ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

石畑由紀子歌集『エゾシカ/ジビエ』を読む

肉を焼く お前も肉だろうという声が肉からする 肉を焼く

 この一首が、Twitterに流れてくるのを見たとき、たまらなく「石畑由紀子」という人の歌を読んでみたいという衝動が走った。
 何だろう、人間だけがもつものなんてなんになるの、人間としての尊厳なんて糞食らえだ。動物にも植物にも人智を超えた生きるための知恵があり、愛もあり、悲しみもあり、この世界に、人間としての奢りをまき散らすのはやめろ、と一喝されたような気がした。そして、変にすがすがしい気持ちになった。
 どれだけ、私たちが日々、持たなくてもいい多くの重たい枷をまとっているかを思った。すべてを脱ぎ捨てれば、一塊の肉でしかない私たちなのに・・。

 早速、歌集『エゾシカジビエ』を取り寄せた。

 北海道に生きる著者の作品世界が、樹木やけもののにおいをまといながら、雪の礫となって向かってくるような迫力を感じた。

くちびるに触れるはかないものたちをあまく殺めて これは雪虫

 北の地方では、雪虫が飛び始めると、また厳しい冬の季節がやってくると知ることになるのだろうか。雪虫自体は、あわあわとしたはかない存在だけれど、北国に生きる人たちにとって、覚悟を強いられる象徴なのだ。

敗北に北のあること川べりに凍りたがりのみずを見ている

川べりの霜を踏みつつ辺地という言葉をわたしはさりさり憎む

 この歌集は、全編をとおして、北の地に生まれ、そこに生きている日々の咆哮のように思える。「敗北」という言葉は、もともと、方角を指すものではなく、二人の人が背を向け合っている様から由来しているという。それでも、「敗北」という、ネガティブな言葉のなかに「北」をおかれたことがゆるせないのだ。水よ、そんなに許容して凍ってくれるな、という感じだろうか。
 「辺地」という言葉もそうである。そこに住むひとりひとりに関係なく、ひとくくりにそう呼ばれることへの怒り。「さりさり憎む」が攻撃的でない怒りを想起する。

石畑と名乗りはじめた先人の両手のひらの血豆をおもう

 不毛の地であった広大な土地を、気の遠くなるような手作業で、切り開いてきた先人達。「石畑」と名乗りはじめたことの、先祖達の決意と覚悟に、とおく思いを寄せるのだ。
 このような思いは、樹と斧のせめぎあいとなって、著者の作品の中に、しばしば現れる。

斧の音芯まで残るししむらに流れるみずを樹液とおもう

いつかの樹の根元に振り下ろされたのはとおいむかしのお前の斧だ

みぞおちに斧うつくしく研ぎあげて正しく怒る気高さにおり

白樺、白樺、切り株、白樺、たましいも幻肢痛あり並木にふれる

 樹も斧も、著者のなかでは、気高く、尊く、著者と一体化し、息づいているのだ。


マイナスをつけずに気温をいう母の、父の わたしの内に降る雪

浴びたならこごえるような水をなぜひとは飲めるのでしょうね、蛇口

止まらないみずも凍っていくことのマイルスのトランペット、寒いよ

 北の地に生きる人ならではの三首。
 一首目、マイナスをつけないというと、どれほどの数字なのかわからないけれど、隠されていることで、変に空恐ろしさを想起させてしまう。
 二首目、ほんとうに、そう、人間の底にある強靱な生命力を思う。
 三首目、流れてゆく水さえも凍ってゆく寒さ、マイルスのトランペットは聴いたことがないけれど、金管楽器が醸し出す鋭利なひかりや、マイルスという語感から、その凄絶な寒さを想像することになる。

食されぬ肉塊として車輛越し一度限りの邂逅われら

かなしみは速さ侵入者であれば鋼の足を敷きひた走れ

丸鶏を腹から開く生前の密事は何処へゆくのだろうか

 冒頭にふれた一首のように、歌集中には、野性味あふれる作品も多い。荒々しくて、血の臭いのするような、それでいて、深く命の哀しみに寄り添うような表現である。
 一首目と二首目、作中主体は、車輛の人である。野生の動物が不意に現れて、車輛は、それを轢いてしまった。たった一度出会った命と命を、こんなかたちで知ることになる。私達は、私達が生きるために、生きものを殺め、それをいただく時に、その命のことを思う。そうではなくて、「食されぬ肉塊として」出会うことも多いのだ。
 腹に一物を持つとか、腹に据えかねるとか、腹を立てるとか、腹は、数え切れないほどの、人間の心象を、抱え込んでいるところらしい。調理された鶏の腹を割きながら、この腹におさめられていた、他者の知らない密か事は、どうなってしまったんだろうと思う。自らの死後を思うようなシュールな一首である。

