ゆるら短歌diary

ゆるらと、短歌のこと書いていきます  

紀水章生第三歌集『着地点のない日常』を読む

   著者は、川柳をつくり、ドローンを自在に操り、YouTubeでは、美しい映像に短歌の朗読を重ねた作品を、次々と精力的に発表している。歌集『着地点のない日常』は、そんな著者の第三歌集である。


文字盤の消えてしまった時計からじかんを盗む如月の雨

音のない時間のなかを泳ぎきり明日の空へ声を届ける

 著者の作風は、第一歌集『風のむすびめ』、第二歌集『風と雲の交差点』を通じて、一貫して変わらない。家族や、実生活や、自らの属性を明らかにする歌はつくらない。意識的につくらないというのではなく、その必然性がないと考えているように思う。

 文字盤の消えてしまった時計、音のない時間、現実の世界ではない、異次元をたゆたうような感覚。けれども、そこに居続けることはない。下句、現実の「時間」ではなく、主体だけの「じかん」を取りもどし歩き始めるのだ。
 二首目も、揺蕩いのじかんを泳ぎ切ったあと、下句で、今日、明日へと未来をつなげていく確かな意思を読みとることができる。

試験管立てても横に寝かしても中に嵌め絵のような冬の陽

陽が落ちて水平線が滝になる地球は崖と奈落の星だ

 「陽」の歌を、二首を引いた。
 一首目、 試験管という狭い空間のなかに、陽射しを閉じ込めて動かしてみる。硝子越しの陽がキラキラとして美しいが、試験管という領域を出られないものたちは、決まった場所に嵌められてゆくジグソーパズルのようだ。
 二首目、壮大なスケールの歌だ。「水平線が滝になる」という、表現はもしかしたら、そうだろうか?という疑問を持ちながらも、下句、「地球は崖と奈落の星だ」と言われてしまうと、有無を言わさず、もうそちらの迫力に引っ張られてしまって納得し、ただただ感動してしまった。

 「光」と「朱」の歌を三首。

光とも影とも重なる一本の樹として春が立っていました

ひらくとき光呼び込むひとすじの髪にも見える朱の栞ひも

体温はすこし高いめ朱の色のきれいな金魚に見つめられてて

 一首目、光と影は表裏一体、「一本の樹」は人の一生、「春」は主体のメタファであろうか。

 二首目、朱の栞ひもは、血のイメージにもつながり、ドクドクするような妖艶な印象がある。白いページを開いたときに、光があたり、栞ひもに視線が釘付けになった。それは、今も息づいているひとすじの髪のようだったのだ。

 三首目、朱の色の金魚と、水槽越しに目が合った。主体を昂ぶらせるような魅力をもつ朱という色である。

「朱」から連なる、相聞の歌を三首。

鮮血のあふれる明るい満月の夜に重ねる尾びれと尾びれ

鳥たちの声のひらいていく花のひとつひとつが会いたい花だ

きみの手が小さなつぼみの中にいる春の歌声ゆびで弾いた

 一首目、下句の「満月の夜に重ねる尾びれと尾びれ」が、ぬめぬめとした官能的な表現で、性愛の場面をもイメージしてしまう。上句は、躍動感があり、生きることへの喜びにあふれている。

 二首目、鳥たちが花の蜜をついばみながら、次から次へと木々を移ってゆく。鳥がおとずれることによって、花びらが開かれてゆくような印象がある。下句「ひとつひとつが会いたい花だ」が非常に魅力的。
 
 三首目、とてもかわいらしい、春を奏でる絵本の1ページを開いているような印象。


またひとつフェイズシフトの夜が明ける鏡の中のわたしと未来

セミスィートシンドローム明け方の月ゆるゆると雫を垂らす

 著者の作品には、カタカナ書きの言葉を柔軟に取り入れている作品も多い。
 一首目、「フェイズシフト」は単純に、エネルギー切れのような状態だろうか。「機動戦士ガンダム」には「フェイズシフト装甲」という装甲技術が出て来るようだが。夜が明けて、鏡の中に映る主体は、果たしてエネルギーを満たされているのだろうか。

 二首目、「セミスィート」というと、ミルクチョコレートほど、乳成分を含んでいないややビターなチョコレートを想像してしまう。「セミスィートシンドローム」という疾患が、実際にあるのかどうか門外漢だが、チョコレートが溶け出すような下句との呼応が印象に残った。


傘がない傘がないっていうひとと星降る夜の銀河を渡る

水というものの不思議さ形変え満たしつつあふれあふれつつ満たし

宇宙人みたいなひとは鹿となり暗き夜屋根に芽生える出窓

 天体、自然、シュールレアリスムの世界について

 一首目、「傘がない」は、日常生活の一場面である。それを繰り返し言うことは、日常ではあまり無い。繰り返されることで、非日常へと瞬間移動し、やがて銀河宇宙へと飛翔していくようなファンタジーの世界が描き出される。 

 二首目、上句で、結論を述べてしまったのは残念だが、下句の「満たしつつあふれあふれつつ満たし」のリフレインが、主体の感情を表しているようで好感を持った。
 
 三首目、「シュールレアリスム」の絵画をイメージさせる。バラバラの存在感でありながら、妙に引きつけられる存在感を持つ。

 著者の深層心理について

ときどきは眼鏡をはずす表情が見えないくらいがちょうどいいんだ

銀色の少し冷たい文鎮にこころを押さえる役割を課す

冷えている足のつまさき温めてすこし緩んだひとりもいいね

ときおりは腰を下ろして振りかえる決別してきたものたちのこと

 著者の属性は、あまり明らかにされないと、冒頭に書いたが、上掲のような作品に著者の「ほんとうのところ」がちらっと垣間見られるのがおもしろい。

 一首目、ものごとに深く執着しない生き方とでも言おうか。人とのかかわり方も、深く入ってゆくということを敢えてしないということが窺われる。

 二首目、文鎮の質感がつぶさに伝わってきて、なるほど、少し昂ぶった心も、シフトダウンできるかなと思ってしまう。

 三首目、身体のなかで、つま先という、どちらかというと感情から遠い距離にある部位、そこが冷えているということを自覚してしまった、ああ、冷えていたんだと。そこをゆっくり温めて、自分自身をとりもどしてゆくような感じ。絶賛、共感できます。

 四首目、長らく著者の作品に触れてきて、著者自身も、あまり過去を振り返ることをせず、作品にも、思い出を懐かしむような作品は皆無だと思っていたが、このような作品に出会ったことに驚いた。けれども、「決別」という言葉に、著者の強い意思とその生き方を垣間見ることができる。

