあなたの影を見てをり

 エプロンをはずすという些細な行為が、ひどく官能的に思えるのは、明るい陽ざしや灯火のもとで、直接あなたを見ているのではなく、電源を消した真っ黒なテレビ画面という閉じられた空間のなかにあるあなた、しかも影を見ているからである。エプロンをはずしているという行為も作者の想像力のなかにあるものであって、その場の空気感から、たぶんそうしているはずだという確信のもとに詠まれていて、作者とあなたとの濃い関係性も窺うことができる。
 逆の読み方として、影はあなたの暗い部分を表現していて、作者の知らないあなたを垣間見たような寂寥感を表現したのかもしれない。

 いずれにしても、魅力的な一首だ。

光のアラベスク/松村由利子 歌集より

てのひらに森を包めば幾千の鳥飛び立ちてわが頬を打つ


 森は、南の島の熱の籠もった森、深く深く、数多の生き物を内包させた森・・
この島に移り住んできたという経緯が、未だてのひらに包みきれない森に真向かう作者のやや臆する心情があるのでは・・深読みかもしれないが結句からそんなことを思った。


夢は舟 会いたい人をひとりだけ乗せて夜明けの海を漕ぎくる

 社会詠や、時事詠が主流と思っていた作者の相聞歌に、ところどころで出逢って、嬉しい驚きを感じる歌集。
 会いたい人は、逢えない恋人かもしれないし、もうすでに亡き人かもしれない。
たったひと夜の夢が、たったひとりの人を運んでくる。それは、夜明けの海を静かにすべるように近づいてくる舟よりほかにない。


永遠を生んでしまった女たち水の匂いを滴らせつつ

「永遠を生む」ということは、有り得ないと思う。ただ、子を産み育てるという気の遠くなるような繰り返しのなかで、女とは、限りない未来へのエネルギーをはらむ唯一の存在ではないかと思う。そこには、羊水や汗、月経など、生々しい水の匂いがいつもつきまとっている。

 

夜の耳しんと立てれば流れ込む遠い呼び声樹下のささやき

 作者自身が、獣となって彷徨っている感覚だ。心地よい孤独感のなかで欲しているのは、懐かしい人々の声や、愛する人の囁きなのかもしれない。


喉渇く抱かれたくなる雨降らす暗みゆくわが森の混沌

 手をのばせば、相手の体温を感じられる距離ではない存在へのひそかなあこがれ。
雨は心情を素直にしてくれる。しかし、雨はまた、自らの森を暗ませ混沌とさせてゆくのだ。


羽繕いしているわたし明け方の雨はやさしく夢を濡らしぬ

小鳥来てそっと告げたりあなたしか渡れぬ橋が今宵架かると

 ここにも、明け方の夢・・。長い一夜の夢を潜り抜けてきて、タイムトンネルから
抜け出したような感覚。そしてまた、夜へ浮遊していくような・・タイムフライヤー的な二首。


世界中の人が使えば地球ひとつ終わる温水洗浄便座

 温水洗浄便座を世界中のすべての人が使うと、地球環境が破綻してしまう。
使えない人達がいるからこそ、成り立っているという視点。
日常の何気ない素材が、鋭い切り口として立ち上がってくる歌。


深海に死の灰のごとく降り続くプラスチックのマイクロ破片

インド製ユニクロのシャツのほつれ糸手繰れば今日も少女売られる

 この二首も、プラスチックのマイクロ破片や、ほつれ糸という、見過ごしてしまいそうな素材が、実は、とんでもなく大きな社会の闇の問題に繋がっているという視点。
冷静な観察眼。


ヒトの乳ネットで売られああ今日もクール宅急便の確かさ

春・卵子・母乳・わたくし 売買の許されぬもの抜き出しなさい

 良くも悪くもネット社会に生きる私達は、その渦のなかに身をおいている。たましいを売り渡さないために、自分はどう生きるかということを問うていかないと・・。


「犬の耳」みな折り戻し愛犬を手放すように本を売りたり

 印象に残ったページを折り返している「犬の耳」、それぞれを丁寧に折り戻し
本を手放す。大切な犬を売り渡すように・・

 