やわらかく倒されながら思いだす雪虫の雄に口のないこと

沼尻にぬ、と差し入れるここちして抱く頭髪の暗いぬくもり

ふれるとき底いにみずの動くおときみは根開きのくるしさをいう 根開き→ねあきのルビ

 著者の相聞歌も、どこか冷え冷えとして、北の大地の風土を思わせる。

 一首目、下句の表現にはっとする。官能的な場面で、くちづけのできない雪虫のことを想っている冷めた感覚と、どんな場面であっても、北の地に生きる感覚であることがせつない。
 二首目、「ぬ」が、ぬめぬめとした粘性の心象風景として読者に伝わってくる。相手の頭髪をかき抱きながら、それは、相手の深くて暗い部分へも、足を踏み入れることになってしまうと気付くのだ。
 三首目、「根開き」とは、春先になると、樹木の根元だけ、雪が溶け始めることを言うそうだ。樹木は、地下水を吸い上げて生きているので、その水が、外の空気よりも温かくなると、このような現象が見られると言う。相手の鼓動に触れたとき、確かに生きている証を感じながらも、相手の生きているがための苦しさも、同時に受けとめなければならない作中主体なのである。

 ほんとうに溺れているひとはしずか加湿器がこくりとみずを飲む

 歌集中で、最も惹かれた一首かもしれない。溺れている人を、つぶさに見たことはないが、そうであると信じられる迫力がある。下句の、冷ややかな静けさが、音として読者に入ってきて、背筋につめたい恐怖を感じる。

 けものなら終わるいのちを繋ぎとめひかり輝く廊下の向こう

 著者は、つねに獣たちの息づかいを近くで感じながら生きていることを感じさせる一首。人間は、病を得ても、可能な限り、その再生のための手当を施すことができる。しかし、野生に生きる獣たちはどうであろうか。傷ついたら傷ついたまま、痛みをかかえたまま死んでゆくしかないのである。人間は、こんなにもピカピカの設備のなかに身をおけるというのに・・。

 私は、冬生まれで、夏よりも冬の季節が好きだ。そして、今私が住んでいる土地でも、シカや猿やイノシシや、他の小動物も、日常に出没し、田畑に甚大な被害を及ぼしたりもしている。自然も豊かで、木々や草木も、季節のうつろいを伝えてくれる。山は緑豊かで、川はその流れをたおやかに横たえている。
 しかし、この『エゾシカジビエ』に出会って、私は、それらと、どれだけ共に生きてきただろうかということを思った。もう一度、あらためて身めぐりに向き合ってみたいと思った。
 そして、私なりの向き合い方で、それらを短歌に残してみたいと思った。

 最後に、評はできなかったけれど、印象に残った作品をいくつかあげておく。

水鳥の羽裏のしろさ平気よという顔をしてきみに手をふる

歯みがきや洗顔のように信じてる川にひたすら雨降っている

川と海みず混ざりあう場所にいてたましいの正座を待っている

恋愛は人をつかってするあそび 洗面台に渦みぎまわり

仄明るいひとすじが見えるひとりきりいってかえってくるための道

ゆっくりと染まる坂道 ゆっくりと燃える坂道 ふりかえらない

街のどこかの炉に立つ炎ひっそりとわたしであった肉が逝く

十秒後をなにも知らない 火を分けるように体温をすこし差し出す

家族して餃子を包むみちみちと誰も死なないような気がする

少年の心を持つという揶揄よ少女ばかり渡る夜の河

友たちへ手作りのハンカチを配るちいさな窓を配る手つきで

畑中秀一歌集『靴紐の蝶』を読む

畑中秀一(はたなかしゅういち)さんは、白珠の同人。
現在、私が参加している「フレンテ歌会」のメンバーでもある。

昨年、40年間勤めた会社を退職し、新しい生活へのスタートとして、この第一歌集『靴紐の蝶』を上梓したということだ。

朝とらえ夜とき放つ靴紐の二匹の黒き蝶を飼う日々

歌集の題名となっている、『靴紐の蝶』は、この一首からとったと思われる。

むすびめに秋蝶しづかにおりてくる隧道ぬけたらほどいてあげる

これは、私の一首だが、この『靴紐の蝶』という題名を見たとき、すこぶる親近感を覚えたものである。著者にとって、二匹の黒き蝶は、会社勤めのためのビジネスシューズの紐だろうか。朝、出勤するとき、靴紐を結び、帰宅してから解き放す。「黒き蝶を飼う」という少し不穏とも言える表現は、ビジネスマンとしての宿命を纏った重たい心象ともとれる。

