著者、東野登美子さんにお会いしたことはない。偶然、お名前を知る機会があって、私からお願いして、歌集『ひすとりい』を送っていただいた。
まず、『ひすとりい』という、歌集名に注目した。歴史に造詣が深く、その教師をされ、今も勉強をされている著者。あと書きには、「何よりも、私たちひとりひとりが、歴史的存在であること」と書かれている。あえて、ひらがな書きとしたことについては触れていないが、歌集を読み進めるにつれ、私は、アルファベットでも、カタカナでもない、『ひすとりい』というひらがな書きが似合う歌集だと確信した。
木星の第一衛星イオにある火山の噴火みたいな報道
数万年の眠りのなかの断層の真上で話す 業(カルマ)について
アテナイに怠惰の罪あり罰則は死刑!と赤く黒板に書く
歴史に纏わる作品を、三首選んだ。
一首目、結句の「報道」に掛かっている背景が、すさまじく壮大なスケールで、読者はたじろいでしまう。それでも、昨今の人間性をはるかに逸脱したような事件が頻発すると、なんとなく共感してしまう。
二首目、こちらも、途方もない歴史の厚みを思わせる作品。人間の業というものも、歴史を積み重ねてきたのと同じように、地層どころではない繰り返しのなかで、積み重ねられてきたのだという思い。
三首目、「アテナイ」は、ギリシャ共和国「アテネ」の古名ということ。人口の半数近くの奴隷がいて、酷使されたようだ。「アテナイ」は当ての無いに通じて、奴隷として生まれた者の、終わりの無い労働を思わせる。「死刑!と赤く黒板に書く」が視覚からも刺激的だ。
歌集中、登場人物は、祖父母、実母、夫、そして娘である。
正月もお盆も休まん店やから国鉄みたい!と言われたお店
掌(て)の傷のわけを話さぬ祖父は杣(そま)、農民、そして兵士であった。
祖父母は、「カトウ商店」というパン屋を営んでいたようだ。苦しい戦中、戦後の昭和の時代を、働くことで生き抜いた人達だ。「正月もお盆も休まん店」が、その生き様を物語っている。なるほど、「国鉄」は、三百六十五日、休みがない。
なきぬれてわれなきぬれてと呟いて昭和のパンを売っていた母
夜をひとりかもねん歌などつまらんとふっふっふうっと笑う母さん
石川啄木や、藤原定家の歌を日常に諳んじながら、しかも、自らの生活に明るく重ねながら、忙しい日々をおくっていた母親像。著者が短歌を詠むようになったルーツが、此処にあると思う。
母がまだ少女期であった頃のこと「負けるってことは死ぬことだった」
いっ子ちゃんとジャンケンすると笑うから負けるってことは死ぬことじゃない
負けるということの、両極を表出した二首。戦時下の「負ける」は、「死ぬ」と同じ意味を持っていた。しかし、にらめっこで負けるというのは、笑ってしまうこと。子どもの気づきとして表現された二首目によって、著者も読者も未来へのひかりを感じることができる。
「げんきかな」ただそれだけのひらがなを打ちいる指はしわしわだろう
ありきたりだけれど泣いてくれるからなんどでも言う「生まれてよかった」
一首目、老いた母が送ってくるメールは、字を覚え始めた子どものようにたどたどしいが、純粋で素朴で、だからこそ心に響く。
二首目、老いて幼い子どものようになってゆく母だから、娘として、こちらも素直に思いを伝えることができる。「生まれてよかった」という言葉以上の感謝の言葉が他にあるだろうか。
裁ち鋏たんと磨いて古そうな夫の肌着で試す切れ味
寄り道のカフェ一杯で香り立つ女になって ただいまあなた
濡れ落ち葉の見えるところに腰かけてふたりで食べているララクラッシュ
一首目、この一首だけ取り出すと、サスペンスドラマのような怖さを醸し出しているが、二首目、三首目によって救われる。帰宅するまでに、外での様々な確執や喧噪を脱ぎ捨て、自らを軌道修正しようとする試み。ささやかな試みだが、著者の前向きな姿勢が伝わってくる。
