ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

中林祥江歌集 『草に追はれて』を読む

歌集から、土のにおいがする。
畑をわたっていく風を感じる。
陽のひかりや、生きものたちの息づかい、ありとあらゆる自然の
いとなみを感じることができる。

作者は、土まみれになりながら、農に生き続けている人である。

 

考へて思ひあぐねし時いつも無花果畑に聴いてもらひぬ

わが憂さが指の先より抜けるゆゑ今日も一日庭の草ひく

思い迷うときも、つらいことがあるときも、作者は常に畑にいて、
その作業によって、自らを浄化していくのである。

すばらしき歌が野良着のポケットに粉々になり竿に乾きぬ

作者の作品は、机上でつくられたものは皆無である。つねに肉体労働
のなかから汗のように滲みだしてくるのである。

 

五時間半足止めされたり無花果の葉巻作業のふた畝分か

草ノイローゼといふがあるらし街路樹の下の草さへ気にかかりをり

旅をして農を離れているときも、作者の感覚のものさしは、常に農作業と
つながっている。つくづく作者が農の人であることを裏付ける。

 

わが摘みし実綿を繰りてやうやくに4.3キロの綿を溜めたり
冬の陽に干されてわれのとんがらしごまめに使ふともらはれゆけり

自給自足とまではいかないが、母親や祖母の時代にしてきた手作業を引き

継ぎ自然のいとなみに共存するように丁寧な暮らしをしている作者。

その手作業の代価は求めない。もらった人が心から喜んでくれることだ。

 

反骨というと大仰になるが、農に生きることに誇りをもち、そこから
見えてくる世情を直視している作品も見過ごせない。風刺が効いていて
おもしろい。

村守る堤防工事はじまりて村見守り来し大樹倒さる

農政を叫びて握手求め来し政治家の手はわれより白し

幾度も剥がれては貼らるるポスターの政治家つひに川に落ちたり

 

離れて住む孫達とのかかわりも、作者らしさが滲む。

紅花に染めし毛糸で仕上げたるベビードレスにアイロンあてる

既成のものを買い与えるのではなく、自ら栽培した紅花で染めること
からはじめるというのが作者である。

三歳児と見るテレビにて種の殻かづき芽の出るわけを知りたり

幼児とおなじ視線で見るテレビからも、学びに対する謙虚さが窺える。

庭隅に僅かに雪の残れるを五歳の孫はかさぶたといふ

覗きみて窓をたたけば難聴を案じゐし孫のふりむきにけり

赤き実は檀と教へ手にゆらす明日去ぬる子らと畑をめぐりつ

離れて暮らすゆえの孫達に向ける視線も、限りなくあたたかくどこか
さびしさを帯びている。

 

忙しい農作業の僅かな時間をいとおしみ、学びのひとときを求め街に
出る作者、その移動中の電車のなかでの二首。
繊細で、五感が研ぎ澄まされ、農の歌とは違った魅力がある。

本を読む少女の靴のつま先が折々あがる朝の電車に

席をつめ座せしをみなの肩先が触れて四月の冷気つたはる

 

農作業をしているときも、そうでないときも、作者のまわりには常に
生きとし生けるもの、多くの生きものたちの息づかいが感じられる。
たとえ、それが農作物に被害を及ぼすものや、作者自身が苦手として
いるものであっても、そのかかわり方は、あたたかみがあって穏やかで
ある。

まだ誰も気づいてゐない蛍なり 橋の上にてひとりじめする

五百円ほどのものなりよくみればとぐろを巻きし蛇にありたり

死にたればこんなに小さくなるものか雨ふる外に掃き出しつつ

青光る尾をもつ蜥蜴に一本の草かけやりて畑に出で来ぬ

朝あさに啄きたべしはおまへかと網よりはづして鵯をとむらふ


気の遠くなりそうで過酷な農作業の歌も、淡々と詠う。

めらめらと熱き空気が逃げ出しぬビニールハウスの換気の時間

色のよき実に仕上げむと一枚づつ葉を後ろ手のかたちに組ます

無花果を陽にあてるため、葉を一枚づつ後ろへ移動する作業は
考えただけでも、根気のいる仕事である。「後ろ手」という表現は
無花果の一本一本と、人間同士の付き合いがあるような慈しみを
感じることができる。

痒きところ搔きやる心地に橅につく虫の卵を落としやりたり

上掲と同じように、気の遠くなるような作業の中に、無花果
木たちが、同志であるような一体感が感じられる。

オリーブは気弱な木なり夫と伐る相談するうち枯れてしまへり

こちらも、作者にとっては、見めぐりにいる樹木たちは皆、作者の
旧知であるような情景がたちあがってくる。

 

私は、作者その人とつながりがあり、いくつかのその人となりを
わたしの捉え方で捉えることができる。

『草に追はれて』は、ほんとうに中林さんらしい、中林さんそのもの
の歌集だ、と思った。しかし、彼女の深いところには、まだまだ
彼女の奔流のようなものが隠されている気がしている。

分類すれば働く事と遊ぶこと学ぶといふは遊びに属す

一日の大半を農作業の時間に費やし、たとえば短歌をつくることは
遊びに分けられるのだろうかという疑問。断定しながらも、強い疑問
符を投げかけているように感じる。

ふとおもふおもひを通すと通さぬはどちらがどれだけ強いのだらう

作者は、思いを通したのだろうか、作者の知る人は、思いを通さぬ人
なのだろうか。様々な生き様のなかで、作者は、どう生きようとして
いるのか、奔流は、どこへ流れていくのだろうか。