研ぎ澄まされた修辞に息をのみ、この感動を伝える言葉がなくて悲しい。せめて、一連、一連の重さと深さを、大切に読み継いでいきたいと思ったら、備忘録のようになってしまった。
[鶫]
鶫(つぐみ)とは鳴かざる鳥と書かれおり殺されるときは鳴くのだろうか
百五十万の死をおもえども思われず人間の髪の数は十万
冒頭から、ショッキングな一連だ。
一首目、つぐみ→口をつぐむ→つぐまされている に思いが及ぶ。
二首目、メディアによって知らされる死者数、恐れおののきながらも、その真実は理解していないのだという自問自答。髪に突き刺すような迫力。
[実朝の墓]
ゆうぐれはどくだみの香の濃くなりて蛇腹のような石段のぼる
大河ドラマの『鎌倉殿の十三人』が想起される一連。鶴岡八幡宮の大階段に限定しなくても、その石段の連なりに蛇が身をくねらせているようなひんやりとした不気味さを感じる。
[地上の声]
イラクには棺も運ばれゆきしという 隊員の眼に見えぬところに
イラク戦争の自衛隊派遣に反対するデモに関わる一連。棺が用意されていたということが、派遣の局面を顕わにしている。
[あばら家]
黄の蝶がぎざぎざに宙を飛びており家とは秋に年を取るもの
住んでいる家が老いてゆくというのは実感できるが、秋に年をとるというのは、体感が影響していてなるほどと思う。
[渋民まで]
ガラス光る記念館にて見つめたり啄木の死後に産みたる節子
石川啄木の生地「渋民村」を訪れた際の一連だが、「辺野古」や、新聞歌壇のことが差し挟まれていて、一連の流れに変化を持たせている。
[朝の池」
朝の池ただよう鴨の心臓は水面よりも下にあるのか
誰もが見ている光景だけれど、そう気づいてしまったときから、自らが冷たい水に浸かっているような体感がある。
[城の水源]
倒れたる墓は直角をむきだしに雨に濡れおり朝の山道
亡くなった人が眠ると言われている墓石が、地震で倒れる事によって荒々しい局面を見せているというのが印象深い。
[雪とアレント]
東京に殺されるなよ 東京を知らざる我は息子に言わず
旅立つ子ども達に親としてできることは限られている。それでも伝えたい思いはあるが、東京で暮らしたことのない身は、東京を語れないのだ。
[火のそばに]
誰か食われるあいだに遠く逃げゆくは草食獣の当然にして
「共謀」という言葉をキーワードにして、イエスの弟子ペテロの裏切りや、ナチスの大量虐殺に繋がってゆく一連。人は草食獣ではないけれど…。
[オオムラサキホコリ]
紙が足りぬ、紙が足りぬと叫ぶごと細かき字なり熊楠の字は
紀南の南方熊楠の生家を訪れた折の一連。南方熊楠の精力的な探究心を端的に表す上句に臨場感がある。紙をはみ出すほどに書かれた細かい文字が想起できる。
[龍眼]
印刷のミスがあった
申し訳ありません、を繰り返すたび黒きソファーのぎしぎしとなる
仕事上の、やりきれない感情がまとわりつくような一連のなかで、古の王が所望し、配下が海を渡ってまで探した龍眼という果物を食べれば、その疲れを癒やすことができるのだろうかなどと思ってみる。
[光る夕立 平成じぶん歌]
平成元年に二十歳となり、そののちの著者の半生を綴る一連。それぞれの一年のなかには、数限りないドラマがあったはずなのに、それらを地下茎のように覆い隠して一首一首が屹立していて平成という時代の流れのなかに生きたじぶんを表現しているのがおもしろい。
[梨の汁]
山膚の黒く流れてゆく窓に「まだ無事」というメールが灯る
母の死に逢うための旅の途中、夜の車窓の暗さ、心細さを背景に灯るメール。「まだ無事」、その簡潔な表現と明るい画面に、言いようのない感情が湧き出てくる。
[放生院]
夕影の貼りつく襖を抜けてゆく ふりかえったら母がいない
結句の字足らずが、喪失感を増幅させる。
[野宮]
古(いにしえ)は衣(きぬ)を着しまま抱き合いし折り紙の鶴重なるに似て
「折り紙の鶴重なる」という見立てが、紫式部が生きた時代へと想像がかき立てられ、衣を着しままというのも刺激的だ。
草枯れて石多き道 昼にのみ春は来たりて夕べに去りぬ
春が昼にのみ来て、夕べにはいなくなってしまうという春を少し不器用なひとのように擬人化した表現が印象深い。
[美馬牛]
学校に粘土を売りにゆく人と話せり粘土はぽってりと冷ゆ
組織に身を置いたからには、個人の考えや感情は飲み込んで、いわゆる主流というものに流されていかないとやっていけないという風潮があった。粘土という、あのひんやりとした質感と、感情を裡に包み込んでしまう量感を思う。
粘土を売りにゆく人を受け入れる側の立場にいた私…。
[夜業]
春の月にふくらむような便器かな工場裏に六基がならぶ
「納期が遅れている印刷所の手伝いにゆく」という詞書きが、冒頭の一首にある。町工場のような印刷所かと思われる。身体はくたくたに疲れているのに、納期に間に合わせるというひとつの目的のために、数人が力を合わせて、若き日の文化祭準備のような?!高揚感を感じる。
[遠き火、近き火]