三首目、「濡れ落ち葉」は、実景ともとれるし、いわゆる「濡れ落ち葉症候群」的な意味合いもあると思う。「濡れ落ち葉症候群」が間近に見えるような距離感の夫婦だけれど、そこまでにはならない。意表をつく結句「ララクラッシュ」が、鮮やかで若々しい。
登場人物の核となっているのは娘である。作品数も、圧倒的に多い。
もし君をたまごで産んでいたのなら食べていたかもしれぬ親鳥
この圧倒的な表現に、読者は息を吞む。そして、この究極とも思える表現に至る著者の思いを、次のような作品から知ることになる。
障害を持つ子を産むなという識者 生まれてそして生きている娘よ
咲いたけどあまり褒めてもらえないペンペン草はランより強し
健やかに生かしてください吾の子も「おかねのけいさんはできません」
障害を持って生まれてきたわが子へ、母としての、ただただ純粋な、生きて欲しいという思い。歌に、何の技巧も修辞もいらない。
リスパダール液体(不穏の時)とある。世界はこのごろ常常ふおん
専門的なことは解らないが、どちらも、精神的に不穏な状態の際に処方される薬剤と思われる。一首目、謎めいていると言われるモナリザの微笑み、その本当の心の内は、当該の本人にしか理解し得ない。卵であれば、親鳥として、それを食べてしまうことは可能であるが、人格をもったひとりの人間に対してはそれもできない。障害をもっていようがいまいが、親と子であっても、ひとりとひとりの距離は、時に果てしなく遠いという思いに至る。
二首目、ひと一人の不穏な状態よりも、世界ははるかに不穏であると思う。その不穏な状態が、ひとりひとりを不穏にさせて、他者を大らかに受け入れることをできなくさせている気がする。
表現できぬ思いに苛立っているきみの そやけどなそやけどなそやけど
永遠に迎えに行けぬときがくる 来てくれないのと?と訊けないきみを
子を見守り、支えることができなくなってしまう時のことを思う。自らで、自らの危うさを伝えられない子であれば尚更。痛切である。
穏やかで、端正な表現でありながら、著者の視点、切り口は鋭い。最後に、その断面をあげてみたいと思う。
ほほえみを浮かべるように人を見て並んで貰う冷凍の魚
動物園での様子。人間に対して、媚びているわけでもないのに、そのように見えるのは、著者の心象の反映だろう。そして、与えられるのは、生ではない冷凍の魚。動物も、人間もどこかさびしい。
やわらかな流れの上句に対して、あの糸のようなミズカマキリがという結句にドキリとさせられる。
もう駄目だほんとにダメだが「忍忍」と呟くアニメの忍者を見ていた
もう精神的に限界だという状態になって、それでもまだ、テレビ画面に「忍忍」とあっけらかんと言われてしまう。足をすくわれたようで、一瞬心のもっていきどころが無くなってしまうという場面。意外と、こんな状況はある。
家じゅうの食器を割りたいとりあえずペットボトルをペシャンコにする
破壊願望というのであろうか。ほんとうは、何もかも毀してしまいたいのに、他への影響の無いペットボトルから手始めに。家じゅうの食器なんて、到底できない自分自身であることを知っているのも自分なのだ。
スズランを引き抜かれたるような日が暮れてスズランの毒を思いき
可憐で、ひ弱そうに見えるスズラン、その根や花には、最悪、死に至らしめるような毒があるという。「引き抜かれたるような日が暮れて」によって、誰かが誰かを死に追いやろうとしたのではないかということまで想像させて、迫力のある歌である。
停車場に降りてしばらく風を待つヤンマに光が刺さっている
この作品も、結句が印象深い。「光が射す」とはいうが、その光が「刺さっている」という表現はあまり見たことがない。光に貫かれたヤンマの未来を想像してしまう。
夕雲の光るところを切り取ってともし火にするところで会おう
歌集『ひすとりい』の最後におかれた一首。
痛切な思いが編まれた歌集であった。抗えない今を抱えながら、それでも、灯火をかざして生きていこうという決意の表白された一首であると思う。