あらためて「五臓」の意味を確かめて4.5臓のわが身と知りぬ

五臓」とは、肝・心・脾・肺・腎の5つの臓を指す。著者は、そのうち、ふたつある腎臓のうちひとつを摘出したことを、歌集中から知ることができる。実は、私も左片腎のみで、40年ほどを生きている。4.5臓という捉え方をしたことがなかったので、新鮮というか0ではなくて、0.5の存在を認識するポジティブな考え方だと思った。

著者は、40年間、会社勤めをし、50歳半ばには、インドでの単身生活を経験している。どれほど熾烈なビジネスマンとしての日々が語られるのだろうかと思ったが、そうではなかった。
その表現世界を、たどっていきたいと思う。

世渡りは上手になれず夕凪の橋にもたれて海を見ており

著者の真髄は、ここにあるのではないだろうかと思う一首。憤りや、辛さを、他者に向けるのではなく、自らを静観し、自らのなかで処理し、自らが心地よくいられる術を探し出してゆく。その達人のように思われる。
そのことは、次のような作品からも読みとれる。

肉じゃがの名前に入れてもらえない玉ねぎが好き 私のようで

いややけど認めたるわというときは決裁印を逆さまに押す

世間からはじかれた夜はダイソー多肉植物コーナーに寄る

生きるってやっぱり痛い たまきはる命にひそむ叩くという字

どの作品にも、攻撃的な表現はなく、かといって自らを卑下しているのでもなく、淡々と穏やかに自らの行くべき方向を模索しているようで、それが読者にも安心感をもたらす。

歌集の中盤には、著者の物の見方、捉え方がおもしろく印象的な作品が多い。いくつか紹介しておきたい。

角と角かさね折るときズレを生み個性を競う千羽鶴たち

全く同じように折られているように見える千羽鶴にも、千の個性があるのだということに気付かされた一首。

白シーツ前抱きにして骨壺を抱えたような客室係

ホテルなどのベッドメーキングのために、白いシーツを抱え持つとき、骨壺を持っているように見えたのだろう。白という色の尊厳が際立つ一首。

電車にて舟こぐ人の横にいてやがて舟着き場となりぬべし

電車通勤をしている人なら、日々よく見る状景であろうが、「舟着き場」として受け入れたのは、著者が初めてではないだろうか。なんというしずかな包容力。

食べ終えし巨峰の皿に乱れたる家系図のごと身をさらす枝

家族が集まってきて、葡萄を食べたのだろうか。一気に食べ尽くしたあと、葡萄の残骸がとり残されている。その残骸を、乱れた家系図に見たてているところが、この一首を一気に印象づける。家系図が出てきたので、どうしても家族団らんの景を想像してしまう。

父の名の横に母の名きざまれてそのまた横の墓石の余白

少しあとには、このような一首もある。父を送り、母を送り、当然順番からすると自分の名前が刻まれるはずなのだが、その余白の醸し出すよるべなさに、ふと呆然としてしまう主体がいる。物言わぬ余白に、不確かであてどない未来を感じてしまうのだ。

はじめにも書いたとおり、『靴紐の蝶』は、著者の人柄が、まっすぐに伝わってくる歌集だ。読者は、その人柄を信頼し、安心してその作品を受けとめることができる。身構えたり、言葉の先に深くある意図を手繰り寄せたりしなくてもよい。その作品群に触れることによって、読者自身も、自らの在り方、進むべき方向を見つめ直すことになるのだ。

以下、印象に残った作品をいくつかあげておく。


誰もみな誰かの他人であることに慣れてまばゆき秋晴れの空

乾かさず出張先より持ち帰る折りたたみ傘のスペインの雨

たましいに餌やるように平日の海遊館を丹念に見る

「千寿」より「極楽」がいい 名前にてスーパー銭湯えらぶ老い母

母つけし赤丸のこるデイの日に遺族としての挨拶にゆく

忘れもの同士の傘が寄り添って語り明かしたローソンの前

ゲーム機のマリオは右へいにしへの絵巻の話は左へ進む

ふるさとが村役場から区役所へ変わりゆく間に失くした野原

島国というは知りつつ「島民」とは思わざるまま本州に住む

羽化させてくださいませというように斜めにかぶる麦わら帽子

風鈴が身がまえている ダイソンの新しく来た扇風機の風

電話しつつ充電コードに繋がれて束の間ポチの気持ちがわかる

世間では耳鳴りと呼ぶ症状をしぐれと呼んで蝉と語らう

いい卵を産むのでしょうか君をかみ私をかんだ苑のやぶ蚊は

澄田広枝第二歌集『ゆふさり』批評会

素敵なパネラーの皆さま、励まし背中を押してくださる歌友の皆さまに支えられて

澄田広枝歌集『ゆふさり』批評会を企画しました。

多くの方々のご参加をお待ちしています。

 

