ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

橋本恵美歌集『Bollard』を読む

穏やかな湖面である。やわらかな陽がさしている。
時々、激しい風が来て、水底深くまで揺らしてゆく。

風が通り過ぎると、また、なんでもなかったように
もとの明るくて静かな湖面にもどってゆく。

その一見、明るくておだやかな湖の、深いところに
沈んでいる冷やかかな手ざわりを、作中主体と共有
していく・・

そんな印象の歌集だった。

歌集名の Bollard は、舟をつなぎとめておくための
ロープなどをかけておく、岸壁に設置される杭のような
ものだという。
 
ボラードに繋がる舟が離れゆく舫いの綱はゆるく解けて

ボラードに繋がる舟が、作中主体にとって、どんな存在 
で誰であったのか、読者は歌集を読み進めていくうちに
知ることになる。

穏やかな湖面を想起させたのは、次のような作品からで
ある。作中主体は、基本的に心が健やかなのだろうと想
像させる。

新しき六馬力なる空調機付けられ六頭立てのそよ風

空調機が六馬力だから、六頭立てという発想、それを
操る作者像が見えて爽快だ。

通路の向こうのナッツがもりもり減りゆくをトンネルごとに窓が映しぬ

列車の中での光景を、ナッツに焦点をあて描写している
ところがおもしろいし、トンネルに入る時のみにそれを
知ることができる車内の位置関係まで想像させてしまう
ところが巧みだ。

最後の時よく燃える樹になりたいとモリンガの油を肌に塗り込む

死後に自分が焼かれるときのことであるのに、明るくて
飄々としている。

蓮根をすり下ろすときせっかくの美味しい穴が消えて行きたり

蓮根は、穴がおいしかったのかと真面目に思ってしまう。

「賞味期限過ぎてるさかい早よ食べて」カステラ一箱客は置きゆく

本当は失礼な話なのに、こういうことも笑顔で受け入れて
しまう作者像が顕ちあがる。


歌集中に、登場人物は多い。
父、母、義父母、そして夫と息子である。

幼かった息子が成長し、離れて暮らすようになり、その
日々を遠くから気に掛けている様子が、抑制の効いた
表現で描かれている。

ひきだしから小さなめがねは現れてこんなにちいさい十歳のかお

子の上の台風の空を知るために競馬中継しばしつけおく

鶏肉にゲランドの塩を振るごとき言葉をかけて子を送り出す

たこ焼きの木舟は薄く櫂も無し消えたいなどと言うな太郎よ


冒頭の、湖面を揺らしている風を思わせ、水中の冷たさに
触れるような二首

「帰れ」と言われ帰るしかない春の朝 小舟のように実家を離れゆく 実家←じっか

ただ一度祝ぎのために来し母のうしろに揺れていた雪柳


義父母との関わりも、古い慣習のなかにありながらも、凜と
した生き方をし、懐ふかく受け入れていることがわかる。

「大声でたまに泣けば」と義母は言うあなたの前で泣いたりしない

産道を通らず生まれてきし子どもは根性ない子と姑に言われき

母子の安全を考えて、帝王切開という方法を選択することもある。
その場合、陣痛の際の母と子の、長い闘いはない。だから、子ど
もには根性がないという。少し前までは、そんな偏見もあったか

もしれない。事実だけを述べているが、哀切である。

「大きなおしり」お尻を喜ぶ義母である力士の後姿映れるたびに 後姿←うしろ

庭草を踏みつつ進めゆく車輪 重さ無きひと運ぶ心地に

義父が使っていた車椅子を倉庫から出す場面。「重さ無きひと」
は、その人の存在感はあるのに、事実として重さがないという
さびしい描写だ。

 

夫にむけるまなざしも、おだやかである。

火屋を拭くしずかな時間が君にあり灯りのふちを銀河は包む

「火屋」とは、香炉などの蓋のことだという。あたかも銀河が、
地上の静かな時間に蓋をする火屋となっているようだ。
君の静かな時間にそっと寄り添っている作者像も見える。
歌集中、最も好きな歌だ。

初めての親の襁褓を買いに行く秋の日夫は僧の目をせり

「僧の目」とは、慈愛に満ちた静かなまなざしであろうか。

薬園に夫はさみしい巨人なり雨の無い日は雨を降らせて

薬園は、スモールワールドである。そこに暮らすことはできな
いから、せめて、雨の無い日には潤いをと作業する夫を静に見

守っている作者である。


「ボラードに繋がる舟」を父と限定してしまうことは、単純
過ぎるかも知れないが、歌集の大きな流れとなっているのは
やはり、父が病を得て亡くなるまでの作品群であろう。
そして、実に悲しいことだが、そこに至って作品は、重さと
深さを増しているように思う。

