ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

𠮷澤ゆう子歌集『緑を揺らす』を読む

 潮のにおいがする。波の音が聞こえる。島影が見える。森の木々の葉擦れの音がする。かと思うと、遠い異国の町並みや石畳、大いなる川の流れ、そこから重厚な音楽が聞こえてきたりする。
 塔短歌会所属の𠮷澤ゆう子さんの第一歌集『緑を揺らす』。
 この歌集は、子どもの成長を、一本の木が成長していく過程になぞらえ、そこから、枝を伸ばし、葉を繁らせてゆく様を自らの生き様に重ねて編んでいるように思う。子どもの成長を、主軸にしていると書いたが、だからといって、子どもに溺れているわけではない。子どもの成長に伴走するかのように、自らも、日々生き方を模索しているように思う。

 まず、主軸と書いた子どもの作品に触れてみたい。歌集中、その成長の様はつぶさに、ページを重ねるごとに、読者に伝わってくる。

ひと筋の光にあたまを差しいれて眠れる吾子を月に委ねる

会ふひとに明日は雨と告ぐる子のあたまゆらゆら日ざかりの道

 わが子と言っても、あずかりものであるような、聖母マリアが我が子を抱いたときのような敬虔な情景を思い浮かべる一首目。
 二首目も、幼子の無邪気な仕草を表現しているのだが、どこか天使が、神の使いとして人々に託宣しているような趣が感じられる、不思議な作品だ。

鳥がみな行つてしまつた暮れかたに子の掌に載せる胡桃、松の実

少年と亀を隔てる玻璃窓に息の曇りは重なり合へり
 
   子どもが幼い頃、よくかかわりのあるアイテムが、著者の表現の世界では、詩的で繊細なものへと広がりをみせる。「鳥がみな行つてしまつた暮れかた」「玻璃窓に息の曇りは重なり」などの視点が、言いようのない寂寥感を醸し出す。

笑うべきところを外す母である子の早口な春はとりわけ

遅れし吾を子は待つてをり床の間に置かれつづける壺のかほして

おそなつの夕べ電話名乗られて変声期なる子の声を識(し)る

うつすらと子の唇(くち)の上を覆ひゐる短きくろき草を見てゐつ

青年の居ないひの暮れ屑籠は大きな穴として部屋にあり

 子どもが成長し、少年となり、やがて青年となっていく過程が、感情に重心をかけないで表現される5首をひいた。2首目の「床の間に置かれつづける壺のかほして」などという表現は、突き放したようであって、待たせた母親の気持ちを代弁して、切なく絶妙である。

走りきて子の渡しくれし補聴器を付ければほそき鶯のこゑ

 臨場感があり、ドラマティックな作品。「走りきて」の初句が、すべてを物語る。ここに来て、母と子の立場が逆転してしまった。それほど、子どもは成長してしまったのだ。聞かせてあげたかったのは、鶯の初鳴きだったのだろうか。

 次に、「枝を広げ、葉を繁らせようとする著者自身の生き様」と評した著者の作品世界に分け入ってみたい。巻頭の一連は珠玉で、森に分け入ってゆくようにその作品世界にひきこまれてゆく。

森に火を落としたことがあるやうな吾と思へり草に坐れば

 森に火を落とすという背徳的な行為、実際にそれを実行したことはなくても、その思いを束の間もったということの意識、誰しもこれに似た感情があるのではないだろうか。幻想的でありながら、読者の心に切り込みを入れてくる。

七文字でしかない吾に葉から葉へ落ち継いできし滴の落ちる

 そうか、わたしは六文字だ。「しかない」と言っていながら、「吾」になるまでの、果てしない滴りが、悠久の時を落ち継いで「吾」にきたのだという感慨を感じさせる。

おほかたのひとの地平の果てにゐて吾はちひさき緑を揺らす

 歌集の題名になっている一首。冒頭に書いたように、著者の樹である。世界のかたすみにいて、自分の存在はとても小さいけれど、それでも自ら育てた樹を、その緑を、私らしく精一杯揺らしていたい、そんな思いであろうか。とても共感できる一首である。