全員が「いいね」している戦争をあなたは否み続けられるか

 同じように思う事がある。日常に埋没している間に、考える隙も与えられないで
どんどんどこかへ運ばれていってるのではないかという不安・・
みんなが平和だと言えば、そうなんだろうなと思ってしまう現世。


火の匂いさせてあなたは踏み入れよ緑滴るわたしの森へ

そう、私、若葉茂らせ揺れていた。燃やされること恐れはしない

 やわらかな若葉に包まれて、穏やかなときを過ごすのは、それはそれで平穏だ。
しかし、それだけでいいのかと自らに問いかける自分がいる。もっと激しく、もっと強く、もっと高みへ・・たとえ傷ついたとしても、そう願う自分がいる。


ねむいねむい季節があった種子ひとつ水に沈めて見守っていた

 種子のひとつを水に沈めて、発芽するまでを見守る。
とてつもなく長い時間の経過・・。たとえば、それまでにすりきれそうな時間と対峙してきたとしたら、この無為の時間は限りなくぜいたくな時間だ。


草原に置かれた銀の匙ひとつ雨を待ちつつ全天映す

 銀の匙は、何のメタファだろうか。銀の匙と、あまりにも大きすぎる全天との対比が不思議な空間をつくりだす。小さな銀の匙プラネタリウムのようだ。
銀の匙は、作者自身で、雨に打たれることによって始まる新しい世界を希求しているようにも思える。


静かなる入り江へ舟を曳くように沈思あるべし小さく揺れつつ

冒頭に、、

夢は舟 会いたい人をひとりだけ乗せて夜明けの海を漕ぎくる

もあり、歌集のなかで、舟は、つねに作者の裡で揺れ続け、様々な感情を運び続けている。

 凪のひとときに身をおくときであっても、常に、どこかあやうき世界とつながり、水底に激しいものを滾らせている。
そんな印象の歌集であった。

 

歌集 苺の心臓/上澄 眠 より 

なんだろう・・大人になって、子どものときに使っていたおもちゃ箱を
薄暗い場所から、ひっぱりだしてみる
次から次へと時間も忘れて、ひとつひとつ手にのせてみる

おもしろくて、なつかしくて、やがてせつない・・

この歌集は、そんな感じだ・・ 


菜の花や月は静かにおとうとのえらばなかった道をてらして

冒頭は、蕪村の俳句、「菜の花や月は東に日は西に」をなぞらえたものだと思います。「えらばなかった道」は、あえて「えらばなかった」はずで、後悔はないはずである。
しかし、そこに月の光があたることで、複雑な思いが過ぎっていくのである。姉として・・。月光は、太陽光とは違う感じがあって一首を淡々と包んでいる


歯がいっぱい入っていると思ったら全部ちぎれた消しゴムだった

おもちゃ箱と感じた所以だ。どきりとして、おもしろくて、やがてなつかしい・・

 

横たわりふとんをかける秋の夜にわたしを埋葬するようにして

この作者は、自分自身を抜け出して、自分と向き合ったり、覗き込んだりする作品が多い。この一首もそうだ。自分自身を埋葬するという表現が意表をつく。

 

明日までに世界が終わればいいのにと小学生は何度も思った

子どもの頃は、苦手なことがあったり、友達と喧嘩したりすると、学校へ行きたくない、世界が終わってしまってほしいと、真剣に考えたものだ。それが世界のすべてであったから・・

 

読みながら食べたいのだがコンビニに寺山修司に合う菓子がない

そうですね・・コンビニにはありそうもないですね。昭和の時代の駄菓子屋さんにならあるでしょうか。

 