白井陽子歌集『切り株』を読む

 読み終えて、しばらく泣いた。悲しさではなく、なつかしさとぬくもりと、切なさが入り交じったような涙だった。著者の半生を共に生きたような感慨があった。
 白井陽子さんは、2013年に塔短歌会に入会したと記されている。すぐに自ら案内を見て、和歌山歌会に参加された。いつも、まっすぐで、納得できないことがあると、すぐにはっきりと「解らない」と意思表示され、会を活気づけてくれる。
 もう十年以上、お付き合いしているわけで、会として様々なことを経て、様々なやりとりをし、時には、意見の食い違いもあり、それでもお互いの人間性を認め合って今日まで来た気がする。
 そんな白井さんが、ただまっすぐに、ひたむきに纏め上げた歌集である。そのひたむきさが、つぶさに押し寄せてきて胸がいっぱいになったのだ。

 歌集は、孫の成長を軸に、その母である娘、夫、弟が描かれる。そして、日常の様々な場面で、もうすでに亡くなっている母の思い出が鮮明に描き出されている。
 

 時を経るごとに、著者の生活に娘家族の距離が実質的に近づいてくる。
 
子の家の勝手口からわが家へと庭を横切る石を敷き詰む

子の家の屋根の上から日差し来てわが家の縁にほっこり日なた

 若い家族が近くに来てくれたことの喜びが伝わる上掲の二首だが、その後著者は、子育てをふたたびやり直すほどの生活へと入ってゆく。

子守唄を娘の児にと聞かせればそばで娘がとろりとなりぬ

夢に来て吾と遊ぶ児は目覚めれば娘か孫かよくわからない

草むらに娘は児を連れバッタ追うわれが娘を連れ追いし草むら

 孫が生まれ、その母を支えることによって、自らの子育ての場面が甦ってきて、タイムスリップしてしまったような世界観を、子守唄や草むらで表現し、夢のなかの自分と交錯してゆく。

抱きしめてと夕餉の後に娘が言いぬ己がバランス崩しいるらし

 意表を突く初句の言葉が、母となった娘の危うさを描き、見守るその母の思いをも推しはかることができる。

孫を抱きし昼間のちから夜に無く畳に手をつき立ち上がりたり

 全面的に、娘家族の生活を支えようと思ってはいても、気力だけでは続かないという本音が吐露される一首。

井戸掘りし周りに夫と塩を撒くさりげなく撒き子らには言わず 

 世代の違いもあって、「よそ様は羨むけれどなかなかに 娘夫婦の隣家に暮らす」ことの気遣いを、塩を撒くという昔ながらの慣習に収束させているのが巧みだ。

 全面的に、若い家族を支えていこうと思ったのは、次のような母への思いが、常に下敷きになっていることがわかる。

「やめたらあかん」母のひと言と手助けに仕事続けて今日のわれあり

わが家の上棟式の記録あり「母のおにぎり釜四杯分」

 半世紀前の、著者の自宅の上棟式に、母が用意してくれたおにぎり。「釜四杯分」で、他の言葉は一切要らない。

 母につながる思い出は、どれもあたたかくなつかしく、そして、今はもうその名称さえ知る人も少ないであろう事物へと収束してゆく。

すき焼きの七輪囲みし日のありき母に代わりて勘定溝講に

ふるさとの山下さんへ山年貢八百四十円を納めに行きぬ

火消壺へ燠を運びし十能で石灰まきて瓜を植えたり

稲掛けの足のみつまた庭に立てシャツ干す竿に風わたりゆく

 「七輪」「勘定講」「山年貢」「火消し壺」「燠」「みつまた」、これらを知らない世代も多いだろう。しかし、著者は敢えて詠う。なつかしさとぬくもりを感じる詠い方で。著者の生活のなかでは、これらは皆、今も生き生きと活かされ、「死語」ではないのだ。

アーカイブゾーンと名付けて押し入れに羽釜や斗枡、火鉢を仕舞う

 「アーカイブゾーン」が、絶妙だ。父母につながる昔からの暮らしを大切にしたいという思いで命名したすばらしいお宝スペースである。

本脇(もとわき)に今も三軒の「じゃこや」あり釜揚げしらすの潮の香のする

柿ふたつちいさな袋でもらいたり赤き柿の葉一枚添えて

 著者の住んでいる土地柄が、映像として伝わってくる二首。ほんとうに泣きたくなるほど懐かしいのは何故だろう。

 次に、この歌集の軸となり流れとなっている、孫の歌である。孫歌は、どうしても甘くなると避けられがちだが、著者はひるまない。まっすぐに素直に詠い切る。
 この歌集のなかで、孫歌は、対象を、ただ可愛いだけの存在として描くのはなく、一人の人格をもった人間として描いている。よけいな感情をはさまず、ただ繊細な観察眼で、目の前の幼が、だんだんと人格を形成してゆく様を丁寧に表現してゆく。
 日常の繊細な観察眼を発揮できるのは、やはり、若い夫婦と同じくらい、いいえもしかしたらそれ以上、濃密な時間を孫と過ごしているからに他ならない。
 
園のごと「そろいましたか」児が言いて夕餉始まる もうすぐ三歳

神様は狼やてと三歳は「国懸大神」(くにかかすおおかみ)を祝詞に聞いて

包帯にクマのシールを貼りくれぬ「どんなにしたん?」とそっと撫でつつ

お迎えの玄関先の傘のなか「雨のにおいがする」と幼は

ムスカリは好きな青色と三歳はアンパンマン鋏でみな摘み取りぬ

 私は、とくに、「おうちりょかん」の一連が大好きだ。家族皆が、生き生きとして、孫の視線に立って、孫の世界を真剣に楽しんでいる。何という幸せな時間だろう。

子の家に〈おうちりょかん〉の紙張らる引き戸開ければ〈受付〉のあり

じいじとばあばも一泊す番号を書いた厚紙の鍵を受け取り


児が振り向けば児の手のホースも振り向いてわれや窓までぐっしょり濡らす

そりすべりの服を着こんで座り込み児は井戸掘るをじいーっと見つむ

「よかったら」が「一緒にやろう」の上に付く積み木に誘う五歳二か月


食器棚の奥に小さき箱のあり〈ランドセルつみたて〉と上にわが文字
 
 前に、「アーカイブゾーン」を引いたが、こちらは〈ランドセルつみたて〉、「おうちりょかん」もあり、著者は、日々の生活を豊かにするこつを心得ているのだ。

 
 弟に関わる歌は、少ない。けれど、それぞれ家庭を持ち、老年にさしかかるまで、姉弟のつながりがあるというのも貴重なことだ。

「教育」をわれに説きたる弟の二十歳の手紙はインクが青い

ことさらに用事なけれどおとうとの声聞きたくて電話してみる

断水にポリ缶と水を京都から運びくれたり おとうとありて


 孫の成長を、真ん中に据えながら、家族の穏やかな生活は続くように見えたが、あまりにも突然、夫の死がおとずれる。どんな夫であり、どんな夫婦であったのか次のような作品が如実に語る。 