 一連が、短編小説を読むようにひきこまれる作品群がある。「いわうじま」である。連作として読ませる魅力に満ちている。8首をひいておく。

八歳がほどまで父は住みしとふ基地のみにして無人の島に

漁りに祖父一族は生きてきて居間にカジキの吻はありたり

仏壇は海に向かひて納められ祈れるひとの横顔は見ゆ

かの夏のスクール水着大き過ぎわれの身体を遅れて布は

折り紙をしながら海は見えてゐて従兄のわれを呼ぶ声のせり

話すこと話さぬことの総量を収めてひとは夜を眠るなり

漁りの十年ののち研究者を目指しし父の思ひや如何に

いわうとう 聞き返す吾にははそはの母は遠いところだと言ふ


 もうひとつ、島の名のついた、一連「答志島」。こちらは、漁村の匂いや音、陽のきらめきまでもが、目の前に迫ってきて、そこに住む人々の生業が身近に感じられて、懐かしさで胸がいっぱいになる。

日々海苔を洗ふ船ありあかき海水(みづ)港の奥にしづかに在りぬ

陽を直に浴びたる若布ぬめぬめと光を貯める溢れ出すまで

黒鯛を兜割りせし一音の冬の家ぬちにながく響けり


 夫の登場する作品は少ないが、次の二首に、その人となりが静かに伝わってきて好感がもてる。一首目、「声をつかひて」二首目の「新聞の皺なほしつつ」が、とても効いていて、閑かな日常を際立たせている。
 
しづけさのつのる夜の更けわが夫は声をつかひて欠伸するなり

新聞の皺なほしつつ読むひとの背(せな)の角度が父に似てゐる

 
 最後に、著者にとって切り離せないチェロの奏者としての作品をひく。

声よりもわがこゑであるチェロを容(い)れハードケースは背に平らなり

 「声」は、音声としての声、「こゑ」は、身の内の深くから、絞り出すようにして伝えようとするこゑ、そんな著者の「こゑ」であるチェロを、皮膚の一部のように背にかかげ続けてきた著者なのである。

 

 

 

 

牛隆佑歌集『鳥の跡、洞の音』を読む

 牛さんに、私の歌集をお送りしたいと、メッセージした時、「せっかくなのですが、歌集のご恵贈は遠慮させていただいておりまして、関わったものでない限り書店で購入するようにしております。これはささやかながら葉ね文庫など歌集を扱ってくれる書店の売上のためでもあります。ご謹呈の数にも限りがあることですので、他の地域の方や学生の方など、歌集が手に入れにくい方にお贈りいただければと思います」という返事だった。
   批評会を控えていた私は、自分の歌集を読んでもらうことに必死で、大切なことが見えなくなってしまっていたのではと思った。そして、あらためて、牛隆佑さんの、短歌にとどまらず、出版そのものに対しての姿勢に触れる気がしたのだった。
 長い間、多くの歌人のバックアップに力を注ぎながら、自らの歌集は出さなかった著者の、ここに来てようやく第一歌集に出会えることを、とても嬉しく思い、その世界に真摯に向きあいたいと思った。

 

雨は降る たとえば傘をひらかせてたとえばあなたに本を読ませて

 巻頭に置かれた一首である。著者に、そんな意図があるかどうか解らないが、この雨は著者自身ではないかと思う。傘を開かせる、すなわち様々な短歌に興味を持った人達に対して、その面白さや、奥深さを伝えるきっかけ、場をつくる、そして、他者の作品や著書を読む機会を与える。まさに著者自身が、これまでしてきたことではないかと思うのだ。

 しずかに、霧雨のように染みてくる繊細な歌がある。かと思えば、泥臭く、生活感にペーソスの滲む歌、破調の歌、一篇の詩のように連作を紡いだ歌群、枕詞を駆使し、口語体と融合させた作品、実に多彩で、歌集は、変化に富んでいる。この人の求めているものは、どこにあるのだろうか。
 著者は、あえてあらゆる可能性に挑戦しているのだと考えてみた。短歌という枠におさまりきらない、著者から迸る熱量をあらゆる可能性として、試しているような気がするのだ。
 栞文が、川柳、短歌、詩の人から成っているのが、そのことを物語っている。

 さて、私が作れそうになく機知に富んだ歌達も、もちろん魅力的なのだけれど、ここからは、私の感性の糸をきしきしと震わせてきた歌達を、紹介しておきたい。

あっ、雨が降っているなと思ったら横に動いて羽虫と気づく

 塵のようで、動くことでしか生きていることを認知されない羽虫。雨と同じ方向に動いていたら、雨に流されてゆくゴミだと思っただろう。しかし、ちゃんと、雨ではない方向に動いたのだ。その発見に涙してしまう。深読みをすれば、何かにあらがっている一人の人間のようにも思えてくる。

しかしあるいは自販機の冷たい珈琲が6℃の熱を持っていること(冷たい珈琲→アイスコーヒーのルビ)