春深しかべのかがみがかたむいてもわたしはかたむかなくて

春爛漫の季節なら、もしかしたら、鏡とともに、私も浮遊するかもと思ってみたけれど、やはりまっすぐに立っている私だった・・。
それだけのことでもいいけれど、もっと深いところの話かも・・たとえば、社会の中での自分の有り様、生き方。

 

洗面台の鏡の前で無防備に電気を消したら私も消える

「無防備に」消すと消えてしまう。用心深く消すとどうなるんでしょうか。自分自身にしっかり向き合わないと・・存在感なんてそんなものだよと言われているような。

 

じぶん自身の説明しにくい悲しみにしか涙が出ない たかく木蓮

とても共感できます。そして、手の届かないようなところにある木蓮・・ぴったりです。

 

はらまきをパジャマの上にしたままでこどもが朝のゴミ捨てにくる

何気ない日常の、こんなところに平和はあるんだな・・とつくづく・・

 

くちびるから伝わる体温またひとつ寂しい遊びをおぼえてしまった

キスをこういう感覚でとらえることが新鮮・・やや諦念があるけれど

 

神様のよだれのようにあたたかい雨あの街を守ってください

神様のおひるごはんの食べのこしみたいな雲とむらさきの空

神様は、とても親しみやすく、やんちゃで、わたしたちの身めぐりを浮遊しているのですね。


公園まで歩く途中で雨が降る あなたの名前の“さ”の音が好き

降り始めた雨が恋人達を濡らしていく・・あなたの名前のサ行のような音で・・

 

傘をさすまでもない雨 顔にあたるこの感じ微微微微微炭酸

ちょうど、今の季節のような春先の雨でしょうか・・微微・・・は、少し鼻につくところもあるけれど、結句の微炭酸ですっきり!

 

スプリングコート暑くて手に持てばあなたと出会った春の重さだ

こちらも、今の季節の頃でしょうか。春の重さは、あなたと出会ったという事象への重さにも通じますが、「暑くて」に、やや倦怠感が・・

 

「水濡れがありますから」と買い取ってももらえななかった『こ々ろ』と帰る

『こ々ろ』は、夏目漱石の本ですが、すなわち自分自身の心そのもので、「水濡れ」や汚れは、やはりあるもので、自分は、自分の心と向き合ってゆくしかないということ。

 

高木ブーに枯れ葉どさどさ落ちてくるコントをいつも思い出す秋

ドリフターズの中で、たしか高木ブーは、台詞が少なく、いつもこんな感じの演技が多かったように思う。ペーソスを感じる歌・・

 

八月の朝だコップを洗うとき最初に底にとどく中指

まだたべないところを持って食べるピザ さいごは指のあとごと消える

作者によって、気付かされたことがたくさんある。そして、こういうふうに詠えるのだということを教えてもらった。

 

青葉闇 そんなそこそこ幸せでいいのかよって踏切が鳴る

幸せの定義なんて、ほんとうにとりとめがない。自分自身が、幸せって思っただけで、そのまま幸せなんだと思う。
しかし、光のあたらない葉陰のように自分のなかの影を見ることがある。私はこのままでいいのか・・

 

ぽこあぽこぽこあぽこ とあわがでる水槽ずっと見る春休み

poco a poco は、音楽で速度標語に添える語だそうだ。「少しづつ」というような意味らしい。
春休みの、ぽわあんとした緩慢な感じがとてもよく出ていておもしろい。

 

されたこと、されたこと、されたことばかり お前が、やった、ことは、何だ

メディアが伝えることは、ほんとうに、責任問題が追及される「されたこと」が多い。リフレインのあとの結句が突きささってくる。

 

はやく帰って続きが読みたかっただけ ただそれだけで生きていただけ

子どもの頃、図書館で借りた本を、読み始めて、下校時刻になってしまって、早く、早く続きが読みたいと帰りを急ぐあまり、友達との約束をすっぽかしたり、邪険にしてしまったりして、「なんか嫌な子」と思われてしまう・・そんな思い出がある。
しかし、子どものころは、それが世界の全てであって、それだけで生きていたんだって、今、思う。