ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

田村穂隆歌集『湖とファルセット』を読む

そうか、僕は怒りたかったのだ、ずっと。樹を切り倒すように話した

 

歌集『湖とファルセット』の帯にある一首である。

いつからだろうか。作者のなかにある沸々としたマグマのようなエネルギー、
そのエネルギーの来し方も、行く先も見えないまま、ただそのエネルギーを
自らの身体に内包させてきた長いながい年月・・。

今、そのエネルギーは、切っ先の鋭い数多くの短歌というかたちとなって
この歌集が編まれた。

「怒り」は、身体のなかに溜め続けてきた途方もないエネルギーであり、
「樹を切り倒す」ほどに、歌は生まれ続けているのだ。


田村穂隆の名前を知ったのは、塔誌の若葉集の頃からである。
身体感覚を誰も詠わなかった感覚で表現する短歌にひどく惹かれた。それからは
彼の作品が掲載されている雑誌等も積極的に入手して読んだ。

今回、歌集というかたちで、田村穂隆の人間像を目の当たりにすることになり
その喘ぎや、悲しみ、怒りに素手で触れているような感覚に陥った。
ひりひりとした感覚のなかで、咆哮のような作品群に触れながら、そのどれにも
今を精一杯生きたいと願う作者の息づかいをつぶさに感じたのである。

 

田村作品には、自らが樹木であるかのような、樹木と対話しているような作品が
多い。

青空の破片を浴びて凄惨に光を増してゆく樹氷

自らが、内なるものを尖らせ続ける樹氷であり、眩しすぎる外界を受け入れられず
それでもその明るさを反射させて、ならばいっそ凄惨に輝いてみようという決意。

 

感情に触れればまるで樹皮のよう燃やすのならば大きな森を 

内なるものの激しさに火をつけて、燃やしてしまいたいという衝動

 

水底に朽ち果ててゆく樹のようなそこに悲しみ棲みつくような

あるときは、その激しい感情をも、水底に沈めて静かに眠らせてしまいたいという
思い。

 

両脚にこころを溜めて人間はすこし身じろぎできるだけの樹

ときに抗いながら、ときに諦念のなかで、森羅万象のもとで、人間の出来うることは
なんとささやかなのだろうかという思い。


祖父は父を父はわたしを殴って許されてきた

最近の父は朗らかわたくしも朗らかなのに伸びる氷柱

パンクした自転車を押すこうやって父の車椅子もきっと押す

父には父の記憶の海よいつからか傷は豊かな水深となり

歌集には、実に多くの「父」が詠まれている。
「男らしく」「男として」「男ならば」、日本古来の「男」としてのイメージは
おそらく私自身も含めて、「日本男児」につながる類いのものだったと思う。
そして、作者にとって、それは「父性」そのものだったのではないだろうか。誰もが
疑わず受け入れているように見える「性」というものを諾うことができずにいる自分。
その葛藤が、父との関わりのなかで顕わになっていったのかもしれない。

上掲の四首は、そんな葛藤のなかからも、年老いて、幼いころの作者には絶対的な存在
であった「父」とは、また違う関係性をもつようになり、「父」の存在を静観出来るよ
うになっていく過程を窺うことができる。

 

「男性」「女性」の在り方もそうだが、恋愛して、結婚して、「女性」は、子どもを
産んで、それが当たり前の幸福、それができない者は、何かが欠落しているかのような
考え方、おそらく今まで殆どの人々がそんな考え方を受け入れて、この国の歴史は繰り
返されてきたのだろう。
自らが何か違う、どこか間違っていると思いながらも、声を上げることができずに、自らを苛んできたのだろう。


平らかにプールの底のような胸、圧されてひかりまみれの溺死

わたしにもキウイにも毛が生えていて刃を受けいれるしかない身体

海綿体、許可なく膨れあがるのはおやめ お前は斧ではないよ

憎むなら毛深い闇を でもきっとわたしのなかのヘテロフォビアは


自らの感情と肉体はひとつにならず、そのことに抗うすべもなく、ひりひりとした感情は吐露されてゆく。


弁当箱でクラスメートを殴った日、連休明けの白い教室

眠すぎて泣きそうになる僕は僕に愛されなかった子どもだから

医師からは意志が脆弱だと言われ 確かにそうだ 通えなくなる

にんげんは好きだ人間関係は嫌いだ ペットボトルを洗う

僕は誰の灯台だろうまっしろなシャツをなるべく汚さぬように

医師からは意志が脆弱だと言われ 確かにそうだ 通えなくなる

よく冷えた唾液を舌で泡だててわたしはがまんできるいきもの


生きづらさとよく言われるけれど、何故自分自身の感情に素直になろうとすればするほどそれを拒む力が、周りから働くのだろうと、いつも思う。
感情を押し殺して、あるいはやり過ごして、おだやかに笑うすべを身につけた者だけが
生き残れる世の中は、少し違うといつも思う。

田村作品に触れていると、自分自身の暗闇の部分が見えてくる。

肉体であれ、感情であれ、誰もが自分自身を全面的には好きにはなれない。その好きになれない部分をともなって生きていくことの息苦しさ。
一首、一首に立ち止まりながら、あのとき、あの場面で感じた怒り、自らで蓋をしてしまうしかなかった悲しみ、何処へ、誰に伝えていいのかわからなかったさびしさなどが
ほろほろと溢れてきて泣きそうになった。

 

田村作品の精神世界は、一首一首がジグソーパズルのようだ。自分自身が、何者であるか何処へたどり着こうとしているのかわからないまま、不器用に、試行錯誤を繰り返しながら断片を嵌め続けているように思う。
やがて、すこしづつ、それが自分のかたちとなってゆくことに、ひかりを見いだしながら。
このことは、彼に限られたことではなく、私自身にも、そして、この歌集を手にした多くの人達にも当てはまることだと思う。

初めから決められたかたちなどないジグソーパズルである。完成ということがないのかもしれない。それでも、やはり私たちは、日々その断片を嵌め続けてゆくのである。

 

この歌集が、ひとりでも多くの人に読まれ、自らもジグソーパズルを嵌め続けているひ

とりだと思い出して欲しいと思う。

 

最後に、田村作品の精神世界にひきこまれてゆく作品をいくつか。


草原にひとつの穴が空いているような猫の眼 風の真昼に

履歴書に証明写真を貼るために少しだけ切り落とす両肩

銀のフォークをミルクレープに沈めゆく力加減であなたに沈む

僕らは朝に牛乳を飲む 骨壺に収めるための骨を育てる

既読はついた、返事が無い。既読はついた。ばうむくうへん木の味がする

対岸が霧に切り落とされた湖 欲しがれば欲しがるほど遠い

流水に鳴る白磁器よ訣別の後のあまりにながい余白を

雨後の窓に歪むあおぞら、青空の腕力によってわたしも歪む

ポリエチレン手袋に包まれた手が桃の奇形果みたいに湿る

白い部屋 あの世にわたしが生まれる日この世をしぼる産道がある

あまりにも無風の夜を月は満ち沼の寡黙が晒されている

折り鶴は肉をもたない鶴だから風にしゃらしゃら鳴らすたましい

花は無いけれど一輪挿しがほしい 心のための体ですからみず