 

佐々木佳容子第二歌集『遠い夏空』を読む

 『遠い夏空』/2020年青磁社刊 は『白珠』の同人である佐々木佳容子(ささきかよこ)さんの第二歌集である。私が参加している『フレンテ歌会』の先輩である。 

 この歌集は、四章に分かれている。章を重ねるごとに、編年体ではないということだが、著者の心情が重層的に深みを増し、それが作品として昇華されていくという印象を持った。

 印象に残った作品と、特に好きな作品に、感想を書いておきたい。

 

Ⅰ豊かなるもの

春風にのりておとなふ夕闇を抱けばさらさらさくら散る音

 「さらさらさくら」が、ほんとうは音もなく散っていく桜なのに、その散る音を聞き分ける繊細な聴覚を有しているようで印象的だ。 

羽化終へて網戸に蝉の休みおりわれと分けあふ朝の静けさ

 今生まれたばかりの蝉とわけあう静謐な朝の時間が神々しく、短いけれども鮮やかな蝉の未来を内包している。

宙吊りに実らせ農夫は破顔する空飛ぶカボチャたあこれのことだ

 「破顔」が、やや堅い印象もあるが、歌舞伎の口上のような語り口が心地よく、臨場感がある。「空飛ぶカボチャ」の命名をした農夫、夢があって格好いい。宙吊りのものの正体の種明かしも絶妙。


Ⅱ去りゆくもの

 この章は、あの世とこの世をたゆたう自身がいるような、不穏でたづきなさの滲んだ表現が多いようだ。


からだから息が離れていくやうに匂ふ梔子月を惑はす

 前半の表現に引き込まれる。梔子には、そのような魔力があるかもしれない。梔子が月を惑わすなど大仰だが、あるかもしれないと思わせてくれるから不思議だ。

さからはず風に揺れゐる竹群の主語でも述語でもなく生きて

 自らの生き方は、風に逆らわず、風の流れに身を添わせる生き方だったのかもしれない。一文のなかで、主語として表現されなかったとしても、その述語でもない、私には、私のおさまり方があるという強い意志を感じた。

 

なんとなく浮く真昼間の白い月ふくらみ加減の演出がいい

命果てて物体になる日よどの人も柩の中のわれをのぞくな

階段を転び落ちゆく一瞬の視界に白きシクラメンの花

奥の間にならぶ先祖の顔写真ときおり表情違ひて見える

 

夕暮れの庭木の影に白犬の尻尾が見えて他界はありぬ

 他界と現世の境目は、案外身めぐりに存在しているのかもしれない。白犬は、他界を思わせるメタファかもしれない。「他界はありぬ」と断定しているところがよいと思う。

武器になるやも知れぬと赤き傘もちて雑踏へ紛れゆくなり

歩いても歩いても着かぬバス停に母待ちをらむ 約束の場所


Ⅲ小さきもの

 近親の小さな人たちへのまなざしが、その未来を照り返しているように明るく表現されている章だと思う。


デジャヴ、デジャヴと音を立てつつ洗濯機は今日も洗へり少女の夢を

 フレンテ歌会の同人誌『パンの耳』で最も印象に残った作品。「デジャヴ」の使い方が絶妙で、多感な少女時代を大らかに表現していて好感が持てる。

通り雨が大地の匂ひを掬ひとる 濃き草いきれ獣のゆまり

 大自然の匂いや営みが、間近に迫ってきて懐かしいような泣きたいような郷愁を誘う歌である。

目のなかに草原をもつ三年生おとなのやうなため息を吐く

春風の匂ひかぎわけ青虫は朝の冷気をしやりしやりと食む

 

一面の青田のあはひを老いの乗るバイクふはふはほつほつ

 時々このような、あっけらかんとした歌に出会い、ほっとする読者がいそうだ。結句が、老いの運転の危うさと、そんなことはおかまいなしに、田舎道を暴走する老いの傍若無人ぶりが微笑ましい。田舎道だからこその微笑ましさ。

 