警笛をぷっと落として帰りゆく駅までわれを送りて夫は

ドアを開けおい元気かと夫の言うゆぶねに沈みものを思えば

われの手を気遣い夫はついて来て野良で初めて草ひきをせり

「終わったかぁ」音を立てずに隣室で二時間過ごしし夫の入り来ぬ

葬儀屋は「えっ初めてです」と驚きぬ夫にピンクの棺を選ぶ

核兵器のない世界めざして」のポスターと署名用紙を葬儀場に置く

お互いを名前で呼び合うことの無く「ねえ」の後は「とうちゃん」そして「じいちゃん」

 
 歌集中、娘、孫、夫のことは、丁寧に描かれるが、自身の心の奥深くを見つめる歌はないのだろうかと探してみた。

われに降る雨粒を傘で受け止めて少し傾け真横へ流す

負けへんと何度叫べど出来ぬことやっぱりありぬもうすぐ冬だ

あなたには無理でしょうねという人の声に羽つけ空へと飛ばす

 著者の、自分自身の生き方を曲げることをしない芯の強さを感じる作品を引いた。一首目、三首目のように、他人の意見は一応聞いておく。しかし、受け入れられないものは、上手に横に流したり、空へ飛ばしてしまう。著者が年齢を経て身につけてきた処世術だろう。


『おおきな木』の切り株のようになりたいと思う日々なり ひょごひょご動く

子や孫がほっこり座れる切り株にわたしは未だなれぬままいる

あとしばしひょごひょご動き子や孫がほっこり座れる切り株目指さん

 子や孫がほっこり座れる切り株になりたいという思いは、歌集をずっと貫いている。未だなれぬと言っているが、じゅうぶんその役目を果たしていると思う。

 これから、著者の娘や孫が、その時代、時代に、どんな思いでこの歌集を開くのだろうかと思うと胸がいっぱになる。願わくば、著者が切り株のまま終わらず、いまいちど、ひこばえを芽吹かせてほしいと切に思うのだ。

大引幾子歌集『クジラを連れて』を読む

 著者は、大学四年(1980年)に塔短歌会に入会したと、あとがきにある。歌集『クジラを連れて』は、長く短歌を詠み続けた著者の二十代から四十代半ばの作品を収めているという。

〈ふれあふ〉と書くときスカートたつぷりと裾ひるがえるような〈ふ〉の文字

〈ゆふがほ〉とう仮名文字ほぐれゆく宵を何に憑かれて梳(けず)るわが髪

ふんわりと雪のごとくに降りて来るこの薄闇を払わずにいる

 歌集の前半は、上掲のような、柔らかく、それでいて心の内に迸る若々しい感性が自在に表現されている作品が、息を継ぐ間もないほど並べられている。このような作品群を目の当たりにすると、長い歌づくりの時代を経て、どれほど多くの歌が生まれたのだろうと想像した。そして、この歌集には掲載されなかった歌の、計り知れないほどの数を思った。


もし我におみなごあらば火のごとき麦秋のなかを歩み来たれよ

 主体は、女の子を産んではいないのだ。もし、自らと同じ性の子どもを産んでいたならば、自らの血を受け継ぎ、この晩夏光のなか、どれほどの一生を歩み始めるのだろうかという思い、そんな読みをした。

便箋の静脈透けて舞い落ちる間も底知れぬ夜への投函

 「便箋の静脈」とは、便箋の罫線ともとれるし、主体の血流そのもの、しかも動脈よりも外界により近い場所で息づいている存在。秋の夜、自らの思いを込めた手紙を書いている。木々が次々と落葉していくかのように、その思いを一心にしたためている。結句は、落葉のイメージとポストに投函する様が重なっているが、「夜への投函」なので、思いだけが闇へ吸い込まれてゆくようなさびしさがある。

「冬薔薇」の一連、七首。

 切迫した時間の詞書から、わずか七首の連作でありながら、短編小説を読み終えたような緊迫感と広がりを感じる。逢うことを禁じられているのか、あるいは予断を許さないような父の病状なのだろうか。それでも、わずかなひとときの逢瀬を望み、仙台までを往復するひと日。

 18時 そろそろ駅へ向かわないと

ことばさえ吹きちぎられて君と佇つ冬薔薇ひらき初むと告げても

 
  出産に纏わる作品が、実に生き生きとして瑞々しい。

髪染まるほどのみどりを浴びて泣けわが産み終えしばかりのいのち

ポプラ葉を風梳きてゆく黎明に目醒むれば夢のごとく吾子いて

はつ夏のひかりの底に子を抱けば吾子は雫のごとき果実よ

まはだかにしてかき抱くひとり子のパセリ畑に植えたい匂い

 初めての子を得たときの、畏れにも似た感動が、瑞々しい植物や果物に言葉寄せされていて、胸に迫ってくる。
 特に、四首目、真裸のわが子を、「パセリ畑に植えたい匂い」という、意表を突いた表現が印象的だ。乳のにおいの野性的な感覚、大地から命を与えられたような感動、ないまぜの喜びが溢れ出している感じだ。

びょうびょうとわれの在り処も見失う風中おまえが鳴らす草笛

木蓮しろきまぶたを閉じる頃吾子も眠りへゆらりとかしぐ

みどりごはつかのまの風さやさやと吾を発ちてゆく風の後姿(うしろで)

母である過剰に疲れいし日々の蹠(あうら)ひりひり踏みゆける砂

   子育ては忙しい日々のなかで、潤いをもたらしてくれるが、仕事と両立していくためには、時間との闘いという側面もある。
 一首目、子どもを野に遊ばせながら、子も自分も、そのつながりも果てしなく遠いもののように感じられる。
 四首目、母として、母ならば、母らしく、母であることを完璧にこなそうという使命感にも似た気持ち、それらに疲れて立ち止まるとき、足裏から、ひりひりとしたものが伝わってくるのだ。
銀杏樹(いちょうじゅ)はしんと炎えたつ感情という過剰なるものを脱ぎ捨て

 もうひとつ、「過剰」という表現を用いた作品がある。著者は、突き進んでしまって、自分を見失ったときに、自らを俯瞰するように、短歌をつくってきたのではないかと思う。


 後半は、学校現場の過酷な状況を詠んだ作品が多く、抑制された表現で、実景を臨場感いっぱいに伝えている。

授業半ばにやりと教室に現れるギブスの両腕ぶらんと下げて

いっしんにノート取りいし切れ長の目はもう青い風を見ている

放課後に座れば硬き椅子である一日(ひとひ)と三年どちらが長い

少女とは楽器であるか片脚を立てて銀色のペディキュアを塗る

 どれも、教師としての日常を詠んでいるのだが、切り取り方が実に巧みである。「ギブスの両腕」「切れ長の目」「硬き椅子」「片脚を立てて」、それらに収束してゆく著者の視点が、おしつけがましくない愛にあふれている。