 人間の平熱からすれば、6℃はあきらかに冷たい。しかし、それは体感温度としてであって、アイスコーヒーとしては、6℃という身体の熱を保っているのだ。ともすれば、人間中心、自分中心の考え方をしてしまうことに、はっと立ち止まった。

パレードのように葬列のようになにかのデモが通過してゆく

 「デモ」という能動的でエネルギーあふれる行為も、どこかに諦念をはらんだ部分を潜ませていることを著者は見逃さない。

手になってしまえば殴るしかなくて手になる前のもので触れたい

   感情をもたない「手」を人間の道具として考えたとき、動作として殴るという行為は簡単だ。けれど、そこに感情を込めたとき、「手」は殴らないという選択肢を与えられる。著者は、道具としての「手」ではなく、感情を持った「触れる手」で、ひとに向き合いたいと願っているのだ。

父親にならないと決めて父を見る 胡瓜をうまそうに食っている

 上句の厳しい胸の奥の決断と、下句のゆるやかな描写が、絶妙な一首だ。世の中のことは、概してこんなふうに緩急があって、そこそこバランスがとれてゆくのではないかと思わせてくれる。

あきらめることがそんなにわるいのかそのへんどうよ麻婆豆腐

 こちらも、好きな作品で、前作に通じる抒情を感じてしまう。話しかけている相手が、噛みごたえのあるものは何もない麻婆豆腐というのがまたよい。

寝不足の時代できっとぼんやりとしたままたぶん戦争に征く

銃声が聞こえてしかし銃声のような音だと考えなおす

空き家を燃やす空き家を燃やす空き家が燃えて隣町へと冬を知らせる

 メッセージ性のある三首をひいた。
 一首目、ウクライナイスラエルのことではなく、日本においても、一触即発の状況にさらされていると思う日々である。仕事や、様々な生活のことに追われ、睡眠時間を削っている身めぐり。ある日、突然召集令状が来て、寝不足のまま戦争に行ってしまうのではないか。あえて反戦を掲げた歌ではないのに、それだからこそ、ぞわっとしてしまった。
 二首目、日常によくある場面である。必ず起こると言われている地震も、そうである。今、今日起こるかもしれないけれど、そのことばかりを考えていると、私達は生きられない。負のバイアスがかかって何とか精神のバランスを保っていると言える。
 三首目、社会現象として、空き家問題が深刻化している。空き家、次の家も空き家、またその次の家も空き家、一軒に火が放たれると、次々に火が燃え移る。「隣町へと冬を知らせる」は、叙情的な表現だが、冷え切った冬空を染める炎は、ひどく怖ろしい感じがする。 

ひと月に一度は泣いている人に出会うのがガスト 大阪のガスト

(っはい、その夢あきらめましょう)ジャパネットたかたの声でつげてやりたし

【ご先祖様ありがとうキャンペーン】の幟どこまでも続いていそう

  冒頭の文章に、「泥臭く、生活感にペーソスの滲む歌」と書いたが、上記のような作品がある。関西ならではの風土、そこに根ざした著者の日常生活からの視点を垣間見ることができる。

鳥の跡、洞の音、礫の先、人が行くのは人の道だけ

 最後に、歌集名となった、一首をひく。
 「鳥の跡」は、鳥が巣立ってしまった跡と読んだ。「洞の音」は、巣立ってしまって空洞となった風景、そこに吹く風のように思った。「礫の先」は、巣立ちのあとの、様々な試練を想起させる。鳥は、鳥の未来を生きるように、私は、私として、自らの道を歩いてゆかなければならない。そんな決意を思わせる一首だと思う。

 
 多くの作品に付箋をつけたが、特に印象に残った十首を追記して終わりたい。

この町にグーグルアースで目印を刺すようにして夕日がとどく

誰が死ねば僕は泣くかなカーテンを外せば部屋に春が来ていた

何かが何かになり損なった夏の日々だろう光はこんなところまで

思い知れ、お前は一人、一人なのだ、一人だ、一人しかいないのだ

何ものも待たないという生き方よ月の沙漠を耕しながら

追伸を書くために書くとても長い手紙のなかば流れている川

一日で書籍が届くうつし世に三日がかりで書き上げる手紙

この紐を引くと世界が落ちてくるみたいに僕ら夜になります

吸う音と吐く音があり吸うほうがわずかにすこしばかりさびしい

土用東風すごくすずしいのに話したいだれかがどうしてもいないんだ

石畑由紀子歌集『エゾシカ/ジビエ』を読む

肉を焼く お前も肉だろうという声が肉からする 肉を焼く

 この一首が、Twitterに流れてくるのを見たとき、たまらなく「石畑由紀子」という人の歌を読んでみたいという衝動が走った。
 何だろう、人間だけがもつものなんてなんになるの、人間としての尊厳なんて糞食らえだ。動物にも植物にも人智を超えた生きるための知恵があり、愛もあり、悲しみもあり、この世界に、人間としての奢りをまき散らすのはやめろ、と一喝されたような気がした。そして、変にすがすがしい気持ちになった。
 どれだけ、私たちが日々、持たなくてもいい多くの重たい枷をまとっているかを思った。すべてを脱ぎ捨てれば、一塊の肉でしかない私たちなのに・・。

