ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

永田愛歌集 『LICHT』を読む

どのように生きてもたぶんかなしくてときおりきみの指が触れるよ

歌集の装画は、子どもの手遊びで切り取られたようなあかるいレモンイエロー
の断片が散らばっている。しかし、この歌集を流れているのは、言いようのない
さびしいレモンイエローだ。
あたたかい人々の指に触れても、作者の奥深くには、溶けることのない根雪の
ようなものが存在し続けているのだろうか。

 

森からは遠く離れている町の 森へとつづく道を知りたい

森は、作者にとって何のメタファだろうか。作者の居場所は、森から遠く遠く
離れている。しかし、森には、何か心を高揚させる、あるいは癒やしてくれる
未知のものがあるかもしれない。その道を探し続けたい作者なのだ。


もうだれも祖母のかなしみ知らなくて祖母は自分で足の爪切る

祖母がいまわたしの背中を撫でている撫でている手をよろこぶ背中

祖母だけが撫でてくれるよ頼りなく暮らす大人のわたしのことを

老いて、自らのことも解らなくなってゆく祖母だけれども、作者にとっては
いつまでも祖母で、幼子のように接してくれる唯一の存在なのだ。


会いたさかさみしさなのか 月までの段をひたすらのぼりゆきたい

さびしいから会いたいのか、会いたさが強すぎてさびしいのか、わけのわからぬ
ままいっしんに月までをのぼってゆきたい衝動、その鼓動が聞こえる。

 

はつなつのみじかい午睡の外がわに雨降っていて雨の音する

ここはもう夢なのだろう清音のきみの名前をいくたびか呼ぶ

浅いまどろみの中で、夢の中なのか、現のことなのかあいまいな中で、はっきりと
現の雨の音を聞き分けている。一首目、「午睡の外がわ」がいい。
二首目、「ここはもう夢なのだろう」の浮遊感が、名前の清音によって増す。


重荷にはならないようにすこしだけ近い未来の約束をする

葉月にはひまわり咲かむわたしからわたしがいなくなったとしても

心から弱りゆくのか体から弱りゆくのかわたしがとおい

障害を抱えて精一杯生きている作者、心弱りを歌にすることで、またわずかでも
前向きになれるよう願うばかりだ。


ひとのことを浅く憎んでいたころの十代のわれに短歌はなくて

十代のわれに「短歌はなくて」という否定形によって、今、作者に短歌があるこ
とを際立たせている。短歌に出会ったことで、人間性をも変えてきたのだ。

 

たくづのの白ぼうたんに水を遣るだれの母にも妻にもならず

「たくづのの」は、白に掛かる枕詞、「だれの母にも妻にもならず」という
強い言い切りが、白のイメージによって、より潔く哀しい。


守りたいものは少なし五月雨に肩幅ほどの傘をひろげる

多くを望まない。雨にかろうじて濡れないだけの「肩幅ほどの」傘があれば・・
作者の慎ましく生きていこうとする思いが窺われる。


A3のコピー用紙を運ぶとき溶けない雪の重みをおもう

「溶けない雪の重み」から、冒頭に書いた、根雪をイメージする。。
「A3のコピー用紙」は、社会のなかで、作者の前に立ちはだかる壁なのかも
しれない。

 

三人も甥っ子を抱く一生の思いがけない菜の花畑

三人の甥っ子とのかかわりは、作者にとって、なんの衒いもなく素直に入って
ゆける穏やかであかるい陽だまりなのだろう。結句「菜の花畑」は、歌集の
表紙をも想起させる。

 

いつの日かきっとこの世を出るような静かさなのだふたりっきりの

特急うずしお十二号(2700系)の一連から。短編小説を読んでいるような
展開に、青春時代の初々しい高揚感が甦ってくる。
それでも、上掲のような一首に出会うと、一連はやはりせつなさに溢れていて
さびしい。

 

春の樹になりたいときは外に出て手足をしろいひかりに当てる

歌集を流れている水は、雪解けの水のように純粋で冷たい。それでも、
詠うことによって、少しでも前向きに生きたいと願う作者の息づかいが
感じられる。春の樹は、作者の希望の象徴のように思われる。