(死にたい)と(死ぬ)のはるかな隔たりをふいと跨いでしまいぬ君は

退学者欄にひっそり加えらる事故死も自死もただ一行に

 教師として何よりも辛い、生徒の死、感情を抑えて表現された作品は、何処にぶつけていいのかわからない悲しみと怒りが、主体のなかで渦巻いているが、それでも、敢えてひっそりと詠う。

激高ははるか火傷のごとくにも我を苛み深夜に及ぶ

潰されずに生きねばならぬ固く長き廊下に散れる桜はなびら

教師という役を演じよいま罵倒されているのは〈わたし〉ではない

やめさせることが担任の手腕だと聞かされている生活指導会議

 主体の人間性そのものを問われているのではないのだと、常に言い聞かせながらも、激高や罵倒の場にいなければならない。生徒からすれば、権力側である主体は、本当の思いとは別な対応もしなければならない。シビアな現実が、これでもかというほど迫ってくる臨場感あふれる作品群である。
 
ガラス戸の割れ目から入れる封筒の学校の名が不意に目を打つ

誠実と書けばチョークは折れて飛びさざめく教室に無縁のわれか

せめてせめて教室だけは荒らすまい放課後に床のガム剥がしつつ

夕飯を待たせておればトランプを床に散らして子は眠りおり

指導経過報告書書きつつ辿る日々 一度だけごめんと言ってくれた

秋空は水を湛えるごとく澄み刑務所隣の少年鑑別所

父母からのネグレクト姉の引きこもりユキよあなたはじゅうぶんつよい

 自らの子どもにもじゅうぶん関わってやれないほど疲弊する日々。生徒指導という、言わば、生徒ひとりひとりの生活環境や、生育歴にまで踏み込んでゆく職務。自らの力でできることはわずかだと知りながら、それでも教師として前を向く日々。一度だけ言ってくれた「ごめん」という言葉や、生きていくことの過酷さを十代で知ってしまった少女に、その力をもらいながら。
 
 教師としての厳しい日々は、詠み続けた著者も苦しかったであろう。読者として、その一端に触れることさえ辛いものがある。しかし、次のような作品に、私達は救われる。苦しいだけではない時代を生きたことを、歌が教えてくれる。未来があること、その先に光が見えることを教えてくれる。

金髪をいつかあなたは卒業するその日を一緒に待ってはだめか

もう九月 クジラを連れて散歩する陽気な君に会えるだろうか

光野律子歌集『ミントコンディション』を読む

 鳥の羽をモチーフにした美しい装幀である。「かりん」所属の光野律子の第一歌集、『ミントコンディション』とは、「新品同様」という意味らしい。古物取引の場で使われる用語ということで、画廊のバックヤードに三十五年近く勤めたという著者ならではのタイトルである。
 ペパーミント色の付箋をつけながら読み進めた。

 まず、私の地元和歌山にまつわる作品が、ところどころにおかれていることに注目した。父母の出身地が和歌山であり、短い期間ではあるが和歌山の地に過ごしたことを後に知った。

亜米利加まで一万哩(マイル)の木の札の向こうに円き水平線見ゆ

 和歌山県日高郡美浜町には、明治時代に多くの若者が太平洋を渡り、カナダと行き来をしていた「アメリカ村」という地区がある。美しい海が近くにあり、まさに遠い異国へ夢を馳せる場所であったと思われる。
 以下、今も故郷として、和歌山の風景を懐かしく心にとどめていることがわかる作品をあげておく。
  
ふるさとの牟婁の浜辺に真珠採りの翁らの居て煙草のけむり

神様が最初に生んだおのころ島の春霞に浮く紀淡海峡

亡き父の故郷あたり機上よりクライン・ブルーの海底見ゆる

  1977年和歌山県有田市で集団コレラが発生。

水無月の追憶の村にコレラ事件ありたり蜜柑の花の香充ちて

ふるさとの母より届く和歌浦の冬波の音よ初電話にて

 『ミントコンディション』は、非常にカタカナ表記の作品が多い歌集である。画廊のバックヤードとして、海外の絵画に触れるという日常を過ごしてきたことが影響しているのか。あるいは、クリスチャンとしての生活様式からくるものなのか。 
 カタカナ表記が散りばめられた世界は、遠く異国とつながっていて、日常生活の何でもない所作を幻想的な世界へと誘う。 

メシアンのピアノ聴こえて小鳥くる春嵐止む朝のベランダ

防風林幾つも超えてライマンの唯唯白き油彩を観に行く

メシアン」は作曲家、「ライマン」は、ジャズミュージシャンから転向した画家。正方形の画面に白い色を塗った抽象画を描くという。それぞれの人物の知識がなくても、それらが醸し出す情緒は、著者の立ち位置が日本であることを忘れそうだ。

お御堂の聖水盤は塞がれつそれでも口に入れるホスチア

 祈りの道具である聖水盤が塞がれている。コロナ禍の影響だろうか。それでも、聖別用に用いられるという円形のパンは口にする。「いけにえの供え物」という意味があるらしい。「ホスチア」という音がいい。 

マラルメの半獣神(バン)を語れる老いびとの長電話受く留守居の画廊

 「マラルメ」はフランスの詩人。難解な講釈を延々と続ける老人に、やや困惑している様子が描かれる。「マラルメの半獣神(バン)」がやはり、現実を浮遊している空気感を持つ。 

行き掛けに食みたるクレープ・シュゼットのリキュール回る面談のさなか

亡き人を偲びて飲めるカルヴァドス万聖節の夜は更けゆくも 

「あと少し生きればいいからいいじゃないですか」非正規雇用女子モヒート飲み干す

ほろ苦きチョウセンアザミのリキュールが胃の腑にしみるさよならのあと

 お酒や、お菓子の名前がカタカナ表記で、効果的に配され、洗練された雰囲気が伝わってくる作品群だ。 

くちびるの端がもうずっと切れている クレタに行くべしカンカン帽で

 初句の入り方にどきっとさせられる。何故クレタ島なのか。しかもカンカン帽で。初句の、やや自虐的な様相から、鬱的な心象を読み取る。それでも、カンカン帽をかぶって地中海のあかるい陽光がふりそそぐクレタ島へ行くべきだと宣言している著者に、あっけらかんとした希望を感じるのだ。

ピアノ科を諦めた日のヘンレ版はひときわくすんだブルーブラック

 「ヘンレ版」は音楽、特にピアノを志す者にとっては、必須アイテムのようだ。そして、その進路を自らの意思で断つと決めた日。「ヘンレ版」は心象風景を染めているようなブルーブラックだったのだ。
 