 早速、歌集『エゾシカジビエ』を取り寄せた。

 北海道に生きる著者の作品世界が、樹木やけもののにおいをまといながら、雪の礫となって向かってくるような迫力を感じた。

くちびるに触れるはかないものたちをあまく殺めて これは雪虫

 北の地方では、雪虫が飛び始めると、また厳しい冬の季節がやってくると知ることになるのだろうか。雪虫自体は、あわあわとしたはかない存在だけれど、北国に生きる人たちにとって、覚悟を強いられる象徴なのだ。

敗北に北のあること川べりに凍りたがりのみずを見ている

川べりの霜を踏みつつ辺地という言葉をわたしはさりさり憎む

 この歌集は、全編をとおして、北の地に生まれ、そこに生きている日々の咆哮のように思える。「敗北」という言葉は、もともと、方角を指すものではなく、二人の人が背を向け合っている様から由来しているという。それでも、「敗北」という、ネガティブな言葉のなかに「北」をおかれたことがゆるせないのだ。水よ、そんなに許容して凍ってくれるな、という感じだろうか。
 「辺地」という言葉もそうである。そこに住むひとりひとりに関係なく、ひとくくりにそう呼ばれることへの怒り。「さりさり憎む」が攻撃的でない怒りを想起する。

石畑と名乗りはじめた先人の両手のひらの血豆をおもう

 不毛の地であった広大な土地を、気の遠くなるような手作業で、切り開いてきた先人達。「石畑」と名乗りはじめたことの、先祖達の決意と覚悟に、とおく思いを寄せるのだ。
 このような思いは、樹と斧のせめぎあいとなって、著者の作品の中に、しばしば現れる。

斧の音芯まで残るししむらに流れるみずを樹液とおもう

いつかの樹の根元に振り下ろされたのはとおいむかしのお前の斧だ

みぞおちに斧うつくしく研ぎあげて正しく怒る気高さにおり

白樺、白樺、切り株、白樺、たましいも幻肢痛あり並木にふれる

 樹も斧も、著者のなかでは、気高く、尊く、著者と一体化し、息づいているのだ。


マイナスをつけずに気温をいう母の、父の わたしの内に降る雪

浴びたならこごえるような水をなぜひとは飲めるのでしょうね、蛇口

止まらないみずも凍っていくことのマイルスのトランペット、寒いよ

 北の地に生きる人ならではの三首。
 一首目、マイナスをつけないというと、どれほどの数字なのかわからないけれど、隠されていることで、変に空恐ろしさを想起させてしまう。
 二首目、ほんとうに、そう、人間の底にある強靱な生命力を思う。
 三首目、流れてゆく水さえも凍ってゆく寒さ、マイルスのトランペットは聴いたことがないけれど、金管楽器が醸し出す鋭利なひかりや、マイルスという語感から、その凄絶な寒さを想像することになる。

食されぬ肉塊として車輛越し一度限りの邂逅われら

かなしみは速さ侵入者であれば鋼の足を敷きひた走れ

丸鶏を腹から開く生前の密事は何処へゆくのだろうか

 冒頭にふれた一首のように、歌集中には、野性味あふれる作品も多い。荒々しくて、血の臭いのするような、それでいて、深く命の哀しみに寄り添うような表現である。
 一首目と二首目、作中主体は、車輛の人である。野生の動物が不意に現れて、車輛は、それを轢いてしまった。たった一度出会った命と命を、こんなかたちで知ることになる。私達は、私達が生きるために、生きものを殺め、それをいただく時に、その命のことを思う。そうではなくて、「食されぬ肉塊として」出会うことも多いのだ。
 腹に一物を持つとか、腹に据えかねるとか、腹を立てるとか、腹は、数え切れないほどの、人間の心象を、抱え込んでいるところらしい。調理された鶏の腹を割きながら、この腹におさめられていた、他者の知らない密か事は、どうなってしまったんだろうと思う。自らの死後を思うようなシュールな一首である。