沖縄戦に焼き潰された屋根だった同じ火にして同じ火ならず
ガラス戸の向こうを滑る水滴とうちがわの露 冬が来ている
訪れて時を置かず首里城が焼けた。沖縄戦に焼き潰された屋根が、今度は戦火ではないけれど、再び焼けた。自らにとって、戦火は遠い火なのかという問いが投げかけられる。ガラス戸に守られ、外は寒いけれど、内側にいる自分はぬくぬくとしているように…。
[うしろむく人]
ボーカルが死にしバンドの残りいるごとき明るさ冬の林は
「画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ」-第一歌集『青蟬』-この短歌を読んだとき、なんという欠落感の表現の仕方だろうと、もう何十年経った今でも心に刻まれる一首なのだが、そこに響き合うような歌だと思った。
[紅蜀葵]
忘れつつ思い出しつつ人の死を生きてきたりぬ 紅蜀葵(こうしょっき)咲く
コロナ禍での様々な場面を詠んだ一連が続く。著名人も何人か亡くなり、ウイルスが間近に迫っていることを実感した。近親者はもちろん、そうでない会ったこともない著名人にしても、生きている者は、その人の死によってその人の生きた時代や文化を思い、その人の生き様に思いを馳せながら生きてきたのだなあと思う。
[眼状紋]
ここは三条麩屋町(ふやちょう)あたり ゆうやみの繋ぎ目として外灯が立つ
下句が、とても印象に残った歌。ひとつの外灯を過ぎて、明るさがやや心許なくなったころ、次の外灯が現れる。そうか、外灯はゆうやみの繋ぎ目なんだ…。麩屋町という、すこしぼんやりした町名がその雰囲気を際立たせている。主体が、ゆっくりと歩いていているということも想像できる。
[人形器官]悪について
慰安所の扉に続く列がある 水溜まりを避けて途切れたる列
たたかいとたたかいのあいだ 尖りたる器官を持ちて男は並ぶ
衝撃的な一連だ。これがフィクションではないということを記憶せねばならない。
[十字路]
支線から冬に入りゆく駅ならむ七味の赤がかき揚げに散る
本線から支線に変わる地点にある駅なのだろう。支線から冬に入ってゆくという感覚、五感を研ぎ澄ませているのがわかる。七味の赤も、視覚として刺激的である。
[焼餅坂]
桜から出(い)でて桜のなかに入る橋が見ゆやがて我を乗せたり
就職して、親の元を離れ、一人住まいを始めた娘に関わる一連の冒頭にある歌。
遠近感が不思議な感じだ。実際は、自らが橋まで行ったのだが、遠くに眺めていた橋がやってきて、自らを乗せた感じだ。
二十六年過ぎてしまいぬ大根を擂りつつ二人暮らしにもどる
一連の最後におかれている印象で、より心情的なものが増すが、この一首のみ取り出しただけでも、充分に情景が伝わってくるから凄い。「大根を擂りつつ」が絶妙だ。
[組織図]
古着屋に人のからだを失いし服吊られおり釦つやめく
退職届を出し、身辺の整理をする一連。
一時、誰かが身につけていた衣類から、その人の身体が抜け落ちて衣類だけが残る。組織という拘束された衣服から、自分の身体を取り出すことを思う。
[雪の偶然]
因果はいつも認められずに雪暗(ゆきぐれ)のたまたまあなたが病んだだけだと
氷雨降る 人をあきらめさせるため〈偶然〉という言葉使いぬ
歌集名となっている一連。
因果応報、日頃の行いが悪いから、悪い結果になったのではないということは理解していても、では、偶々病んだのかという答えも、どこか理不尽な思いが残る。あなたが悪いのではないよ、偶々だよと言って、仕方ないねとあきらめさせて来たのか。
-〈偶然〉とは何なのか。それは哲学的なテーマであり、短歌で答えを出せるものではないが、世界に問いかける形で歌ってみたいと思った。- 著者のあとがきである。
[銃床]
ウクライナ侵攻を身辺の視点から詠んだ一連。著者は、日本にいて、戦渦のなかに生きているわけではないが、これだけ緊迫感のある作品をつくれることに驚いた。それは、やはり一首一首が、著者の日常の具体と繋がっていることに説得力をもつからだろう。
銃を配ることなき日本 鉄橋の冬の手すりを握りたるのみ
焼け跡を歩きて溶ける靴底の臭いは想像できる できるか
キーウに居る我をおもえり眼鏡がまず砕けて見えぬ銃口に向く
[耳の数]
豊臣秀吉の朝鮮侵攻によるこのような遺構があることを、一連から知った。自ずとウクライナ侵攻に思いは及ぶ。
暗緑のなかに白抜きされているどくだみの花 坂に踏み入る
朝鮮侵攻の折に、戦功のしるしである首のかわりに朝鮮軍民の鼻や耳を削ぎ塩漬けにしたものを日本へ持ち帰ったという。その経緯を知ると、この「白抜き」という言葉にはっと息を吞む。
[西大寺]
大和西大寺駅前に、安倍元首相が襲撃された事件の一連。
数秒後ひかり喪う眼(まなこ)なり「考えるのでありま…」銃声
死ぬことを信じられずに死ぬことの 曇天が目に映りしままに
「死ぬことを信じられずに死ぬ」、戦渦のなかの人々も、長く国の中枢にいた人も、自らの死を信じられずに死んでいくのだ。それは、偶然とあきらめるしかないことなのだろうか。