競売のカタログに見る謎の言葉「ミントな状態」のキャンベルスープ

 これは、アンディ・ウォーホルの「キャンベルスープの缶」の絵画のことだろう。ここで、歌集名「ミントコンディション」への伏線が張られていることになる。

 こうして見ていくと、ほんとうにカタカナ表記の言葉が入っていない作品は探すのが難しいほどである。門外漢である分野も多く、読み解くのに苦労するところもあったが、それでも読解以前に、音的なものに惹かれたり、醸し出す世界観に惹かれたりして、引き込まれる作品が数多くあった。
 逆に、歌集後半は、心なしか、カタカナ表記が少ないような印象だ。

革命とう名のスナックの扉開き小鉢並べる痩せ男見ゆ

 「革命」という、衝撃的な店名とは裏腹に、痩せた男が小鉢を並べている。その対照的な様子を、扉が開かれた束の間のぞき見ている。ハマスホイの絵画に見るような構図と色調を思い浮かべる。

手のひらにおさまるほどの米研げばしゃらしゃら軽き音の夕暮れ
 
 日々の暮らしの様子が、しゃらしゃらという乾いた音とともにさびしく伝わってくる。

喝!という導師の怒号に送られて父は彼の世に旅立ちたまう

 クリスチャンである著者が、仏教の習わしによって父を送る場面。宗教の違いを静観するのみの主体。不謹慎だが、どこかおかしみもある。

神無月打たれてたことに気づきたり打たれ強いと友に言われて

 自らのなかでは、試練に打ちのめされたという意識はなかったのに、親しい友だちが「打たれ強い」と評した。それによって、私は打たれていたのかと思う。物事にポジティブに立ち向かう作者の一面を垣間見ることができる。「神無月」と「打たれる」も響き合って宗教的な趣もある。
 
ことり図鑑小川流るるこの町に越して最初に購いしもの

こんなにも地面に近く咲いている拝領行列のよう洎夫藍

 終の棲家かと思われる土地へ移り住んだときの作品。いちばん最初に買ったものが「ことり図鑑」というのが、その住居の周辺の風景や、著者のこれからの生き方を想像させる。  
 洎夫藍(サフラン)が地を這うように並んで咲いている。ミサのために入堂するときの行列のようであるという捉え方が、著者ならではで印象的だ。 

月のさす螺旋階段世紀末パリ彷徨いて神田川べり

三四郎が道に迷いし柏木の停車場辺りと夫は言いけり

どの駅も坂の上なり摺鉢の底に暮らしてなかなか愉快

 一首目も、二首目も、神田川べりに移り住んだ折の作品。著者は、来し方を思い感慨深く思っているのに対し、夫は、夏目漱石の小説『三四郎』の主人公が、道に迷ったあたりと言っていて、その対比が実におもしろい。
 三首目、結句が、移り住んだ土地に愛着を持ち、そこでの暮らしを心底楽しんでいこうという思いが伝わってきてあかるい。

 『ミントコンディション』、画廊のバックヤードに生業をおいていた著者ということに、非常に興味を持った。絵画のもつ魅力と、著者の生き様が響き合って、今まで出逢ったことのない世界観を味わうことができた一冊だった。その生業を断たれ、「ミントな状態」で、再び立ち上がろうとする著者の姿に共感したり、励まされたりしながら、共に半生を生きたような思いに頁を閉じた。

 

中井スピカ歌集『ネクタリン』を読む

 一冊を通して、作品に勢いを感じた。それは、他者を威圧するような勢いというのではなく、ポップコーンがはじけるようなカラッとした軽やかな勢いのなのだ。まっすぐに、素直に、それは読者の心に響いてくる。

 まず、序章として、そして後半の折々に詠われているのは、職場詠である。

グリーンとだけ呼ばれてる受付のグリーン三つに水を与える

 自らも、組織のなかでは、このように総称や、役職として認識されているのだろうという思い、自らを「グリーン」に投影している。「水を与える」という動作によって思いが伝わる。

もうあいつ辞めさせろという声響く向かいで書類の端を合わせる

 他者(おそらく同僚)の失態に対して、本人がいないところで、その処遇について、軽口として話題となる。よくある場面かもしれない。しかし、その「辞めさせる」という言葉のもつ深い意味を思い巡らしながら、間近に聞いていることしかできない。この一首も結句の寡黙な動作の表現が効いている。

人件費浮いた分だけ部長たち優しくなりて小糠雨降る

代わりなら幾らでもいて赤々と脚入れかえてゆくフラミンゴ

先輩もOutlookも設定をやり直されて対策が済む

 一首目、いわゆる首切りを何人かしたことによって、経営が楽になるということだろうか。そのポストに就いていた仕事は誰がするのだろうか。短絡的な発想を諦念をもって見ている。

 二首目、三首目、組織の一員として駒のように動かされてゆく日常、「フラミンゴの脚」や、PCのシステムの設定の具体がよい。

「前にも言いましたけど」の口癖が浅瀬で方位を失くしたままだ

 「前にも言いましたけど」という口癖で、部下を指導?!しているのを、日常として聞いている。この言葉は、仕事上、功を奏しているとは思えない。深く、部下の心に届くこともなく、発した言葉が浅いところで行き場をなくしている感じ、言葉を発している人を揶揄しながらも、どこか哀れみのまなざしも感じる。 

キーワード打ち込む両手ベンチから守備位置へ散る球児みたいに

残業のデスクに明かりを足すようなグレープフルーツジュースの湖面 

 職場での、ゆきどころのない怒りや疑問、哀しみも、作者は声高に詠もうはしない。感情も強く出さない。淡々と、さらっとそこにおいてみせるだけ、それだからこそ、読者は、そこから深い背景をたどることになるのである。
 もうひとつは、冒頭に書いたように、根っからのからっとしたポップコーン的な明るさがあるのかもしれない。
 それは、上掲の二首のような作品から窺うことができる。

 ただ、前向き、行動的でありながらも、長いスパンのなかで、少しづつ少しづつ、澱のように溜まってくる疲労感もある。それが次のような作品だ。

石膏のピエタみたいに湯に浸かる婚活っていう略語の致死量

 「石膏のピエタ」が絶妙で、心も体も疲れ切った主体を最大限に表現している。 

角形2号ポストの底へ突っ込んでこのまま終われないことばかり

 「角形2号」だから、簡単な書類ではないし、折りたたむことができないものなのかもしれない。能動的な行為のなかにも、将来への不安感を感じる。

月食が起きる頻度でよいのです よくやったなって言って撫でてよ

 頑張っている、自分は頑張っている、誰かのために頑張っているのではないけれど、その頑張りを、一言でいいから褒めてほしいと思うことがある。「月食が起きる頻度」って、欲がなさ過ぎると思うけれど、それほど、だからこそ、「よくやったな」が尊い言葉のように思えてくるのだ。 