遠からず壊れるだらうぎりぎりと音たて回る扇風機とわれ

ガラス戸の向かうにもゐるこの私ひとり居の夜を共に過ごせり

聖戦とあなたも言ふのかその腕に産みし赤子をしかと抱きゐて


Ⅳ 近づきくるもの

 近づきくるのは、誰にも逃れることのできない他者との別離、また、自らが現世を去る「死」というものを指している。たしかに近づきつつある「死」を思い、今在ることの意味を真摯に問い続けている章である。


流れゆく水音きけば胎内の記憶あらはるといふ君のうた

白百合の蕾ばかりを購へり期待するもの多きあしたに

 

窓ガラスを叩く雨粒追ひながら雨でないもの見てゐた少女

 少女は、眼前の少女とも思えるし、少女を見ている作中主体がその記憶をたどっている作中主体自身の少女期とも思える。想像することが好きだった少女期の様子が思い描かれる。

死ぬまでに砂漠を見ておけ砂色の時間と空気は息してをらぬ

 試練のまっただ中にいるときに、何処からかこのような声がしてきたと読んだ。人生に一度辛い思いをしたならば、それを乗り越えた時には、何があっても生きてゆける強さを備えることができると・・。

夜明けまで遊びしものら戻りをり現し身の吾は誘ひてくれず

 もう亡くなってしまった人達が夜通し身めぐりにきて、昔語りをして夜明けに帰っていった。私は、やはり他界の人ではなかった。こうして残されてしまったのだから・・。亡くなった人達との強い結びつきが感じられる。

 

古き戸の音きしませて閉むる時ほろりと一日が外へこぼるる

ぬけがらを葉裏に残し蝉の鳴く七年ためたる力もて鳴く

魔力もつ月の光がとどき来て造花が一瞬ほんものになる

そこここに死が待ちをらむそうろりと扉をあけて聴く夜の音

 

傷つけし人の数だけ増えてゆく白髪に飾らむ風のなかの紫苑

 結句「風のなかの紫苑」が、印象的で、白髪との色彩感覚が寂寥感を残す一首。

待ち人はいづこに我を待ちをらむ出口の多き駅のたそがれ

 作中主体は、誰とも待ち合わせなどしていないのではないか。これほどたくさん出口があれば、思いもかけぬ人が、どこかの出口で、私を待ってくれているのではないか、そんな期待をしてしまう黄昏れどきである。

元気かと問はれて応ふ澱むなく「死んでをらぬが生きてもをらぬ」

 著者にとって、生きているという実感は、現状ではないということが解る。「生きてもおらぬ」という強い言葉に、ドキリとさせられるが、それだけに、著者の生きるということの理想が強く感じられる作品だ。

わさわさと人立ち去りて会場に残さるるひとり 快感ならむ

 結句が、言い過ぎてしまったように思うが、余韻を楽しむこともせず、皆立ち去ってしまったあとで、ひとりの時間を見つめるというのは共感できるシチュエーションである。

 

語気荒く独りごつ吾の頬を打ちカーテン大きく風にふくらむ

腹立ちて写真破れば君よりもわたしの笑顔が斜めに裂ける

冷え切った新聞手にして早朝の配達員の白髪をおもふ

 

靴底の石除かむと外灯の下にしゃがめばわが影のなく

 どきっとする歌である。影のないというのは、死者を思わせる。それは、作中主体が、この世に存在していることを否定するような思いをはらませているのかもしれない。
八十年の人生たたふる通夜の席 知人・友人・愛人がくる

 ひとりの人間が亡くなると、その長い歴史に関わる様々な人との繋がりが顕在化される。良くも悪くも、人はひとりでは生きていないということを思い知らされる。誰もが故人を讃えるなかで、結句への展開に、苦笑し、安堵し、納得する読者がいる。

咲ききれる椿の花の落ちいそぐ涙のやうで脱皮のやうで

 花首から落ちてゆく椿。それは、死と呼ぶのかもしれないが、著者は、あえてそれは、「脱皮」ととらえ、未来への希望を託すのである。

陸橋よ寂しくないか六車線またぎてじっと人を待つのは

 陸橋をこのような見立てで表現したのが新鮮だ。六車線というと、ずいぶん車の往来が激しい「動」の世界だ。反対に、陸橋は、動くことは許されない「静」の世界だ。対照的なそれぞれの存在感に、自分の生き様を重ねているように思う。

紀水章生第二歌集『風と雲の交差点』を読む

『風と雲の交差点』は、2014年に、第一歌集『風のむすびめ』を出版
してから、9年ぶりの紀水章生の第二歌集である。

著者の「あとがき」にもあるように、近年、著者は自作短歌を朗読ビデ
オ化することに精力を傾けてきた。言葉と文字による表現以外の要素と
して、映像や音楽・朗読などの要素を取り入れた作品作りを手がけてき
たのである。