やわらかく倒されながら思いだす雪虫の雄に口のないこと

沼尻にぬ、と差し入れるここちして抱く頭髪の暗いぬくもり

ふれるとき底いにみずの動くおときみは根開きのくるしさをいう 根開き→ねあきのルビ

 著者の相聞歌も、どこか冷え冷えとして、北の大地の風土を思わせる。

 一首目、下句の表現にはっとする。官能的な場面で、くちづけのできない雪虫のことを想っている冷めた感覚と、どんな場面であっても、北の地に生きる感覚であることがせつない。
 二首目、「ぬ」が、ぬめぬめとした粘性の心象風景として読者に伝わってくる。相手の頭髪をかき抱きながら、それは、相手の深くて暗い部分へも、足を踏み入れることになってしまうと気付くのだ。
 三首目、「根開き」とは、春先になると、樹木の根元だけ、雪が溶け始めることを言うそうだ。樹木は、地下水を吸い上げて生きているので、その水が、外の空気よりも温かくなると、このような現象が見られると言う。相手の鼓動に触れたとき、確かに生きている証を感じながらも、相手の生きているがための苦しさも、同時に受けとめなければならない作中主体なのである。

 ほんとうに溺れているひとはしずか加湿器がこくりとみずを飲む

 歌集中で、最も惹かれた一首かもしれない。溺れている人を、つぶさに見たことはないが、そうであると信じられる迫力がある。下句の、冷ややかな静けさが、音として読者に入ってきて、背筋につめたい恐怖を感じる。

 けものなら終わるいのちを繋ぎとめひかり輝く廊下の向こう

 著者は、つねに獣たちの息づかいを近くで感じながら生きていることを感じさせる一首。人間は、病を得ても、可能な限り、その再生のための手当を施すことができる。しかし、野生に生きる獣たちはどうであろうか。傷ついたら傷ついたまま、痛みをかかえたまま死んでゆくしかないのである。人間は、こんなにもピカピカの設備のなかに身をおけるというのに・・。

 私は、冬生まれで、夏よりも冬の季節が好きだ。そして、今私が住んでいる土地でも、シカや猿やイノシシや、他の小動物も、日常に出没し、田畑に甚大な被害を及ぼしたりもしている。自然も豊かで、木々や草木も、季節のうつろいを伝えてくれる。山は緑豊かで、川はその流れをたおやかに横たえている。
 しかし、この『エゾシカジビエ』に出会って、私は、それらと、どれだけ共に生きてきただろうかということを思った。もう一度、あらためて身めぐりに向き合ってみたいと思った。
 そして、私なりの向き合い方で、それらを短歌に残してみたいと思った。

 最後に、評はできなかったけれど、印象に残った作品をいくつかあげておく。

水鳥の羽裏のしろさ平気よという顔をしてきみに手をふる

歯みがきや洗顔のように信じてる川にひたすら雨降っている

川と海みず混ざりあう場所にいてたましいの正座を待っている

恋愛は人をつかってするあそび 洗面台に渦みぎまわり

仄明るいひとすじが見えるひとりきりいってかえってくるための道

ゆっくりと染まる坂道 ゆっくりと燃える坂道 ふりかえらない

街のどこかの炉に立つ炎ひっそりとわたしであった肉が逝く

十秒後をなにも知らない 火を分けるように体温をすこし差し出す

家族して餃子を包むみちみちと誰も死なないような気がする

少年の心を持つという揶揄よ少女ばかり渡る夜の河

友たちへ手作りのハンカチを配るちいさな窓を配る手つきで

澄田広枝歌集『ゆふさり』批評会(第二次案内)

澄田広枝第二歌集『ゆふさり』批評会の第二次案内を公開させていただきます。

短歌について、広く楽しく、多くの皆さまとお話ができたらと思います。

ご参加、お待ちしております。

 

畑中秀一歌集『靴紐の蝶』を読む

畑中秀一(はたなかしゅういち)さんは、白珠の同人。
現在、私が参加している「フレンテ歌会」のメンバーでもある。

昨年、40年間勤めた会社を退職し、新しい生活へのスタートとして、この第一歌集『靴紐の蝶』を上梓したということだ。

朝とらえ夜とき放つ靴紐の二匹の黒き蝶を飼う日々

歌集の題名となっている、『靴紐の蝶』は、この一首からとったと思われる。

むすびめに秋蝶しづかにおりてくる隧道ぬけたらほどいてあげる

これは、私の一首だが、この『靴紐の蝶』という題名を見たとき、すこぶる親近感を覚えたものである。著者にとって、二匹の黒き蝶は、会社勤めのためのビジネスシューズの紐だろうか。朝、出勤するとき、靴紐を結び、帰宅してから解き放す。「黒き蝶を飼う」という少し不穏とも言える表現は、ビジネスマンとしての宿命を纏った重たい心象ともとれる。

