肉を焼く お前も肉だろうという声が肉からする 肉を焼く
この一首が、Twitterに流れてくるのを見たとき、たまらなく「石畑由紀子」という人の歌を読んでみたいという衝動が走った。
何だろう、人間だけがもつものなんてなんになるの、人間としての尊厳なんて糞食らえだ。動物にも植物にも人智を超えた生きるための知恵があり、愛もあり、悲しみもあり、この世界に、人間としての奢りをまき散らすのはやめろ、と一喝されたような気がした。そして、変にすがすがしい気持ちになった。
どれだけ、私たちが日々、持たなくてもいい多くの重たい枷をまとっているかを思った。すべてを脱ぎ捨てれば、一塊の肉でしかない私たちなのに・・。
北海道に生きる著者の作品世界が、樹木やけもののにおいをまといながら、雪の礫となって向かってくるような迫力を感じた。
くちびるに触れるはかないものたちをあまく殺めて これは雪虫
北の地方では、雪虫が飛び始めると、また厳しい冬の季節がやってくると知ることになるのだろうか。雪虫自体は、あわあわとしたはかない存在だけれど、北国に生きる人たちにとって、覚悟を強いられる象徴なのだ。
敗北に北のあること川べりに凍りたがりのみずを見ている
川べりの霜を踏みつつ辺地という言葉をわたしはさりさり憎む
この歌集は、全編をとおして、北の地に生まれ、そこに生きている日々の咆哮のように思える。「敗北」という言葉は、もともと、方角を指すものではなく、二人の人が背を向け合っている様から由来しているという。それでも、「敗北」という、ネガティブな言葉のなかに「北」をおかれたことがゆるせないのだ。水よ、そんなに許容して凍ってくれるな、という感じだろうか。
「辺地」という言葉もそうである。そこに住むひとりひとりに関係なく、ひとくくりにそう呼ばれることへの怒り。「さりさり憎む」が攻撃的でない怒りを想起する。
石畑と名乗りはじめた先人の両手のひらの血豆をおもう
不毛の地であった広大な土地を、気の遠くなるような手作業で、切り開いてきた先人達。「石畑」と名乗りはじめたことの、先祖達の決意と覚悟に、とおく思いを寄せるのだ。
このような思いは、樹と斧のせめぎあいとなって、著者の作品の中に、しばしば現れる。
斧の音芯まで残るししむらに流れるみずを樹液とおもう
いつかの樹の根元に振り下ろされたのはとおいむかしのお前の斧だ
みぞおちに斧うつくしく研ぎあげて正しく怒る気高さにおり
白樺、白樺、切り株、白樺、たましいも幻肢痛あり並木にふれる
樹も斧も、著者のなかでは、気高く、尊く、著者と一体化し、息づいているのだ。
マイナスをつけずに気温をいう母の、父の わたしの内に降る雪
浴びたならこごえるような水をなぜひとは飲めるのでしょうね、蛇口
止まらないみずも凍っていくことのマイルスのトランペット、寒いよ
北の地に生きる人ならではの三首。
一首目、マイナスをつけないというと、どれほどの数字なのかわからないけれど、隠されていることで、変に空恐ろしさを想起させてしまう。
二首目、ほんとうに、そう、人間の底にある強靱な生命力を思う。
三首目、流れてゆく水さえも凍ってゆく寒さ、マイルスのトランペットは聴いたことがないけれど、金管楽器が醸し出す鋭利なひかりや、マイルスという語感から、その凄絶な寒さを想像することになる。
食されぬ肉塊として車輛越し一度限りの邂逅われら
かなしみは速さ侵入者であれば鋼の足を敷きひた走れ
丸鶏を腹から開く生前の密事は何処へゆくのだろうか
冒頭にふれた一首のように、歌集中には、野性味あふれる作品も多い。荒々しくて、血の臭いのするような、それでいて、深く命の哀しみに寄り添うような表現である。
一首目と二首目、作中主体は、車輛の人である。野生の動物が不意に現れて、車輛は、それを轢いてしまった。たった一度出会った命と命を、こんなかたちで知ることになる。私達は、私達が生きるために、生きものを殺め、それをいただく時に、その命のことを思う。そうではなくて、「食されぬ肉塊として」出会うことも多いのだ。