その成果として、現在、youtube上の紀水章生の朗読VIDEOチャンネル
には、短歌朗読VIDEO作品が、数多くUPされていて、著者の詩的な世
界をひろげようとする思いが伝わってくる。

そして、今回、著者はその短歌朗読VIDEO作品を歌集化することを試み、
この歌集『風と雲の交差点』が生まれたのである。

こういう道すじでできた歌集は、これまであまり類をみないものである
と思う。


『風と雲の交差点』から、印象に残った作品をいくつか辿ってみる。


着信にかけ直してもコールだけ蛍はいまも漂流している

非通知の電話三本 宵闇の向こうを走っている黒いゾウ

電話の歌を二首ひいた。
一首目、携帯電話の着信時や、通話時には、蛍の明滅のような灯がとも
る。何か行き違いがあった相手との、行き場のない不全感が、蛍という
淡々とした具象、「漂流」という絶望的な状景によって鮮やかに表出さ
れている。

二首目、「非通知」という、正体不明の相手からの通知、しかも三度も。
「黒いゾウ」は、唐突なようであって、現代社会の闇のような部分を
端的に表す不穏な存在だ。


次に「海馬」の歌を二首

まだ明けぬ暗い夜空を生きたあと海馬の奥へ沈む風花

海馬には忘れ去られた星屑が煌めきながら降り積もるのだ

「海馬」は、人間の脳のなかで、記憶をつかさどる場所。著者の作品の
なかでは、数限りない記憶が、「風花」や「星屑」となって、時空を越
えた「海馬」の海にたどりつくのだ。


ゆうぐれの土管の向こうを行くひとに世界が燃えてること伝えたい

不思議な歌だ。作中主体は、土管のなかにいるのだろうか。子どもの頃
の遊びを追体験しているようにもとれる。「世界が燃えている」、夕焼
けの美しさを伝えたいと読んだあとで、ウクライナの戦況や、一触即発
の危うい世界情勢のことをも重ねずにいられない。


さびしいと思えばさびしい音のする小さな鐘がこころにはある

どちらかというと、著者のさびしい歌が好きである。
自分は、さびしさなんか感じないで生きてゆけると思っていたけれど
ふとしたことで、これはさびしいという感情なのではと気付く。自らの
こころをかすかにゆさぶってみて、ああ自分はさびしかったんだと気付
く。心のなかで小さく音を立てる鐘が、それを気付かせてくれる。気付
いたこと自体がさびしいのだ。


もうさくら咲きそうだからもうさくら泣きそうなほど咲きそうだから

この歌も、私は、さくらの咲く直前の力あふれる歓喜の歌と読むより、
命の放出されるエネルギーに立ちすくんでしまうような、せつなさを感
じてしまった。さくらが咲きそうということだけしか言っていないのに
これほど余情を内包できるものなのだ。


呼ばれても返事はしない 少年の晴れでも雨でもないほの暗き日々

少年期、いわゆる思春期の頃の追憶。自分の感情なのに、自分自身をも
てあましているような思い、自分が何者なのか、何処へ行こうとしてい
るのかわからない、変に明るく、すぐに傷つく。
今の自分が、あの頃の自分に呼びかけられて、立ち止まっているように
も感じた。


雨であることがわたしをくぐりぬけぼっちぼっちのさんにんぼっち

「ぼっちぼっちのさんにんぼっち」を、読者のひとりひとりは、どんな
ふうに読むのだろうか。自らの境遇に重ねて、三人という集合体をどの
ように捉えるのだろうか。
わたしは、「雨であることがわたしをくぐりぬけ」から導かれる、どこ
か哀しみを纏いながらの三人であると読んだ。この広い世界のなかで、
たった三人きりだよという潔さと表裏一体となったさびしさに「ぼっち
ぼっち」が響いてくる。


歌集中、「あなた」が実に多く出てくる。相聞にとどまらず、どこか遠
くかたちのない浮遊した世界へ呼びかけているような歌も多い。
そのようななかで、次のような相聞歌が印象に残った。


駅からの暗い小道に月よりもきれいな耳を見送るゆうべ

かぎりなく「耳」に収束している美しい歌だ。一篇の物語が紡ぎ出され
てゆく。


卵抱くかたちになってしまうのだ疲れたあなたに寄り添うときは

「なってしまう」という表現から、疲れた相手を癒やしてあげたいけれ
ど、私にできるいちばんの行為はこれがすべて、という思いが切々と伝
わってくる。托卵は、そこから新しい命が生まれてくる崇高な行為なの
だ。