父と母ふたりで障子を貼ることも最後と思えば冴え来る白さ

銀の柵のむこうに立ちて父はもう改札口を超ゆることなし

行き着くところが解っていて、現在を見つめるとは、なんと
いうやり場のない悲しみであろうか。

重いこといつも喜ぶ父だった練羊羹や味噌選ぶとき

顔白く小さくふたつ並びおり少し湿った燐寸のように

この歌も、好きな歌だ。湿った燐寸は、ふたたび灯をともす
ことはない。父母の顔が、血の色をなくし、小さくて、主体

には寄る辺ない存在感として立ちはだかったのだろう。

白鳥に乗せても沈まぬ父だろう白いシーツに血が付いている

星空を父と仰げば星を観る私ばかりを父は見ており

父母をよろしく頼む姉妹なく電気ポットに声かけ帰る

後ろ髪をひかれながら、父母をおいてゆく。頼みとなる人は
誰もいなくて、電気ポットに声をかけている。その唯一ほの
あたたかさをもつ存在に・・。

かつて今日われのサンタでありし人 風呂を嫌がり冬を忘れる

閉じてゆく宇宙だ父は強烈な磁力を帯びて誰も寄せつけず

父に繋がるチューブ何色 蛍は生まれし川に朝死にゆく 蛍←ほうたる

今日よりは父の使わぬ石鹸の続きを母が使い始める

人の死を受け入れ、生きているものは生きていかなければなら
ないとは、こういうささやかなことなのだろう。

庭に向く小窓の網戸に残りおり銜え煙草の父の高さは 小窓←まど

新幹線に関所なけれど停車のたび裡なる馬に水を吞ませる

薔薇の実紅く揺れおり会えぬ日々父が小窓に見ていし庭に


作者は、絵画に造詣が深いようだ。多くの絵画が、作品に現れ
その鑑賞の様子なども詠まれる。
他にも、いくつか印象に残った作品を記しておく。

始まりに湯を沸かすときレスネスの農場の朝の煙突おもう

知らぬ男の体温近く絵を眺む半袖なれば腕など触れて

カンバスに触れしゆびさき拭うときテッシュは無くて何の布なる

こんなふうに、絵画を見たことはなかった。描いている画家のか
たわらにタイムスリップして、その指先を見つめているような感
覚になる。

猫のひげ戸口に落ちていし朝発芽せぬその髭を拾いぬ

ちいさい亀に大きな影のあることもふいに哀しき冬の入口

そう言えば、そのもの自身よりも大きな影を背負って歩いていた
りすることもある。影は重さを持たないのに、なぜかそのものが
背負っている翳りのように思うこともあるから不思議である。

胡瓜草の脇に自転車停まる朝 排尿を褒める大きな声は

雪雲は湾より来たり遠雷の一つ鳴り青きアネモネが散る

スケールの大きな歌である。遠雷とともにやってきた雪雲が
かたわらの青いアネモネに収束していくくだりが絵画的で
あねもねの青さが、はっとするほど鮮やかである。

ひとり馬を洗うさびしさ部屋ぬちに見える背中の白く遠くて

前髪に鋏はひかりを入れながら男は哲学めく話せり

本の厚みほどに開けたる小窓から風が圧し来る皿を置くとき

本の厚みほどという表現が、効果的である。皿を置くという
動作より、何かを動かしてみる方法もあったかもしれない。

食卓に白布ひろがる静けさに誰かが目覚めるまでを待ちおり

グリザイユの少女の膝に鳩はあり種火を包むように両手は


最後に、作者は、本来心が健康で、強い風が来て揺らされても

柔軟に撓う力があるのだろうと思った所以の章がある。
LR41 の一連である。
作中主体が、誤って電池を飲み込んでしまうという非常事態
を描いているのだが、実に客観的で、飄々とした表現が多い。

パニックになってる夫を叱りおれば救急隊員われを宥める

再びをひかりの元へ出でしとき電池は鈍く黒く錆びいる

また、歌集最後のところでも、思いがけぬ自らの身体の異変
に遭遇するわけだが、こちらも一大事であるのに、やはり
自らを俯瞰しているような、ゆるやかな表現が多いのは、作
者の個性であろう。

自画像のごと眉を描きゆく宣告の前かも知れぬ夏至の窓辺に

左耳を台に押し当て貝殻のように汀に揺られていよう

憩室がわれには二つあるという 自分の部屋を持たぬ私に


長くなってしまったが、ともかくも、心だけでなく、作者の
身体の健康もお祈りしたい。