 
 父母に関わる作品にも眼が離せない。 

吾の中の湖が今日は深いのだ実家の親はますます老いる

 老いてゆく親をつぶさに見るのはつらい。離れて暮らしていて、ひさしぶりに会ったときなど、その老いの加速度的な速さに唖然としてしまうのだ。

胃に肺に土足で踏み込む母がいてそこにマティスの絵などを飾る
  
 親というのは、他人のように、距離をおきながらとか、言葉を選んでとかをしない。直球で思いを伝えてくる。頭のなかでは、こういうものだと理解しながらも、感情は許さない。「マティスの絵」は、赤が印象的である。血縁といものに、衝立を立てるように置くのだろうか。
 
別々の準急に乗っているようにパラレルのまま母さん、またね

 会って直接話をしても、わかり合えないという思い。さびしいというよりも、そういうものなのだという明確な認識を、パラレルワールドとして捉えた。でも、「またね」なのだ。

安置室へ向かう車が真夜中のアンダーパスを潜ったままだ

「肺が溶けたせいです」母は淡々と呪いのごとき喪主挨拶を

 父の死に関わる二首。
 アンダーパスを潜ったまま、這い上がれない車。父の亡骸を、安置室へ運ぶまでの闇のような時間。「アンダーパス」が絶妙だ。
 
 二首目、喪主挨拶で、「肺が溶けたせいです」と言わしめた、父と母との推しはかることのできない長い時間。どんな確執があり、どんなやりとりをして過ごしてきたのだろうか。「淡々と呪いのごとき」と表現しているのだから、主体は、当然その一端を把握しているのだけれど、父に対しても母に対しても、主体とは別の人格として静観している毅然とした主体の生き方を感じさせる。

霧雨が胸を犯して降る午後にいなければいい人を数える

不浄と引けば月経と出る大辞林 葉陰に深く腕を浸した

がむしゃらに自分が嫌い五十枚一気につらぬく穴あけパンチ

 冒頭に、明るいポップコーンがはじけるような勢いと書いたが、上掲の呪いのような作品も見逃せない。 
 一首目、「いなければいい人」を数えるという。自ら手を下して排除しようとするとかではなく、身めぐりの相関関係を冷静に見直してみるという感じだろうか。それにしても、上句が不穏だ。
 二首目、上句が、ドキッとさせられる。それは、過去の慣習からきているものだとしてもだ。
 三首目、勢いと迫力がある。他者には、冷静であったはずなのに、自分自身に向けられるものは、感情も激しい。
 
 さて、最後に、どうしても、パートナーについての作品をはずすことはできない。「石膏のピエタみたいに湯に浸かる婚活っていう略語の致死量」という歌があり、結婚というかたちについても、何か自分の中で様々な葛藤のあったことが窺われる。
 そのようななかで、パートナーに心を添わせてゆく過程が、作品として表現される。

体温を忘れあってはそれぞれに流れる川の右岸で暮らす

捨ててゆく机を一度撫でてから左岸の部屋へ移り住む朝

川はもうよそよそしい顔 越してゆく私に橋を渡らせながら

 パートナーとは、川の右岸と左岸で暮らしていることがわかる。それぞれの、これまでの生活、生き方を認め合いながら、川を越えて共に
生きていこうとする様子が、まるで、但馬皇女が、「いまだ渡らぬ朝川渡る」と詠んだような決意を思わせて趣深い。

一体になってしまうこと恐ろしいフクロウ闇に眼をみひらけり

植物のような交わり責めもせず新しい日を生きだす君は

バイバイっていつか言う日が来るまでの君であり空であって窓辺だ
  
 何も迷わず、ただ好きということだけで突っ走れる年齢を過ぎてしまったということだろうか、性愛についても、どこか臆病である。フクロウは、そんな主体の奥深くまで見透かすように眼を見開いている。
 二首目、「動物的」の対義語となっている「植物」、草食動物をイメージして、本能的な荒々しさのない感じとして読んだ。穏やかな信頼感のなかで、新しい生活が始まったことを示唆している。
 歌壇賞の「空であって窓辺」からの一首。既成観念や、他者の偏見にとらわれず、自らの思いによって、パートナーとの日々を編んでいこうという決意、パートナーの存在感、が端的に表現されていて心地よく読者に届く。

 「空であって窓辺」は、歌集『ネクタリン』をぎゅっと凝縮したような一連だ。そこから、印象に残った作品をあげておく。

空であって窓辺

キッチンにスタッカートが溢れ出し朝の器へ落ちるシリアル

球場に差しかかるとき右翼手が両手を上げる瞬間だった

もう君がいないと不安 川べりに本読みにゆく背を見送って

母はもうお金を認識できなくてエッジの効いた自由を暮らす

「仲良くはないです」と言い 違うと気づく 雨は西から追いついてくる

嫌いって言い切れたなら渡りゆくアサギマダラの光の浪費

お互いのために、いえ、私のために車窓は母を置き去りにする

バイバイっていつか言う日が来るまでの君であり空であって窓辺だ


 歌集『ネクタリン』、作者の来し方と現在までを、その場に居合わせたような感覚で、感情の一端を共有しながら読み進めてきた。私にとっては、何の拒絶反応もなく、すっと入っていけて、その表現方法に感動する場面がたくさんある歌集だった。

毎日を二人で暮らす靴下を片方取り違えたりしながら

 先のことではない、今、この日常、それが一番だいじだと思います。

 

丸山順司歌集『鬼との宴』を読む

 節分も近いので、鬼の歌集を・・
 丸山順司第二歌集『鬼との宴』である。
 第一歌集『チィと鳴きたり』を読んだときには、読者が身構えずに入ってゆける穏やかさと懐の深さを備えた歌集だと思い、その心地よい魅力にとことん浸りながら歌集を味わったように思う。
 今回、『鬼との宴』を読み進めるなかで、飄々とした表現、一見平易な語り口は変わらないが、その水面下にある、とてつもなく緻密で繊細な部分に触れた気がした。それは、第一歌集のときも同じだったはずで、たぶん私が未熟であったために読み切れなかった部分だったのだと、今あらためて思うのである。