花の咲く季節のはじめ つんのめりあなたの影のなかに倒れる

思いがけないあなたの行動によって、作中主体の前途がいっぺんに翳っ
てしまった。花の咲く、心躍る季節なのに・・

房総へ花摘みにゆきそののちにつきとばさるるやうに別れき
   大口玲子

を彷彿とさせるシチュエーションである。これは恋愛においての暴力と
言うべきか。
「あなたの影に倒れる」は、お互いの心の機微に巣くう闇のようなもの
を感じた。


つゆくさの葉末に溜まる雨水のようで揺らしちゃいけない時間

きみがまだ水のしずくであったころ落ちそうにほら青をゆらゆら

二首ともに、美しい相聞歌と読んだ。
相手を、つゆくさの葉末に溜まる雨水や、水のしずくにたとえ、相手の
時間(生き方)を大切にしたいという思いが伝わってくる。


『風と雲の交差点』は、歌集として文字になったことから、読者は、朗
読や映像の世界とはまた違う世界を味わい直すことができるようになっ
た。

短歌朗読VIDEO作品に映し出された世界から逆流して文字になった、著
者の透明感あふれる作風を、もう一度読み直すことができるのだ。


最後に、心にとめた作品は数多くあったが、上掲のほかに、特に好きな
作品ををいくつか記しておく。


暗がりのやさしい時間をなだめおりカケスは怒ってばかりいる鳥

ハルシオン春は遠くてまだ浅い眠りの上にある無影灯

橋という存在自体が美しい破れたつばさを空に広げて

泣きだした子どものようで並木道ふるえるバイクをゆっくり押した

天窓に見えてる星が動かないピラミッドなら王の部屋だね

歳月のはざまを生きているようで濡れた落ち葉をかぞえられない

切り取った世界の欠片のコラージュの日々朝五時に新聞が来る

ソーシャルであるのかどうかあなたとのディスタンスだけはひらかない

月のない夜であるからよくわかるあなたとわたしの心のかたち

 

千葉優作歌集『あるはなく』を読む

毎月の『塔』の作品や Twitterに流れてくる著者の作品を読み
いつも、わたしの心のなかの風景がそのままとりだされて、目の

前におかれているような感覚に陥る。

それほど、この人の紡ぎ出す言葉の世界は、私が表現したくて
したくて、それでも表現し得ない世界を、圧倒的な表現力で
差し出して見せてくれる。

歌集『あるはなく』が出版されるのを知ったとき、どれほどの
喜びと期待、そして怖れにちかいものを感じたことだろう。
                

見上げれば虫に食はれたところから空に変はつてゐるさくらの葉

みづたまりだつた窪みのあらはれて路上に消えてあるみづたまり

営業をやめてしまつたコンビニがさらすコンビニ風の外観

半円にすこし足りない虹かかりこの世にはない残りの円弧

二千年前からミロのヴィーナスがしづかに耐へてゐる幻肢痛

この世に存在しているものたちは、自分が在ると信じているだけで
本当は、自分の視界のなかだけのもの、他者には見えていないもの
なのではないだろうか。

一首目、確かに葉として存在していたものが、すこしづつ消えてゆ
き、やがてその場所は空という名で認識されるようになる。
森羅万象すべてが、そのように移り変わっていくことを見つめる
冴えたまなざし・・
人間の営みも同じであると、著者は思うのだろうか。

二首目も、水たまりとして捉えていたものが、水が存在しないだけ
で、もう水たまりではなく、別の風景として視界に入ってくるのだ。
三首目、四首目、コンビニや虹の半弧が、たしかに存在したもので
あるはずなのに、その残骸のように現れるとき、著者は、その見え
ない方の世界に思いを馳せるのだ。

五首目、ミロのヴィーナスの両腕に視点を当てる。不在ゆえの想像力。
けれど、幻肢痛を詠ったのは著者が初めてだと思う。しかも、その痛
みにしずかに二千年を耐えているというのだ。

 

次の三首も、そうである。
自らの認識によって、対象のものはかたちを変える。対象は変わって
いなにのに、自らの身勝手な思いによって捉えられる。
著者は、その対象側に立って詠う。

失くしたと気付かなければえいゑんに失くしたものになれないはさみ

ほんたうは僕が変はつたせゐなのに度が合つてないと言はれるめがね

こんなにも脚が長くておれの影なのにおれには似てゐない影


見めぐりの静物に対してのまなざしも哀しくて深い。

ワイシャツを脱げばわたしがワイシャツのたましひだつたひとひが終はる

生身の人間の体温を纏うことによって、息を吹くワイシャツ。
著者の一日の労働も、ワイシャツを脱ぐことによって終わるのである。

 