あらためて「五臓」の意味を確かめて4.5臓のわが身と知りぬ

五臓」とは、肝・心・脾・肺・腎の5つの臓を指す。著者は、そのうち、ふたつある腎臓のうちひとつを摘出したことを、歌集中から知ることができる。実は、私も左片腎のみで、40年ほどを生きている。4.5臓という捉え方をしたことがなかったので、新鮮というか0ではなくて、0.5の存在を認識するポジティブな考え方だと思った。

著者は、40年間、会社勤めをし、50歳半ばには、インドでの単身生活を経験している。どれほど熾烈なビジネスマンとしての日々が語られるのだろうかと思ったが、そうではなかった。
その表現世界を、たどっていきたいと思う。

世渡りは上手になれず夕凪の橋にもたれて海を見ており

著者の真髄は、ここにあるのではないだろうかと思う一首。憤りや、辛さを、他者に向けるのではなく、自らを静観し、自らのなかで処理し、自らが心地よくいられる術を探し出してゆく。その達人のように思われる。
そのことは、次のような作品からも読みとれる。

肉じゃがの名前に入れてもらえない玉ねぎが好き 私のようで

いややけど認めたるわというときは決裁印を逆さまに押す

世間からはじかれた夜はダイソー多肉植物コーナーに寄る

生きるってやっぱり痛い たまきはる命にひそむ叩くという字

どの作品にも、攻撃的な表現はなく、かといって自らを卑下しているのでもなく、淡々と穏やかに自らの行くべき方向を模索しているようで、それが読者にも安心感をもたらす。

歌集の中盤には、著者の物の見方、捉え方がおもしろく印象的な作品が多い。いくつか紹介しておきたい。

角と角かさね折るときズレを生み個性を競う千羽鶴たち

全く同じように折られているように見える千羽鶴にも、千の個性があるのだということに気付かされた一首。

白シーツ前抱きにして骨壺を抱えたような客室係

ホテルなどのベッドメーキングのために、白いシーツを抱え持つとき、骨壺を持っているように見えたのだろう。白という色の尊厳が際立つ一首。

電車にて舟こぐ人の横にいてやがて舟着き場となりぬべし

電車通勤をしている人なら、日々よく見る状景であろうが、「舟着き場」として受け入れたのは、著者が初めてではないだろうか。なんというしずかな包容力。

食べ終えし巨峰の皿に乱れたる家系図のごと身をさらす枝

家族が集まってきて、葡萄を食べたのだろうか。一気に食べ尽くしたあと、葡萄の残骸がとり残されている。その残骸を、乱れた家系図に見たてているところが、この一首を一気に印象づける。家系図が出てきたので、どうしても家族団らんの景を想像してしまう。

父の名の横に母の名きざまれてそのまた横の墓石の余白

少しあとには、このような一首もある。父を送り、母を送り、当然順番からすると自分の名前が刻まれるはずなのだが、その余白の醸し出すよるべなさに、ふと呆然としてしまう主体がいる。物言わぬ余白に、不確かであてどない未来を感じてしまうのだ。

はじめにも書いたとおり、『靴紐の蝶』は、著者の人柄が、まっすぐに伝わってくる歌集だ。読者は、その人柄を信頼し、安心してその作品を受けとめることができる。身構えたり、言葉の先に深くある意図を手繰り寄せたりしなくてもよい。その作品群に触れることによって、読者自身も、自らの在り方、進むべき方向を見つめ直すことになるのだ。