のほほんののの字よろしくふるまひて座を抜け来たり寒き雨ふる

一匹の蠅が飛びをり食堂に蠅を相手に昼メシを食ふ

はつきりと了解したのぢやない感じ「はい」の代はりに「ほい」と返事す

夏雲の光りて眩し午睡(ひるね)より覚めて伸びするでえだらぼつち

ちよつとへこんで、ごめんなさいよと春の末の二十日の月が昇りて来たり

だいこんがもういい、もういい、くたくただなどとつぶやく煮汁の中で

小春日の陽射しに昼をまどろめば和泉式部が「なうなう」と呼ぶ

老夫婦の金魚なるべし「夏だねえ」「お昼寝します?」と話してゐたり

 力の抜け方が心地よく、読む者の心まで弛ませてくれる歌をあげた。
 一首目、主体のふるまい方によって、その場の空気を乱さずにおこうという思いが伝わる。道化のように表現しながら、結句に本音が込められている。
 二首目、怒りを顕わにする人もいるかもしれない場面。「蠅を相手に」の表現が、大らかな諦念を感じさせる。
 四首目から六首目、どれも、ひらがな表記の部分が、とてもいい味を出していて、それこそよく煮込んだ煮汁からしみ出してくるような旨みがある。 
 七首目、謡曲で、人への呼びかけに発する語「もしもし」という意味合いの「なうなう」と、SNSなどで流行した「晩飯なう」などのように、今(now)~してるという使われ方をオーバーラップしたおかしみのある一首。
 八首目、金魚に語らせているところが絶妙である。人間ではおもしろくない。

 著者の短歌のいちばんの強みは、「気づき」だと思う。著者が、あとがきでも書いているとおり、「普段の暮らしの中で浮かんできた言葉を書き留めています。」ということなのだが、その視点が、抜群におもしろい。同じ場面を目にしても、こんなふうに捉えることができるのかと唖然としてしまう。

アスファルトの道に穴あり裂け目あり吸はるるやうに雨流れゆく

人の背にわが影のありその人は気づくべくもなく信号を待つ

 日常、街角であたりまえのように見ている光景。あんなに頑強であるかのように見えるアスファルトにも、負の部分はあり、雨というものは、そんなわずかな裂け目にさえ染みこんでゆくという発見。
 二首目、影はその人の影であるはずなのに、自らを離れたところにその存在を見つけたことの驚き、まるでその人のたましいが、身体から抜け出して、他者に乗り移ってしまったかのような景である。

「身籠もる」と「身罷りぬ」との字面似て人の生き死にとうとうたらり

 「身籠もる」は、新しい命の誕生、「身罷る」は命の消失、真逆の人間の在りようがよく似た漢字で表現されていることの驚き。「とうとうたらり」は能楽で、翁が冒頭に唱えることばということだが、「身籠もる」と「身罷りぬ」の字面によく合っていると思う。

コーヒーから珈琲色の湯気が立つ(それはないやろ)ポスター眺む
 
 湯気が珈琲色であるわけないでしょうという気づき、括弧書きのつぶやきが効いている。こういうことは、日常いくらでもあって、そのことに疑問を持たない日々を生きてるんだなと気づかせてくれる。
 
〈毒液〉と書かれたボトルが店頭に置かれてありぬ〈消〉見えざりき

 風刺が効いていて、抜群によい。ほんとうは、〈毒液〉であって、私達は、その上に〈消〉を付け足したものを使わされているのではと、逆なことさえ浮かんでくる。

靴跡のマーク無くともつひに人は一メートルの間を取り並ぶ
  
 こちらも、コロナ禍以降、日常として当たり前のように、その光景に慣らされていたと思った。人とは、このように慣らされ、統制されていくものなのだと怖い感じもする。

シャンプーのポンプを幾度押すもさて液はパイプをもう昇り来ず

 何気ない、日常の生活のヒトコマ。「押すもさて」という言い回しと結句が、著者ならではの詩情を立ちあげた。 

著者は、広く絵画に興味を持っているようで、絵画に関わる作品が頻出する。

まひる熱田の森の参道にニワトリ鳴けりその木下闇

語らへば声に寄り来る鯉のむれ池の上なるあづまや涼し

 「夏雲の下」の章に、上の二首があり、絵画的な色彩と構図をイメージしたが、のちに、「跳ねあがる鶏の尾羽をひと筆に描ける若冲の気と息づかひ」の一首があり、その影響を受けているのだと思った。

 シャガールフェルメール、リヒターなどの絵も、著者の日常に分け入り、その感性を刺激しているようだ。

君のなかにうづくまる我シャガールの「私と村」のやうな夢見つ

かたぶける壺の口よりひとすぢのミルク垂るるを見守りゐたり

収容所(ビルケナウ)の写真を絵とし描きたる画を塗り込めしリヒターの念(おも)い

 次の二首は、大津絵に描かれた、七福神の福禄寿の様子。滑稽で愛嬌のある福禄寿が歌集中では、間をおいて二回登場する。著者の求める「抜け感」がここにもあるように思う。

福禄寿の頭に梯子をたて掛けて毛を剃りゐたり つやめく頭

福禄寿の頭にはしご立て掛けてのぼり詰めたりちとひと休み

 冒頭で、「その水面下にある、とてつもなく緻密で繊細な部分」ということを書いたが、そのように感じた作品をいくつかあげたいと思う。

水瓶(すいびやう)に蓮いちりんの幻影を見せて佇む観音菩薩

 観音菩薩は、像としては確かに立ち続けているのだが、その魂は水瓶に影を落とすいちりんの蓮のようにあやういものなのではないだろうか。「すいびょう」と読ませることで、研ぎ澄まされた空気が走る。

十月の朝(あした)に殻を脱け出でし蟬ありあはれ世に遅れたる

 蟬は、蟬としての生涯を全うしているだけなのだが、人間界の季節では遅すぎた。人間にもあるはず、時代に合わずに生きづらさを抱えている人。

この日ごろ馬酔木が花をつけたるを君に言はむと思ひて言はず
  
 「馬酔木が花をつけたよ」たったそれだけのことなのに言わない。気忙しさのなかで、言えなかったのではない。敢えて言わなかったのだ。それが、「馬酔木」だからか、読者は想像するしかない。「馬酔木」が、迷(まよい)木に通じている。

どぶ川にセリの花咲けり町裏をあゆむ朝(あした)のこころ閑(かん)なり
  
 結句の「こころ閑(かん)なり」が、虚ろな空間に鳴る音のようで絶妙である。

あらばよし無くともよしと言はば言へ軒陰の鉢に羊歯群れて生ふ

 「あらばよし無くともよしと」は、著者の哲学だと思う。この心持ちは、この歌集に貫かれていて、そんな佇まいで、何億年も昔から生き続けている羊歯というものに畏敬の念を持っているのも確かだ。
 
深き夜に何度も聞こゆ〈ホームとの間が広くあいてゐます〉と
  
 「ホーム」は家庭だろうか。「老人ホーム」とも読める。昼間に聞いたアナウンスがリフレインのように著者の闇に響いてくるのだ。

今宵また酒を飲んでゐる今飲んでおかねばといふやうに飲んでゐる

 突然の災害や、病疫によって、私達は一瞬に未来を奪われてしまうという危うさをもって生きている。「飲んでゐる」の繰り返しが、今生きていることの実感として伝わってくる。

京(みやこ)より石山寺まで文(ふみ)を持(も)て小舎人童(こどねりわらわ)けふ二往復

 小舎人童(こどねりわらわ)は、公家や武家につかわれて身辺の雑用をつとめた召使いの少年だという。長い距離を一日に二往復、文献でしか知ることのできない内容を、時代特有の呼称を巧みに使っていて印象に残った。