月光に濡れて窓辺に吊られゐし形状記憶喪失のシャツ

形状記憶と銘打たれたシャッツも、着古され、何度も洗われくたびれてゆ
く。老いてゆく人間のように。 形状記憶喪失が、衝撃的。

 

ハンガーは何も言はずに吊されてかくも静かな労働がある

こんなかたちの労働があるということに気づき、著者は何を思っただろ
か。たぶん自らの労働を重ね合わせ、労働というもののほとんどが、限り
ない静かな忍耐を重ねてゆくことだと気付いたのではないだろうか。

 

著者が、かなしみや、さびしさを、事物や情景に託して表現するとき
今まで誰も詠わなかったかなしみやさびしさとして読者の前に現れる。

いつか降る雪はわたしを比喩にして空がかなしみから溢れ出す

わたしは、空の大きさから言えば、たったひとつの比喩でしかない。
わたしの存在さえも、やがて雪のようにとけてしまうはかない存在かも
しれない。けれども、そんな私を生きてゆく。
かなしい歌だが、絶望的でないのは何故だろうか。

 

手羽先をひとりでほぐす夜である絶望的に空がとほいよ

思ひ出の手紙の墓となるだらう鳩サブレーの黄なるカンカン

まへぶれもなくこはれたるすいはんきあの日のきみがさうだつたやうに

手羽先、鳩サブレーの黄なるカンカン、すいはんき、どれもが日常の
なかで、それほど光をあてられる素材だとは思えない。

けれど、著者の短歌世界では、手羽先をひとりでほぐす行為と、絶望的
とまで言い放つ著者のさびしさの呼応は、やはり手羽先でなければなら
ないように思えてくる。

鳩サブレーの、あのビタミンカラーも、別れた人の手紙を入れる箱なら
ば、おのずと墓となってしまうのだ。

炊飯器という、日常にあたりまえのように使われて、そこに在るのが
あたりまえのような存在も、壊れるには壊れる前の前兆のようなものが
あるはずだ。あの日のきみに、前ぶれもなくというしかない悲しみ。
(この歌は、チューリップの サボテンの花を思い出した)

 

社会詠も、著者は、限りなく自らの身めぐりに引き寄せて詠む。

たんぽぽのやうに暮らしちやだめですか三万人が自死する国で

三万人が自死するこの国に生まれ、この国に生きてゆく私達、春の
草生のなかに咲き、風にまかせて綿毛を飛ばし、下り立ったところに
また新しい命を育んでゆく、そんなたおやかな生き方を望み、それは
叶わないと知っている著者。

 

常識的な時間に洗濯機を回し隣人に刺されないやうにする

赤ん坊の泣き声にさえ険悪となる人と人とのつながりのなかに生きて
「常識」とは、誰の判断基準をもってあるのかを問いたくなる。

 

みづからの子を殺したる男さへ新聞は父と書かねばならぬ

「父母」という概念が覆される事件が多い現世、事実を端的に表現して
主体を新聞にしたところが、ありきたりではない社会詠となった。

 

著者の、生と死に向けられるまなざしは、こんなに若い著者が、と驚くほ
ど日常の生活に息づいている。

労働の合間はひとり死んだものばかりを詰めた弁当を食ふ

八ツ四つ串いつぽんにつらぬかれ鶏は四羽も殺されてゐる

鯖缶のぶつ切りの鯖 この鯖の身体が別の鯖缶にもある

日常の飲食のなかに、著者は生と死を見続ける。冴えて、冷めた目である。
しかし、読み終えたあとに、命を奪い続けることで命をつないでいる
私達の日常をつきつけられていることに気付く。

 

いつかゆくあの世の雪を見てゐたり流しに洗ひものを残して

平凡な日常の繰り返しのなかに、ふっと、現実から浮遊した一瞬がある。
今存在しているすべてのものは、存在した瞬間からいなくなる運命にある
のだから・・・。


睡蓮が水面をおほふ夏の午後こんなに明るい失明がある

明るさと暗さは表裏一体である。水面の明るさに閉ざされて、水中は光を
失う。それを失明と表現することによって、いのちが生々しいものとして
迫ってくる。


最後に、わたしが大好きな、夕焼けの歌を二首あげる。
二首目は、歌集中の作品ではないが、この圧倒的な歌を読んで、私は
言葉をなくした。


アキアカネその二万個の複眼に映る二万の夕焼けがある

わたくしが踏切ならば遮断機を下ろしわすれるほどの夕焼け
 (トワ・フルール二十二号)