以下、印象に残った作品をいくつかあげておく。


誰もみな誰かの他人であることに慣れてまばゆき秋晴れの空

乾かさず出張先より持ち帰る折りたたみ傘のスペインの雨

たましいに餌やるように平日の海遊館を丹念に見る

「千寿」より「極楽」がいい 名前にてスーパー銭湯えらぶ老い母

母つけし赤丸のこるデイの日に遺族としての挨拶にゆく

忘れもの同士の傘が寄り添って語り明かしたローソンの前

ゲーム機のマリオは右へいにしへの絵巻の話は左へ進む

ふるさとが村役場から区役所へ変わりゆく間に失くした野原

島国というは知りつつ「島民」とは思わざるまま本州に住む

羽化させてくださいませというように斜めにかぶる麦わら帽子

風鈴が身がまえている ダイソンの新しく来た扇風機の風

電話しつつ充電コードに繋がれて束の間ポチの気持ちがわかる

世間では耳鳴りと呼ぶ症状をしぐれと呼んで蝉と語らう

いい卵を産むのでしょうか君をかみ私をかんだ苑のやぶ蚊は

澄田広枝第二歌集『ゆふさり』批評会

素敵なパネラーの皆さま、励まし背中を押してくださる歌友の皆さまに支えられて

澄田広枝歌集『ゆふさり』批評会を企画しました。

多くの方々のご参加をお待ちしています。

 

 

佐々木佳容子第二歌集『遠い夏空』を読む

 『遠い夏空』/2020年青磁社刊 は『白珠』の同人である佐々木佳容子(ささきかよこ)さんの第二歌集である。私が参加している『フレンテ歌会』の先輩である。 

 この歌集は、四章に分かれている。章を重ねるごとに、編年体ではないということだが、著者の心情が重層的に深みを増し、それが作品として昇華されていくという印象を持った。

 印象に残った作品と、特に好きな作品に、感想を書いておきたい。

 

Ⅰ豊かなるもの

春風にのりておとなふ夕闇を抱けばさらさらさくら散る音

 「さらさらさくら」が、ほんとうは音もなく散っていく桜なのに、その散る音を聞き分ける繊細な聴覚を有しているようで印象的だ。 

羽化終へて網戸に蝉の休みおりわれと分けあふ朝の静けさ

 今生まれたばかりの蝉とわけあう静謐な朝の時間が神々しく、短いけれども鮮やかな蝉の未来を内包している。

宙吊りに実らせ農夫は破顔する空飛ぶカボチャたあこれのことだ

 「破顔」が、やや堅い印象もあるが、歌舞伎の口上のような語り口が心地よく、臨場感がある。「空飛ぶカボチャ」の命名をした農夫、夢があって格好いい。宙吊りのものの正体の種明かしも絶妙。


Ⅱ去りゆくもの

 この章は、あの世とこの世をたゆたう自身がいるような、不穏でたづきなさの滲んだ表現が多いようだ。


からだから息が離れていくやうに匂ふ梔子月を惑はす

 前半の表現に引き込まれる。梔子には、そのような魔力があるかもしれない。梔子が月を惑わすなど大仰だが、あるかもしれないと思わせてくれるから不思議だ。

さからはず風に揺れゐる竹群の主語でも述語でもなく生きて

 自らの生き方は、風に逆らわず、風の流れに身を添わせる生き方だったのかもしれない。一文のなかで、主語として表現されなかったとしても、その述語でもない、私には、私のおさまり方があるという強い意志を感じた。

 

なんとなく浮く真昼間の白い月ふくらみ加減の演出がいい

命果てて物体になる日よどの人も柩の中のわれをのぞくな

階段を転び落ちゆく一瞬の視界に白きシクラメンの花

奥の間にならぶ先祖の顔写真ときおり表情違ひて見える

 

夕暮れの庭木の影に白犬の尻尾が見えて他界はありぬ

 他界と現世の境目は、案外身めぐりに存在しているのかもしれない。白犬は、他界を思わせるメタファかもしれない。「他界はありぬ」と断定しているところがよいと思う。

武器になるやも知れぬと赤き傘もちて雑踏へ紛れゆくなり

歩いても歩いても着かぬバス停に母待ちをらむ 約束の場所


Ⅲ小さきもの

 近親の小さな人たちへのまなざしが、その未来を照り返しているように明るく表現されている章だと思う。


デジャヴ、デジャヴと音を立てつつ洗濯機は今日も洗へり少女の夢を

 フレンテ歌会の同人誌『パンの耳』で最も印象に残った作品。「デジャヴ」の使い方が絶妙で、多感な少女時代を大らかに表現していて好感が持てる。

通り雨が大地の匂ひを掬ひとる 濃き草いきれ獣のゆまり

 大自然の匂いや営みが、間近に迫ってきて懐かしいような泣きたいような郷愁を誘う歌である。

目のなかに草原をもつ三年生おとなのやうなため息を吐く

春風の匂ひかぎわけ青虫は朝の冷気をしやりしやりと食む

 

一面の青田のあはひを老いの乗るバイクふはふはほつほつ

 時々このような、あっけらかんとした歌に出会い、ほっとする読者がいそうだ。結句が、老いの運転の危うさと、そんなことはおかまいなしに、田舎道を暴走する老いの傍若無人ぶりが微笑ましい。田舎道だからこその微笑ましさ。