 さて、最後に、歌集名ともなった次の一首がある。

つまびかむ三味線(しやみ)は無けれどとつくりの酒をとぷとぷ鬼との宴

 主体にとって、「鬼」とは、どんな存在だろうか。自らのなかに棲む「鬼」、あるいは、私達人間がつくりだした、現世のありとあらゆるところに棲む「鬼」・・
 いずれにしても、著者の向き合い方は、次のような身構え方である。

宇宙より来たる男のいつしかに馴染みてただの男となりぬ

このままでよいかと問はれそのままでよいと答へぬ あんぱんひとつ

 「あらばよし無くともよし」は、著者の哲学だと、先に書いたが、ここにきて、それは「ひとつのあんぱん」として、著者の胸のすくような心地よい生き方を読者に示してくれた。

金川宏歌集『アステリズム』を読む

 予測変換にたっぷりと浸っている日常のなかで、この『アステリズム』は、その予測変換的なものをことごとく裏切って、バッサバッサと切り捨て、その意表のついた切り口を、あらゆる方向から晒して見せてくれたという感じがする。
 平凡に着地はしない。どこまで、飛翔するかわからない。時代もわからない。国も、名称も、人称もわからない。
 ただ、『アステリズム』の世界で、駅や図書館や、楽器、人体までもが容赦なく燃やされ、終末的な滅びの予感さえ見えてくる。だからと言って、そのことに嫌悪感を覚えることはない。むしろ、その滅びに対して、憧れに似たものを感じているのも不思議だ。日々、日常に、私達は、たたき壊したいもの、燃やしてしまいたいものを、裡に秘めているということだろうか。

びしょ濡れの葉書が届いている五月いつかその森にころされにゆく

 びしょ濡れの葉書は、通過儀礼だろうか。誰にでも必ずおとずれる死、その予感というものを、こんなかたちで受け取ったとしたら・・。「ころされにゆく」という、衝撃的な言葉も、ひらがなでひらいたことにより、自らが「死」を迎えにゆくような静かな決意めいたものを感じる。

そのオノで、と言いかけてみずをしたたらせ動かぬ森よ ならばわたしが

 上の作品に呼応した一首。私の命を奪おうとしている森よ、お前が手を下さないなら、私自らの手で・・。森には抗えぬ不動の対象が棲んでいて常に、主体の前に立ちはだかっているように思う。

水草にくるぶしをゆるくつかまれて人生という金色の午後

死んでからも木の葉のように吹き溜まる音符よそんなに鳴らされたいか

人体はやがて落葉にみたされて火を放たれる刻待つ器

覗き穴にくずれゆく雲とざされて玄関はあふるるまでのあかね

 晩年という言葉がある。冒頭に書いたように、『アステリズム』には、著者の人称は、全く語られない。ただ、上掲のような作品に、人生の黄昏の時代を生きる人間の息づかいを感じることができる。

くさなかに経帷子のこがねいろほろびてそれが風であること

えいえんのほうから吹いてくるかぜにきみの楽譜(スコア)をめくらせている

封筒のうちがわをひゅると風はゆきなんてさびしい楽器だきみは

駅は燃え寺院は沈み思ひ出のやうに風吹く 帰らうかもう

 『アステリズム』には、風が頻出する。『アステリズム』のなかで、風はありとあらゆる方向から、様々な強さで、主体の身めぐりを自在に行き来する生きものである。風の表情や動きによって、主体のこころの動きががつぶさに伝わってくるのが凄い。

十一月の類語辞典と、もうひとつ必要なのは燃え上がる図書館だよ

朝、みずびたしの部屋あんなところからも哀しい音が降ってくる

 『アステリズム』では、冒頭に書いたように、様々なかけがえのない物が燃やされ、水浸しとなる。それは、逃れることのできない人類の運命的な事象とも考えられる。しかし、それだけではなく、もっと、日常にある心象なのかもしれない。拘り続けているもの、固執しているもの、それらから解き放たれたい願いなのではとも思えてくる。
 そういう意味から言って次のような作品は、事象をある程度捉えることができる作品だ。

猫以外みんな病んでる 惑星をひとつつぶしてしまうまばたき

ヒトハヒトヲコロシテキタソシテコレカラモ 三月、黄と青やがて漆黒

その瞳に映り込んだものをみよ駅ピアノに帰還兵が叩きつける指

帰り着いた家に家はなく巨大化した犬が涎を垂らして待っていました

思い出は(郵便的に吹く風と末黒野に燃えのこるオルガン)

何処へ翔つ風もあなたもだれかれもきらきらとして鶴折るまひる

 ここにも、「風」が、表現世界の指揮者のような役割を果たしている。国として、民族として、戦火に埋没してゆく様が、戦争という言葉を使わずに、慟哭のように伝わってくる。

どこにもない季節に逢ひに行つたまま もしやけふ母を見かけませんでしたか

崩れやうとする波がしらにきいてみる もしやけふ母を見かけませんでしたか

   「母」は、何のメタファだろうか。主体のなかで、毀し続けてきたもの、失ってきたものからの、再生への灯火なのではないだろうか。
毀し続けるだけでない、これからの主体の再生について、次の二首が語りかけてくれる。

だいじょうぶという言の葉がすこし先のさくらの途を照らしてくれる

わたしではないものを絶えず書き換えてロングトーンに揺れるゆうすげ

 最後に、歌集名ともなった『アステリズム』について、次の作品がある。

幾世の伽藍ことごとく燃え 光球のcresc.(クレシェンド)の果てのアステリズム

 消失と再生を繰り返し、人類の長い歴史は編まれてゆく。星群の歴史もまた・・。その中で、塵ほどにもない私達ひとりひとりではあるが、そのなかにも宇宙はあり、とてつもない消失と再生を繰り返しているということをあらためて思った。

 印象に残った作品で、触れられなかった作品を次に残しておく。

星の布置考えている 静かな生活 ジェラ紀の端っこで切手を舐める

韻を踏むように九月の汀ゆく 水雪駄 雲のにおいを嗅ぎて

重力はこんなにもとおくて冬の鏡に象使いがしまいこむ天球儀

劇中劇をチェンバロの雨とおりすぎかたほうの翼をゆっくりはずす

十六分休符があるような気がする 雷を身ごもる都市は鍵盤

射干玉(ぬばたま)の黒洋傘(かうもり)をひらきゆく真昼屋上におひつめられて

靴二槽まぼろしのごとたつみづに冬の星座はつながれてをり

あえかなる胸の朱実を啄ばめる百のみだらな鳥部屋に飼ふ

くらぐらとひきあげられてこれの世に釣瓶は白銀(ぎん)のみづ滴らす