腹に一物を持つとか、腹に据えかねるとか、腹を立てるとか、腹は、数え切れないほどの、人間の心象を、抱え込んでいるところらしい。調理された鶏の腹を割きながら、この腹におさめられていた、他者の知らない密か事は、どうなってしまったんだろうと思う。自らの死後を思うようなシュールな一首である。
やわらかく倒されながら思いだす雪虫の雄に口のないこと
沼尻にぬ、と差し入れるここちして抱く頭髪の暗いぬくもり
ふれるとき底いにみずの動くおときみは根開きのくるしさをいう 根開き→ねあきのルビ
著者の相聞歌も、どこか冷え冷えとして、北の大地の風土を思わせる。
一首目、下句の表現にはっとする。官能的な場面で、くちづけのできない雪虫のことを想っている冷めた感覚と、どんな場面であっても、北の地に生きる感覚であることがせつない。
二首目、「ぬ」が、ぬめぬめとした粘性の心象風景として読者に伝わってくる。相手の頭髪をかき抱きながら、それは、相手の深くて暗い部分へも、足を踏み入れることになってしまうと気付くのだ。
三首目、「根開き」とは、春先になると、樹木の根元だけ、雪が溶け始めることを言うそうだ。樹木は、地下水を吸い上げて生きているので、その水が、外の空気よりも温かくなると、このような現象が見られると言う。相手の鼓動に触れたとき、確かに生きている証を感じながらも、相手の生きているがための苦しさも、同時に受けとめなければならない作中主体なのである。
ほんとうに溺れているひとはしずか加湿器がこくりとみずを飲む
歌集中で、最も惹かれた一首かもしれない。溺れている人を、つぶさに見たことはないが、そうであると信じられる迫力がある。下句の、冷ややかな静けさが、音として読者に入ってきて、背筋につめたい恐怖を感じる。
けものなら終わるいのちを繋ぎとめひかり輝く廊下の向こう
著者は、つねに獣たちの息づかいを近くで感じながら生きていることを感じさせる一首。人間は、病を得ても、可能な限り、その再生のための手当を施すことができる。しかし、野生に生きる獣たちはどうであろうか。傷ついたら傷ついたまま、痛みをかかえたまま死んでゆくしかないのである。人間は、こんなにもピカピカの設備のなかに身をおけるというのに・・。
私は、冬生まれで、夏よりも冬の季節が好きだ。そして、今私が住んでいる土地でも、シカや猿やイノシシや、他の小動物も、日常に出没し、田畑に甚大な被害を及ぼしたりもしている。自然も豊かで、木々や草木も、季節のうつろいを伝えてくれる。山は緑豊かで、川はその流れをたおやかに横たえている。
しかし、この『エゾシカ/ジビエ』に出会って、私は、それらと、どれだけ共に生きてきただろうかということを思った。もう一度、あらためて身めぐりに向き合ってみたいと思った。
そして、私なりの向き合い方で、それらを短歌に残してみたいと思った。
最後に、評はできなかったけれど、印象に残った作品をいくつかあげておく。
水鳥の羽裏のしろさ平気よという顔をしてきみに手をふる
歯みがきや洗顔のように信じてる川にひたすら雨降っている
川と海みず混ざりあう場所にいてたましいの正座を待っている
恋愛は人をつかってするあそび 洗面台に渦みぎまわり
仄明るいひとすじが見えるひとりきりいってかえってくるための道
ゆっくりと染まる坂道 ゆっくりと燃える坂道 ふりかえらない
街のどこかの炉に立つ炎ひっそりとわたしであった肉が逝く
十秒後をなにも知らない 火を分けるように体温をすこし差し出す
家族して餃子を包むみちみちと誰も死なないような気がする
少年の心を持つという揶揄よ少女ばかり渡る夜の河
友たちへ手作りのハンカチを配るちいさな窓を配る手つきで