 

遠からず壊れるだらうぎりぎりと音たて回る扇風機とわれ

ガラス戸の向かうにもゐるこの私ひとり居の夜を共に過ごせり

聖戦とあなたも言ふのかその腕に産みし赤子をしかと抱きゐて


Ⅳ 近づきくるもの

 近づきくるのは、誰にも逃れることのできない他者との別離、また、自らが現世を去る「死」というものを指している。たしかに近づきつつある「死」を思い、今在ることの意味を真摯に問い続けている章である。


流れゆく水音きけば胎内の記憶あらはるといふ君のうた

白百合の蕾ばかりを購へり期待するもの多きあしたに

 

窓ガラスを叩く雨粒追ひながら雨でないもの見てゐた少女

 少女は、眼前の少女とも思えるし、少女を見ている作中主体がその記憶をたどっている作中主体自身の少女期とも思える。想像することが好きだった少女期の様子が思い描かれる。

死ぬまでに砂漠を見ておけ砂色の時間と空気は息してをらぬ

 試練のまっただ中にいるときに、何処からかこのような声がしてきたと読んだ。人生に一度辛い思いをしたならば、それを乗り越えた時には、何があっても生きてゆける強さを備えることができると・・。

夜明けまで遊びしものら戻りをり現し身の吾は誘ひてくれず

 もう亡くなってしまった人達が夜通し身めぐりにきて、昔語りをして夜明けに帰っていった。私は、やはり他界の人ではなかった。こうして残されてしまったのだから・・。亡くなった人達との強い結びつきが感じられる。

 

古き戸の音きしませて閉むる時ほろりと一日が外へこぼるる

ぬけがらを葉裏に残し蝉の鳴く七年ためたる力もて鳴く

魔力もつ月の光がとどき来て造花が一瞬ほんものになる

そこここに死が待ちをらむそうろりと扉をあけて聴く夜の音

 

傷つけし人の数だけ増えてゆく白髪に飾らむ風のなかの紫苑

 結句「風のなかの紫苑」が、印象的で、白髪との色彩感覚が寂寥感を残す一首。

待ち人はいづこに我を待ちをらむ出口の多き駅のたそがれ

 作中主体は、誰とも待ち合わせなどしていないのではないか。これほどたくさん出口があれば、思いもかけぬ人が、どこかの出口で、私を待ってくれているのではないか、そんな期待をしてしまう黄昏れどきである。

元気かと問はれて応ふ澱むなく「死んでをらぬが生きてもをらぬ」

 著者にとって、生きているという実感は、現状ではないということが解る。「生きてもおらぬ」という強い言葉に、ドキリとさせられるが、それだけに、著者の生きるということの理想が強く感じられる作品だ。

わさわさと人立ち去りて会場に残さるるひとり 快感ならむ

 結句が、言い過ぎてしまったように思うが、余韻を楽しむこともせず、皆立ち去ってしまったあとで、ひとりの時間を見つめるというのは共感できるシチュエーションである。

 

語気荒く独りごつ吾の頬を打ちカーテン大きく風にふくらむ

腹立ちて写真破れば君よりもわたしの笑顔が斜めに裂ける

冷え切った新聞手にして早朝の配達員の白髪をおもふ

 

靴底の石除かむと外灯の下にしゃがめばわが影のなく

 どきっとする歌である。影のないというのは、死者を思わせる。それは、作中主体が、この世に存在していることを否定するような思いをはらませているのかもしれない。
八十年の人生たたふる通夜の席 知人・友人・愛人がくる

 ひとりの人間が亡くなると、その長い歴史に関わる様々な人との繋がりが顕在化される。良くも悪くも、人はひとりでは生きていないということを思い知らされる。誰もが故人を讃えるなかで、結句への展開に、苦笑し、安堵し、納得する読者がいる。

咲ききれる椿の花の落ちいそぐ涙のやうで脱皮のやうで

 花首から落ちてゆく椿。それは、死と呼ぶのかもしれないが、著者は、あえてそれは、「脱皮」ととらえ、未来への希望を託すのである。

陸橋よ寂しくないか六車線またぎてじっと人を待つのは

 陸橋をこのような見立てで表現したのが新鮮だ。六車線というと、ずいぶん車の往来が激しい「動」の世界だ。反対に、陸橋は、動くことは許されない「静」の世界だ。対照的なそれぞれの存在感に、自分の生き様を重ねているように思う。